第2話 仮入部員

「誰か入ってくれますかねぇ」


 ドラム椅子の上で腰をくねらせながら、七海が不安に苛まれたように言葉を濁らせた。腰元の動きに反して、七海の頭部が固定されているのは、背後から杏奈がつんとハネた七海の髪を面白そうにいじっているからだ。持ち上げたり押し付けてみたり、七海は嫌がる素振りもみせず、猫のような仕草で喜んでいる。


 新歓ライブも終わり、現在は四月の半ば。仮入部期間が設けられている宝塚南では、どの部活も新入生を獲得しようと躍起になっていた。けれど、ジャズ研は未だに仮入部の生徒が姿を見せていない。


「うちは今年も新入生がそれほど多くないからなー」


「ボーッとしてたら、他の部活に取られちゃいますよ!」


 七海の心配を、みなこは良く理解できた。宝塚南の入学者数は、公立高校の中では多い方ではない。今年の新入生は四クラスらしいから、百六十人くらいだろうか。部活に所属するのはその半分ほどだろうから、それなりにある部活がこの八十人を奪い合うことになる。


「校内での勧誘は禁止されてるから、慌ててもどうしようもない。なんだかんだで、入ってくれる子はおるって」


「美帆先輩、なんでそう言い切れるんですか!」


「だって、昨日の新歓ライブすごく良かったやん?」


「確かに!」


 急に立ち上がった七海に驚き、うわぁ、と杏奈が後ろにのけぞる。危うく七海の頭頂部が杏奈の顎をヒットしそうになっていた。


「それにさ、例年、毎日何人も体験に来てくれるような部活じゃないから」


「そうなんです?」


「仮入部期間は二週間やろ? その間に十人くればええ方。つまり、日割りすれば一人にも満たないわけ。そのうちの半分くらいが入部してくれたら恩の字や」


 確かに去年、みなこたち以外の仮入部していた子たちを知らない。毎日参加していたわけじゃないから偶然会っていない可能性もあるけど。それに、と美帆が続けた。


「軽音楽部がないから、楽器やりたい子がひょっこり来ることも多いし」


「ほぉー、そんなパターンが」


 ぎくり、と心臓がなったみなこに対し、七海はどうしてか他人顔だ。一年前の自分たちを忘れてしまったのだろうか。

 

 もともとみなこと七海は、高校生になったらバンドを始めようと約束していた。けれど、入学した宝塚南に軽音楽部は存在せず、部活動紹介の掲示板を見て迷っていた時に、偶然居合わせた奏からジャズ研の存在を教えられた。さらに当時同じクラスだっためぐとも知り合い、四人でジャズ研に入部することが決まったのだった。


 去年の春の思い出が、掲示板に掲載されていたジャズ研のポスターを思い起こさせた。引退したサックスの先輩である東みちるが描いたポスターには、なんともいえない猫の絵が描かれていた。あの絵は、あまり人の気を引くデザインではなかったけれど、今年はどんなポスターを掲示してるのだろうか。


「そういえば、今年のポスターは誰が描いたんですか?」


「あーそれなら美帆が描いてくれたで」


 えーっとね、と杏奈がスマートフォンを操作し、画面をこちらに向けた。自分の絵が晒されるのを察したのか、「恥ずかしい」と美帆が少しばかり顔を赤くする。


「掲示されてんやからええやん」


「まぁ確かに」


 美帆の許可が出たのを確認して、みなこは杏奈のスマートフォンの画面に視線を向けた。同時に、無理やり覗こうと首を伸ばしてきた七海を、杏奈がスマートフォンを持っていない手で制した。「ふぎゃ」と間の抜けた声を出しながら、七海は大袈裟なりアクションで椅子に着地する。


「ほら、こんな感じ」


「おぉーカッコいいですね!」


 臙脂色を貴重としたポスターには、繊細なタッチで楽器の絵が描かれていた。ギター、サックス、トランペット。美帆には絵のセンスがあるらしい。思えば、クリスマスライブの時の看板も彼女が手掛けていた。みちるには悪いけど、去年彼女が描いたポスターよりも何倍も宣伝効果のありそうな一枚だ。


