第五楽章「自分らしさのない音楽会」

プロローグ

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 ノックはしなかった。言われずともそうするのに、「部屋で待っていて」と美帆に頼まれたから。これは美帆の家へ遊びに来た時のいつもの流れだった。彼女は遊びに来た客人に紅茶を入れてやることに凝っていて、桃菜が来る時も必ずアールグレイとお茶菓子を準備してくれる。どうしても淹れたてを飲ましてやりたいらしいから、一人部屋で待つ時間が生まれるのは仕方のないことで、桃菜はその時間が決して嫌いではなかった。


「あれ、もう約束の時間か」


「自習中?」


「ええって、もともと二人が約束してたんやし」


 てっきり誰もいないと思っていた部屋には里帆がいて、桃菜の入室と同時に、彼女はうっかりしていたと言わんばかりに明るく喉を鳴らした。美帆と遊ぶ約束をしている日は、里帆はなるだけ部屋にはいない。気を使ってくれているのか、避けられているのか。おそらく前者だ。


「ほら、私は、リビングでも出来るタイプやから」


 聞いてもいないことを言い訳のように発しながら、学校の指定物じゃない参考書と筆記用具を手に、里帆が二つ並んだ勉強机の一つから立ち上がる。


 明るさと気兼ねの無さを大袈裟にアピールするように揺れるポニーテールを結ぶゴムの色は、玄関で美帆が付けていたものとは別の色。でも、その臙脂色は先週末、美帆も着けていたことを桃菜は知っている。


「ゆっくりしていって」


「うん」


 淡白な頷きで返した桃菜に、里帆はやけに満足げな笑みを浮かべた。美帆に似た表情が、やけに親しみやすく、つい心を許してしまいそうになる。


「ありがと」


 以外な言葉だったのか、里帆の眉根がわずかに持ち上がった。


「やから、かまへんて」


 つん、とした言葉は照れ隠しのサインだ。その辺りは美帆に似ているから分かりやすい。恥ずかしさをごまかすように、扉の前に立ち尽くしていた桃菜の肩を指の先で突いて、里帆は足早に自室をあとにした。

 

 部屋に一人残されて、桃菜は美帆のベッドに持たれるようにカーペットに腰を落とす。同系統のインテリアでコーディネートされたこの部屋は、ベッドと机が対になっている以外、二人部屋であることを悟らせない。けど、よく観察すれば二人の趣味が入り混じっていることに気がつく。


 深緑のカーテンは美帆の趣味だ。木製の文字盤の掛け時計も、ローテーブルの上の花柄のクロスも、このウール生地のカーペットも。妹であるというコンプレックスを覆い隠そうとしているらしく、ほんの少しだけ大人っぽいものをチョイスしている。そのことがなんだか可笑しくて、この部屋に来るたびに、少しだけ笑ってしまいそうになる。


 一方で、テーブルや本棚といった大きな家具は、里帆の趣味だ。美帆のセンスよりも可愛らしさの方へ振っているのは、姉である責任感への反発だろうと思った。


 けど、それらはほんの些細な差で、ほぼほぼ似たようなもの。やっぱりこの部屋は、二人の人間の趣向が混ざっているとは考えがたい。


 つくづく似た趣味をした姉妹だな、と二人分のコスメが並ぶ共用のドレッサーに視線が向く。どうせ貸し合うのだから分ける必要はないと思うのに、わざわざ左右で区分をしているのは、仲の悪いていを装っている双子の性なのかもしれない。


 部屋の数には余裕があるのにお互いに出ていこうとしないのは、本当は仲が良いからなのだろう。それを桃菜が言えば、怒らせてしまうから心のうちに留めておくけど。わざわざ、思っていることは言わない方がいい。


 それが問題の火種になることを、桃菜はよく知っているから。


「桃菜ちゃん、今日のお洋服とっても可愛いね」


 人工的な可愛さでコーティングされた声が聞こえて、入りたくもない記憶の部屋の扉がひとりでに開く。一人になった時の悪い癖だ。ぼーっとしていると、もう忘れてしまいたい過去の出来事が、パソコンのスクリーンセイバーのように自動再生される。その記憶のファイルを消す手段も別の場所へ移す方法も、桃菜にはよく分からない。


「ありがとう」


 桃菜の素直なお礼は、チャイムの音に半分ほどかき消された。高学年にとっては六時間目の始業を告げる、低学年にとっては何の意味もなさないチャイム。桃菜のお礼はちゃんと相手に届いていたらしく、名前を忘れた彼女は、小学生らしくない嘘っぽい笑みを浮かべた。


 昨日は避難訓練からの流れで集団下校だったけど、今日はそういう行事はない。学校があまり好きじゃなかった桃菜は、早く家に帰ろうと、ロッカーからランドセルを取り出す。水筒や筆記用具を忘れていないかを確認し、アルミ製の錠前をしっかりと留め、背中に背負い顔を上げると、もういなくなっているだろうと思っていた彼女がまだ桃菜の目の前にいた。


