四幕「自分らしさを隠すマスカレード」

第1話 私のせい

 ひぐらしの鳴き声が校舎を包み込んでいる。先週まで梅雨模様だった気温は、助走の一つもすることなく、猛暑日にまで上昇した。カラカラの砂漠のような廊下を、放課後に一人で歩いているのは、パソコンルームに忘れ物をしてしまったせいだ。


 筆箱がないことに気づいたのは、六時間目が始まってから。五時間目は体育だったため、筆箱を忘れていることに気づけなかった。休み時間であれば、パソコン教室の鍵も空いていただろうに。放課後になってしまったせいで、わざわざ職員室まで鍵を借りにいかなくてはならなかった。


 普段は多くの文化部が部室として利用しているこの棟も、期末試験期間に入っているため、蝉しぐれに目を瞑れば、やけに静かだ。三階の窓から見下ろした正門の広場には、ぞろぞろと帰っていく生徒たちが見えた。真っ白なシャツから覗く若い肌が、山を照りつける太陽の光を反射している。


 テスト明けのイベントに向けたジャズ研の仕上がりは、恐ろしいくらいに順調だった。学年問わず、コンボに合格するため、それぞれが練習を頑張り、またビックバンドの演奏も定例セッションのたびに良くなっていた。


 愛華とすみれの関係も徐々に軟化してきたらしく、演奏のことに関して、言葉も交わすようになってきていた。本当は日常的に仲良くしてほしいのだけど、愛華の性格上、それは難しいのかもしれない。彼女たちにはまだ二年以上の時間があり、経過する日々が縮めてくれる距離感だってあるはずだ。


 パソコンルームの鍵を開け、使用していたデスクに置かれた筆箱を回収する。六時間目も授業があったのか、水色のカーペットは若干ひんやりとしていた。戻ろうと、顔を上げれば、同じ方向に並んだ黒いスクリーンに映し出された何人もの自分と目が合った。


 それでも問題は何一つないわけじゃない。このひと月、ずっとみなこの頭から離れない気がかりはやはり桃菜だった。


 部活に顔を出す時間も増えた。それはイベントが近づくにつれ、根本的に定例セッションの数が多くなっているからかもしれないけど。桃菜の顔を見る機会が増えていることが、根底が解決していない問題に薄いベールを掛けて、あたかも改善しているように思えてしまっていた。


「みなこ先輩」


 突然、声を掛けられた拍子に手に持っていた紺色が手からこぼれ落ちた。カーペットの上で、ジーンズ生地の筆箱が二度ほど弾む。


「すみません。職員室のところでみなこ先輩を見かけたので……」


「ううん、大丈夫。でも、見かけたからって? 佳乃ちゃん、どうかしたん?」


 屈んで筆箱を拾い上げながら、みなこは視線だけを扉の付近に佇む佳乃の方に向けた。夏の柔らかな空気を撫でるように、彼女は白い扉に手を添える。落とされた視線の先には、カラフルなパソコンのコードが束になって、教師用の大きなデスクから床下に向かって伸びていた。


「あまりこういうことを聞ける先輩が他にいなくて」


「こういうこと?」


 何か相談ごとだろうか、とみなこは立ち上がりながら、先輩の威厳をなるだけ隠した仕草で首を傾げてみせる。自分に先輩としての威厳なるものがあるかは甚だ疑問だけど。一年生と仲良くして距離を縮めているのは、こうした相談ごとを後輩たちが気兼ねなく出来るようにという思いを込めてだ。


 佳乃がその作為的な理由に気づいて自分を利用しているかどうかは分からないけど、こうして彼女が自分に声を掛けてくれたのは、春先からの接し方が間違えていなかった証だろう。


「みなこ先輩は、灰野さんとすみれちゃんのことを上手く取り持ってくれてましたよね」


「結果的には、そうなったんかな?」


「だから、みなこ先輩しか頼れなくて」


 か弱い色の瞳に頼りのない自分が映り込む。手の中でごそごそと暴れる筆記用具が、緊張感を知らせてくれた。


「どうしたのか、聞かせてくれる?」


「はい」


 とはいえ、テスト期間の放課後に、パソコンルームに留まり続けるわけにもいかず、佳乃を自宅へと招くことにした。いつもの喫茶店でも良いかと思ったが、夏休み前で少々、お財布が寂しかった。向こうは気を使うかもしれないけど、同じ地元なのだから、帰りだって楽なはずだ。


