第8話 ミーティング

「それではミーティングを始めていきたいと思います」


 予定されていた時間よりも十分ほど遅れて、緊急ミーティングが始まった。もともと、ざっくりとした時間しか告知されていなかったため、誰も遅れてやって来た部員を咎めるものはいない。


 定例ミーティングと同様、司会役である里帆がこちらを向き、大樹はまだホワイトボードに板書を行っていた。


「一年生らは、ミーティングは初めてやと思うけど、今日みたいに連絡がある時や定例セッションの前なんかにやることが多いので覚えておいてください。用事があってどうしても参加できない時は、セクションの先輩でも同級生でもいいので、ちゃんと連絡をしておくこと」


「はい」


 一年生の揃った返事を聞き、里帆は首だけをホワイトボードの方に向けた。大樹が必要事項をほどなく書き終えたところを見て、一つ空咳を飛ばした。


「では、本日のアジェンダやけど」


 聞き慣れない横文字にみなこは首を傾げる。誰も聞き返さないのは、知っているからなのか、知っているふりをしているからなのか。直後の里帆の言葉からなんとなくニュアンスを察して、みなこは再びミーティングへと意識を戻した。


「五月の下旬に行われる『花と音楽のフェスティバル』の詳細、またそれに伴うオーディションの日程についてです」


 オーディションという言葉に、一年生がほんの少しざわつく。と、言っても話し込んでいるのは、仲の良い、つぐみ、佳乃、すみれの三人だ。愛華と竜二は、静かにホワイトボードの方を見つめていた。


「オーディションは、五月の上旬で一年生部員を対象に行います。……つまり二週間後の日曜日やな。どういった内容かと言うと――」


 宝塚南のジャズバンドは、ビックバンドとコンボに分かれていることや、今回のオーディションは、ビックバンドに参加出来る実力があるかどうかを見定めるものであることが説明された。


「オーディションまで二週間、さらにそこから本番までは三週間やから、現段階である程度、演奏できていないと今回の合格は厳しいと思います。やから、あまり結果は気にしすぎずに。初心者の人は一日でも早くビックバンドに入れるように頑張ってください」


 オーディションに関して質問はありますか? と里帆が問いかければ、三列に並んだ座席の最前列に座っていたすみれがおずおずと手を上げた。


「一年生でも今回のオーディションは合格することもあるんですよね?」


「もちろん。去年は、大西ちゃん、谷川ちゃん、井垣の三人が合格してるで」


 すみれが名前の挙げられた三人の方を見遣った。レンズの向こう側には、尊敬の眼差しが輝いていて、見つめられた三人は少々照れくさそうに同じ表情で微笑んだ。ちなみに、二年生らは最後尾に位置している。席順は決まっていないのだけど、毎年、始めのミーティングで座った席が定位置になることがほとんどだ。ミーティングを休む子はほとんどいないため暗黙の了解で決まっていく。


「お三方ともジャズの経験者だったんですか? クラシックをやっていたので、演奏は出来ますけど、アドリブだとかはまだ……」


「うーん。井垣はジャズの教室に行ってたから抜群に上手かったけど、他の二人は、ジャズは初めてやったよな?」


 里帆の問いに七海と奏が頷く。七海は里帆の質問にしたり顔だ。


「今回のイベントでは、ちゃんと音が出せているかを主に見ているから、アドリブだとか小難しいことはまた後々。もちろん出来るに越したことはないけどね。楽器経験者の子は、たくさんジャズに触れて、秋の大会で戦力になれるように頑張って欲しい」


 里帆の回答に安心したのか、すみれは「はい」と穏やかな返事と共に頭を下げた。お礼の弁は述べなかったが、そういう感情が短い返事に込められていたようにみなこは感じた。


「引き続いて、イベントの説明に入ります。『花と音楽のフェスティバル』は、毎年、宝塚の末広公園で行われているお花の展覧会です。食べ物の屋台に、お花の苗や植木を売るお店が軒を連ねて、メインステージでは終始、音楽やダンスと行ったパフォーマンスが繰り広げられます。例年、子ども連れからお年寄りまで老若男女問わずに楽しめる愉快なお祭りです! 一年生で行ったことのある人はおる?」