「うちにも見せてくださいよ!」


「ほらほら、慌てないー」


 杏奈が顎の下を擦ってやれば、七海は犬のように大人しくなった。ちゃんと「待て」が出来るとは偉いではないか、とみなこは心の中で毒を吐く。


「美帆先輩ってホント絵上手ですねー」


「もう」


 ふてくされたような顔を隠すように、美帆がくるりと身体を反転させたところで、部室の扉が開いた。「何照れてんの?」と入室して来た里帆が美帆を見て不思議そうに眉根を下げる。どうやら隠したかったのは、嬉しそうにしている顔だったらしい。


「別になんでも無いわ」


「あっそ。ほらー、そろそろ休憩終了、セッション再開するでー」


 手を鳴らす里帆の背中を睨む美帆の双眸は、どことなく嬉しさで染まっているような気がした。


 *


 翌日は、個人練習の日であるせいか、部員は半分ほどしか顔を出していなかった。三年生は週末に模試があるらしく、勉強が忙しいのかもしれない。また出席している部員も別の教室へ練習に出ているため、大スタジオでは七海と二人っきりになっていた。


「みなこは別の教室に行かへんの?」


「アンプ持って移動するの大変やんか」


「なるほどね」


「それに新入生が来るかもしれへんやん。誰かはここに残らなきゃ」


「うちがいるんやけど?」


 珍しく真っ当なツッコミにみなこは眉尻を上げる。七海一人じゃ頼りないから、という言葉は胸の中に留めておこうと思った。


「ゆえにちょっとくらい席を外しても心配しなくてええからな!」


「はいはい、信頼してますよー」


 心にもないみなこの言葉を七海は嬉しそうに受け止めた。自分から毒づいておいて、なんだが胸が痛む。心に思っていないことを口に出すのはどうも苦手らしい。嘘とまではいかない冗談でもチクチクと心の柔いところを突いてくる。七海が頼りないなんて、普段から思っていることだ。それを嫌味っぽく口にすると胸が痛むなんて、自分勝手もいいところだろう。


「あれ、お客さん?」


 七海のそんな声に、スタジオの扉が少し開いていることに気がついた。もしかすると! 慌ててギターをスタンドに置き、「どうぞ、入ってください」と声をかけつつ、近寄ってドアを開けてあげた。


「こ、こんにちはっす!」


 ドアを開いた瞬間、深々と頭を下げられて、みなこも思わず頭を下げた。それを見て、目の前で頭を下げる女子は、さらに頭を低くする。お互いに頭を下げる状況と、みなこの戸惑う姿が面白いのだろう。七海のケラケラと笑う声が、丸まった背中越しに聞こえた。


 頭を下げるみなこの視線の先にあったのは、緑色のラインが入った上履きだった。去年まで三年生が使用していたこのカラーは、三年生が卒業した今、新一年生に踏襲されている。つまり目の前の彼女は新一年生であり、みなこの予感は当たっていたということだ。


「あ、あの、自分、部活見学に来ました!」


「ほんとに! 歓迎するよ!」


「ありがとうございます! 自分、小幡こはたつぐみって言います」


 顔を上げた彼女は、その面差しを和らげた。肩に掛かる程度のボブ丈の髪は、片側だけ三編みになっていて、耳殻の上っ面に沿うように輪を描いている。随分と腰が低いのか、頭を上げたあと何度も小刻みに首の上げ下げを繰り返していた。素直そうな子だというのがみなこの所感だ。

 

「えーっと、一人かな?」


「そうっす! もしかして友達連れてこないとダメでしたか?」


「そういうルールはないから大丈夫やで」


 みなこがそう言うと、つぐみは安堵して息を漏らした。一人で上級生だけの部活に顔を出すというのは、やっぱり勇気のいることなんだろう。去年のみなこは、七海や奏たちと一緒に来ていたから、そういうハードルはなかったけれど。こうして顔を出してくれただけでも感謝をしなくてはいけない。