 *


「飲み物、麦茶で良かった?」


「すみません、わざわざ」


「ううん、ゆっくりして」


 ローテーブルを挟んで正座をしている佳乃に足を崩すように促す。お盆の上に乗っている来客者用のガラスコップは、キッチンから自室までのほんの僅かな時間ですっかり汗を掻いていた。


「それで、佳乃ちゃんの頼みって?」


 冷房が効き始めの生ぬるい室内に、太陽の熱が残る息を溶かす。目の前で行儀よく座る後輩の肩をほぐしてやるつもりで優しさを込めて。


 みなこの不器用な優しさは伝わらなかったのか、少しぎこちない仕草で、麦茶を一口含み、佳乃は重たそうな背筋をしゃきっと伸ばした。


「桃菜先輩のことです」


 グラスの中の氷が音を立てて崩れていく。ベールに包まれていたものがむき出しになった。そこにあったのは、崩れそうな何か。それが目の前に聳え立って、視界を塞いだ気がした。


「花と音楽のフェスティバルが終わったあとだったかな。佳乃ちゃんが笠原先輩のことを心配しているって話はすみれちゃんから聞いてたよ」


「そうでしたか。すみれには以前に少し話たんです」


 すみれとのやり取りを隠している意味はさほどない。何もかも知らないフリは、話を遠回りさせるだけだ。みなこが自ら気がついたことにしても良かったが、すみれの話なしに、佳乃の不安に気づけたかは定かじゃない。


「笠原先輩のことを気にしているのは私達も一緒。あんまり部活に顔を出してないし、心配なのは分かる。やけど、三年生は受験とかで忙しいみたいやから、色々やらなあかんことあるんちゃうかな?」


「それはそうなんでしょうけど」


 おっとりとした眼の輪郭の中に浮かぶ、柔い佳乃の真っ黒な双眸。そこに焦げ茶色のグラスが光る。温度の違う液体が漂い混ざり合うように、瞳の中で不満がもやもやと渦を描いた。


「先輩方は、桃菜先輩は大丈夫やと思われてはるんですか?」


「一番、実力もあるし、一年生の頃から大会に出てる。去年だって、個人賞を取る活躍をしてくれた」


 少なくとも、その実力を信じるしかない、というのが上級生たちの考え方だ。だから、誰も桃菜に対して言葉をかけないし、特別なアプローチをすることもない。彼女ならば、自分の中で問題を解決して、本番ではいつもの素晴らしい演奏を披露してくれると信じている。


「佳乃ちゃんは、笠原先輩のことまだよく知らんから信じられへんのも分かる。でも、笠原先輩の実力を信じてみて」


「私は桃菜先輩のことを何も知らない、……ですか、」


 しゃきっと伸された佳乃の背中が僅かに揺れる。テーブルの下で組んだ指先に力が込められているのが分かった。その手に注視していないふりをして、みなこはこちらを向く佳乃の瞳を見つめ続ける。


「それは先輩たちの方なんじゃないですか?」


「私たちが?」


「先輩たちは桃菜先輩のことを何も見ていません」


 そんなことはない、という否定の言葉はみなこの口から出ることはなかった。佳乃に偉そうに言えるほど、自分は桃菜のことを何も知らないし、交わした言葉も多くはない。


「先輩たちは、原因を何も見ていません」


「原因って、笠原先輩の不調の?」


「そうです」


「里帆先輩や美帆先輩が手を出さないってことは、それが分からないからちゃうかな。笠原先輩はあまり人に話をするタイプじゃないし」


「それならなんで、そんな状態で『信じる』って言ったんですか」

 

 息が詰まった。信じるという言葉を容易に使った自分が浅はかだと思ったから。それは信じているのではなく、そうであって欲しいだけのただの押しつけだ。何を考えているか分からない桃菜を敬遠して、願望のまま見てみないふりをしていただけ。いつのまにか自分たちは、桃菜の圧倒的な実力が、完璧なものであって欲しいと願ってしまっていた。


 けど、目の前で表情を強張らせている後輩は違う。佳乃はこの数ヶ月間、桃菜のことをちゃんとフラットに見てきた。無口で傲慢で、圧倒的な実力で周囲を黙らせる笠原桃菜という人物を、先入観などなしでより近い位置から接することが出来ていた。