 仲の良い三人が顔を見合わせる中、ワンテンポ遅れて愛華が控えめに手を上げた。


「灰野ちゃん、行ったことあるん?」


「両親が、花が好きらしくて。家も近いので。去年も行きました」


「ほんなら、私たちの演奏を聴いてくれてたん?」


「すみません。出向いたのは午前中だったので、去年は見れてないです」


「そっかー、私らの出番は最後の方やったもんな」


 気にしないで、と里帆は表情を明るくした。あまり馴染めていない後輩への気遣いだろうか。


 思えば、去年の佳奈に続き、サックスセクションには気難しい子が連続で入って来ている。里帆が佳奈のことを「井垣」と呼ぶのに対し、愛華のことを「灰野ちゃん」と呼んでいるのは距離がまだ詰められていないせいだろうと思った。


「そのイベントに宝塚南は例年参加していて、今年も招待されたわけです。演奏する曲は、ビックバンドとコンボ、それぞれの構成で一曲ずつの合計二曲。コンボの方は上級生だけで組もうと思うけど、さっきも言った通りビックバンドははオーディション合格者の一年生も参加して貰うから」


「老若男女問わず人がいるって言ってたっすけど、お客さんって多いんですか?」


 不安そうに訊ねたのはつぐみだ。心配しなくてもつぐみがステージに上がれるのはまだまだ先なのだけど。もちろん、劇的に向上して、再来週には……、なんてことは余程の天才じゃない限りあり得ない。


「ステージの前は花壇になってるから、まじまじとステージを観るお客さんはそれほど多くないかなぁ。小幡ちゃんは緊張する方?」


「……少しだけ」


「そっか。経験を積めばそのうち、……と言いたいところやけど、緊張ばかりはどうしようもないからなぁ」


 里帆の目が七海の方を向く。「うちだってマシになってきてますよ! なんたって、最近は緊張を楽しめていますから!」と、頬を膨れさせながら七海は自慢げに声を上げた。 


「諦めることをやっと覚えてきたって感じやな。どれだけ上手くなっても、誰もが本番前は緊張するし、それを楽しめる術を身につけんとあかん。緊張することは、本番が近づいて気持ちが乗ってきている証拠でもあるから」


「はい!」


 つぐみの元気の良い返事が、心地よい空調の聴いたスタジオに響く。


 緩やかな空気が流れたのを見て、「選考曲の話を」と空咳混じりに大樹が脱線した話をしゃんと正した。


「おっと、そうやった」


 気を取り直した里帆が、椅子の上に置いていたプリントを取って大樹に手渡した。丁寧にホッチキス留めされた楽譜を、大樹は前列に座る一年生から配り始める。


「いま配って貰っているのが、今回の花と音楽のフェスティバルで演奏する楽曲です。コンボ曲が、リチャード・ロジャースの『My Favorite Things』、ビックバンドの曲が、レンブラント・ファン・フンテラールの『私は虹の麓を探さない』」


「二曲目は邦題ですか?」


 勤勉なめぐが楽譜を見て、素朴な疑問を口にする。一曲目の『My Favorite Things』は、ジャズのスタンダードナンバーだが、二曲目は作曲者も曲名も聞いたことのないものだった。


 ここぞとばかりに、みなこの前に座っていた美帆が席から立ち上がり、すっとホワイトボードの前まで出ていく。相変わらず里帆と同じ髪型だ。高めのポニーテールを留めているゴムは、里帆が緑で美帆がピンク色だ。


「ううん。これは原題。作曲者のフンテラールさんは、日本在住のジャズ・ミュージシャンやから」


「初めて聞いたお名前です」と、めぐがツインテールを揺らしながら顔を上げた。


「あまり有名な人ではないからなぁ。彼自身はサックス奏者やけど、そこではあまり評価されてなくて。彼が評価されているのは、作曲家としての側面! CM曲からJ-pop、映画のサウンドトラックまで幅広く活躍してるから、中には聴いたことのある曲もあるかもしれんな」