「ありがとうね」


「なんですか! 急に」


 緊張のあまり、思ったことをつい口走ってしまった。そりゃ急にお礼を言われると驚くか、とみなこは慌てて、「気にしないで」と付け加える。


 後輩に対するみなこの言動が可笑しいのか、七海はずっと笑い続けていた。無理やり聞こえないふりをして、みなこは目の前の後輩になるだけ良い印象を与えられるよう努める。


「つぐみちゃんは、どうしてジャズ研に?」


「新歓ライブを観ました! とっても素敵な演奏で感動したっす!」


「それで来てくれたんや」


「はい! 先輩たちの演奏を聴いて、絶対にジャズ研に入ろうって決めたっす!」


 つぐみはその言葉の節々を正確に、さらにハキハキと喋る。語尾は砕けた敬語になっているけど。感情を顔や体で表現するタイプでもあるらしく、先程からせわしなく表情が移ろい、握られた拳は激しく動いていた。その身振り手振りを見るに、そうとう感動してくれたらしい。


「特に先輩のギターが素敵でした!」


「えっ、私?」


「ギターを弾かれていたのは先輩でしたよね?」 


「うん」


「良かった、間違えたのかと思いました! 先輩の演奏、めっちゃ痺れました。バンドの演奏を生で聴くのは初めてやったんですけど、絶対に自分もこんな風になるんだって思ったっす!」


「あ、ありがとう」 


 捲し立てられる褒め言葉に、みなこは思わず照れが先行してしまう。照れ隠しで頬に触れる髪を指先で弾けば、背後から「良かったですね、みなこさん」、とお姉さんぶった七海の言葉が飛んできた。黙りなさいという牽制の意と気持ちの切り替えの意を込めて、みなこは咳払いを一つ飛ばす。


「それじゃ、つぐみちゃんはギター希望なん?」


「そうっす! 先輩みたいに演奏出来るようになりたいです!」


「えーっと。もしかして、ギターも初めて?」


「は、はい。……やっぱり、経験者の方がいいんですかね?」


「そんなことないよ。今の二年生の子にも初心者だった子はいるし、」


 せっかくの入部希望者を逃しては、なんの為にこの教室に残ったのか分からない。今年、最初の見学者に、ジャズ研は初心者にも優しいところをアピールしなくては、とみなこは気合を入れ直した。


「それに楽器室に貸し出し用のエレキギターがあるから、持っていなくても大丈夫。ギターを希望してくれるなら、ちゃんと教えて上げるし」


「先輩に直接教示して頂けるなんて光栄です!」


「私もまだまだやけどね。……それに、ギターは以前からやってたけど、私も去年までジャズは聴いたことがなくてね。一つ上の先輩に色々教わってん。ジャズを聴いたり勉強するようになったのも入部してから。やから、全然、初心者でも大歓迎! 先輩たちもみんな優しくていい人やから、きっと楽しいと思うよ」


「良かったです、安心しました!」


 なんとか好感触を与えることに成功したらしい。みなこが安堵から漏らした溜め息に気づかぬまま、つぐみは興味津々な様子でスタジオを見渡し、不思議そうに首を傾げた。


「そういえば、今日は他の部員の方は?」


「三年生は模試の準備が忙しいみたいで。他の部員は、それぞれが邪魔にならないように別のあき教室で練習してる」


「なるほどっす」


 傾いていた首を真っ直ぐに戻し、笑顔混じりにつぐみは頷いた。初めての後輩が彼女になるかもしれない、という期待感で、自分の内から優しさが無造作に製造されるのを感じた。


「つぐみちゃん、良ければやけど、ちょっとだけ弾いていく?」


「いいんっすか! あっ、でも友達を待たせちゃってるので、また正式に入部してからにさせて貰います。ごめんなさい」


「ううん。全然大丈夫、仮入部期間は続くし、いつでも遊びに来てね」


「はい!」

 

 その友達もジャズ研に誘って欲しい、と思うのは望み過ぎだろう。だって、つぐみはこんなに素直でいい子なのだ。深くお辞儀をして、彼女は部室をあとにした。あの子がギターに入ってくれたら嬉しいな、そんなことを考えながら、みなこは去りゆく新入生の背中に小さく手を振った。

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