 自分たちが目を瞑っていたものを、見ようとしていなかった部分を、佳乃は見ていたのかもしれない。


「佳乃ちゃんは、笠原先輩の不調の原因に気づいてるん?」


 少し間があって、佳乃が頷く。ぷっくらとした唇が、わずかに開いて部屋中に満ちた冷気を吸い込んだ。


「きっと私なんです」


 思いがけない佳乃の言葉に身体が固まる。脳からの信号が完全にシャットアウトされて、息の仕方まで分からなくなった。佳乃が発した言葉の意味を理解しようと努めたけれど、酸素が回らなくなった脳では上手く処理されず、言葉だけが意味を失って、麦茶に浮かぶ氷のようにプカプカと脳内に浮かんでいた。


 まるで殺人犯の自白みたいな刺々しい言葉を、佳乃は少しだけ柔らかくして、確かめるようにもう一度呟いた。


「自分のせいかもって思うんです」


「ごめん、佳乃ちゃん。なにが?」


 困惑を露骨に顔に出しながら、みなこは手を前に突き出した。佳乃は表情を崩さない。


「桃菜先輩が部活に来ない理由、不調の原因、がです」


「どうして?」


「トロンボーンの唯一の先輩なので、とにかく仲良くなりたかったんです。桃菜先輩は大会でも賞を取られるくらいの実力もあるし、ジャズ初心者の私でも上手く演奏できるように、色々教われることも多いと思って」


 紡がれる佳乃の言葉をなるだけ逃さないように、みなこは懸命になっていた。けれど、どうしても上手く飲み込めない。重たい頭を抱えるように額に手のひらを押し付けて、「待って」とみなこは佳乃の言葉を制する。


「佳乃ちゃんは笠原先輩の不調の原因を話してくれてるんやんな?」 


「はい、私は仲良くなりたかったんです」


 繰り返された桃菜の不調の原因とは思えない言葉に、みなこはローテーブルに肘を付き、そのまま頭を抱え込む。


「ごめん、もっと分かるように説明してくれる? 佳乃ちゃんが仲良くなろうとすることと笠原先輩の不調がどう関係しているのか」


「私は嫌われてるんじゃないかなって」


「笠原先輩はあまり人と話すタイプちゃうからそう思うだけ。私だってあんまり話したことないし。仲良くしてるのは、美帆先輩くらいやで」


「だからですよ。私がくどく話しかけたりしたから、桃菜先輩は顔を出すのが嫌になったんじゃないですか。セッションの時だけ来ているのだって、個人練習だと私に声をかけられてしまうから……」


 桃菜が後輩からの積極的なコミュニケーションを嬉しく思う方でないことは、想像に容易いけど、そんな理由で部活に来なくなり、さらには不調に陥るものだろうか。生活の中で嫌なことの一つや二つあるのは当然で、それが演奏に全く影響を及ぼさないと言えば嘘になる。メンタル面の小さな綻びが細やかな音の違いに繋がるのは当然なのだ。


 けど、今の桃菜の状況はもっと複雑で深刻なものに思えた。


「佳乃ちゃんの言いたいことは分かった。けど、やっぱり、それが原因だとは思えない。私が認識している範囲で言えば、佳乃ちゃんが笠原先輩に対して、無茶なコミュニケーションを取っていたようには思えないから」


 仮に、佳乃が桃菜に対して、あまりにくどく乱暴なコミュニケーションを取っていたなら、桃菜の不調も理解できるし、佳乃の自白も受け入れられる。けど、こうして反省の色を出す行儀の良い後輩が、そこまでエスカレートした行為を行っているようには思えなかった。


「そうやろ?」


 みなこの問いに佳乃は少しだけ不服そうに頷いた。 


「やから佳乃ちゃんが気を病む必要はないと思う」


 気が付かないうちに後輩を黙らせるため、先輩の風格を自分が匂わせていることに気づいた。態度や言葉といった姑息なやり方で。いつもとは違う、らしくない自分を誤魔化すように、みなこは下手くそな笑みを浮かべる。


「もうこんな時間か。テスト勉強も大変やろうし、今日はそろそろ」


「すみません、長居して」


「ううん。また今度は遊びに来てね」


 佳乃の頼み事を、みなこはあえて具体的には聞かなかった。桃菜をどうにかして欲しい。それが彼女の願いだったはずだから。分かっていながら、そこから目をそむけるのは、きっと悪い先輩だ。


 佳乃は残っていた麦茶を飲み干すと、立ち上がり、座ったままのみなこに一礼をした。それからドアノブに手をかけたところで、振り返って、絞り出すように言葉を漏らした。


「桃菜先輩は合宿に来ますよね」


「オーディションやイベントもあるし。美帆先輩がちゃんと連れて来てくれるはず」


 他人任せなみなこの言葉に、佳乃は頷くことはなく部屋をあとにした。

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