 ここまで一息で美帆が説明を終えると、里帆が嘆息を溢した。一年生は見慣れない光景だろうけど、上級生にしてはいつも通りの流れだ。そのまま解説のバトンを里帆が受け取る。


「この曲は、十年前に発表された彼のオリジナルアルバムに収録されてる曲。仙台を拠点に活動している彼は、このアルバムの売上を慈善活動として寄付していたらしい。当時の彼はまだ若くて、今ほど仕事もなかった上、彼自身も苦しい状況にあったはずなのに、中々出来ることじゃないよな」


「ちなみにこの曲には洋題もついていて『I don’t seek at the end of the rainbow』とそのまま。麓を探さないっていうのは、ちょっとネガティブなタイトルに思えるけど、彼自身も苦しみの中にいた状況で、生きていくためには、存在しない希望よりも上を見上げれば確かに存在している希望を忘れずにいよう、って思いが込められてるんやと思う。いつか人々の心の曇りも晴れて、虹が掛かりますようにって思いもあったかもね。穏やかなメロディからは、仙台の澄んだ水色の空が思い浮かぶよ」


 里帆がスマートフォンを操作すれば、スピーカーから曲が流れてきた。トランペットとトロンボーンの柔らかな掛け合い。ジャズという印象を大きく崩さない中で、クラシックのような壮大さと胸を締め付けてくるような切なさがあった。


 美帆の言う通りの情景が思い浮かぶ。澄んだ空と心地の良い風。鼻をかすめるのは、遠くから運ばれて来た潮の匂いだ。彼は海から近い場所に暮らしていたのかもしれない。


「静かさの中を抜けていくトランペットが心地いい素敵な曲ですね」


 しみじみとめぐが呟く。みなこも似た感想を抱いたけど、同時にこの曲を演奏することの難しさも感じた。


 決してテンポが早いわけでも、際立つほどの高度な技術が使われているわけでもない。ただ、どこまでも穏やかでシンプル。けれど、確かにこの曲のメロディには、七色の鮮やかな色があった。


 上級生が神妙な面持ちになったのを、すみれは見逃さなかったらしい。


「どうしました?」


 不安げな後輩を安心させてあげようと、めぐが強張っていた面差しを無理やり柔らかいものに変えた。


「この曲を秋の大会で演奏する可能性が高いから。なかなか攻めた選曲やなって」


「これを大会で?」


 クラシックを長年やって来たすみれには、この曲をチョイスする難しさが良く理解できたらしい。曲が単純であればあるほど、演奏者自身の腕前が試される。高度な曲であれば、もともと飛ぶべきハードルが高く、それを超えるのに精一杯になれば良いのだが、単純な曲では、そのハードルを自ら高く設定しなくてはいけない。音の一つ一つの精度、アドリブのユニークさ、バンドの一体感。それはとても繊細な作業になる上に、限界がない。


「あくまで可能性やけどな。決まってるわけじゃない。例年、このイベントで選ばれた曲を持って大会に挑むのが定番っていうだけ」


「頑張ります」


 すみれが噛み締めた唇は、艶を残したまま白く染まっていく。その言葉と細い眼鏡のフレームの奥で輝く瞳に宿っているのは、秋の大会でこの曲を演奏する覚悟と自信だ。


 すみれの言葉にめぐが気圧されていたように見えたのは、みなこの気のせいだろうか。みなこの勘違いだと言わんばかりに、彼女の面差しは、やる気溢れる後輩の若さを羨ましくも微笑ましく思う優しい先輩の笑みへと変わっていった。


「頑張ってな」


「はい!」


 すみれに激励を掛けたあと、めぐは何やら佳奈に話し始めた。七海と奏が間にいたため、みなこには会話の内容は聞こえなかったけど。ヒソヒソと話しているため、中身を聞き出すのは失礼だと思い、みなこは気づかないふりをする。


 ざわざわと私語が増えてきたところで、里帆が一つ手を叩いた。


「大会直前は中間テストもあるから学生の本分を忘れないように。補習なんてことになったら部活出来なくなるからな」


 里帆の忠告に一番大きな返事をしていたのは、数学に絶対的な不安がある七海だった。

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