「ほら、」


 気恥ずかしそうに腕を腰の後ろで組んで、彼女は物欲しそうに、まん丸い双眸をこれでもかというほど可愛らしく細めた。言いたいことが分からなくて、桃菜は「どうしたん?」と聞き返す。


「私の今日のお洋服はどうかな?」


 女の子らしい仕草で、彼女はピンクのフリフリがついたミニスカートの裾を少しだけ持ち上げた。パステルカラーのTシャツには、金色と銀色のラメが星屑のように散りばめられている。


「桃菜ちゃんっておしゃれやん。だから、私のお洋服はどう見えるのかなって」


 抑揚のない声音が鼓膜に張り付く。それを振り払うには自分が声を出すしかなかった。


「私はその服、嫌い」


 訊かれたから素直に答えた、ただそれだけだ。なのに、桃菜の返答を聞いた彼女の表情は、みるみるうちにミニスカートのような桃色に変わっていった。


「ひどい!」


 教室に彼女の大きな叫び声が響く。その怒号を聞いた男子が、面白いことが起きたといわんばかりに騒ぎ出した。けど、彼女はそんなことお構いなしに怒りに任せて言葉を続ける。


「なんで私の服を悪く言うん!」


 さきほどまであざとい色をしていた双眸はすっかり怒りに染まっていた。むき出しの敵対心に臆せず、こちらをにらみつける瞳を桃菜は見つめ返す。


「だって訊かれたから」


「私だって、桃菜ちゃんの洋服嫌いや!」


 先程とはまるでちぐはぐじゃないか。桃菜の嘆きなどどこ吹く風で、彼女は収まらない怒りを吐露し続けた。


「普通は、褒めたんやから褒め返すよな! 自分ばっかいつも褒められるからって調子に乗らんといて。桃菜ちゃんのそういうところがホンマに嫌い」


 どういうつもりなのだろう。わざわざ心にもないことを言って、相手から褒めて貰いたかったというのか。そんなの阿呆らしい。


「知らんわ……。私だって、あなたのそういうところ苦手……」


 桃菜の言葉を遮るように、軽い衝撃が頬を打った。ジリジリと痛む肌、荒い呼吸の彼女、静かになった教室。誰かが上げた笑い声に似た声を合図にするように、まるでお祭りが始まったようにクラスの男子が大騒ぎを始める。


 次の瞬間にどこかで聞きつけたのか、担任の先生が教室へと入って来た。野次馬根性の申し子が経緯を説明する。デタラメで前後関係の取れていないいい加減なものだった。


「二人とも、ちゃんと謝ろうね」


 担任の言葉に、桃菜は素直に頭を下げた。別に桃菜は誰かを傷つけたいわけでも、諍いを継続したかったわけでもなかったから。「ごめんなさい」は、もう争いの意思はないと示すための言葉だ。そこに謝罪の意図はない。


 そもそも間違ったことを言ったとは思っていなかった。求められた意見を素直に口にしただけ。好きでもないのに、好きだと言う方がおかしい。わざわざ嘘までつくコミュニケーションなんて必要ないものなのに、彼女がそこまでして上っ面の言葉を求めるのが不思議で堪らなかった。


 嘆かわしく胸で騒ぎ続ける感情はやり場を失い、溜め息を漏らしながら桃菜はランドセルを背負い直す。まだ不服そうにしている彼女の顔を視界に入れないようにしながら、教室をあとにした。


 本音とは硬い石だ。石と石がぶつかれば砕けてしまう。弱い方が砕けるならまだいいのだけど、自己主張というものは相手だけじゃなく自分も傷つける。だから、桃菜は出来るだけ人と関わりたくない。


 人とは関わらなければ、わざわざ本音を言う必要もなくなる。不必要なコミュニケーションがなくなる。自分の内に留めておいたまま、慎ましく殻の内側に籠もっていられる。そうしていれば、傷つけることも傷つくこともない。


 それなのに、あんな風な人が時折現れる。見え見えの無意味な欲望にまみれた獣が、土足で心の中へと踏み込んでくる。そして、桃菜が本心を告げれば、そういう人たちは急に喚き始める。


 部屋の扉が開く音で、思い出の扉が閉められた。


 紅茶の香りが鼻孔をくすぐる。上機嫌の美帆がローテーブルの上にお盆を置いた。


「おまたせー、いつも通りのアールグレイと、今日はレーズンクッキー」


「えー、レーズン嫌い」


「知ってるって、やからプレーンのクッキーも用意してあるから」


 真っ白な皿の上には、美帆の言う通り、青紫色の果実が混じったクッキーと一緒に何も混じっていないシンプルなクッキーが並んでいた。桃菜は、満月みたいに汚れのないクッキーをつまみ上げて頬張る。


「うん。美味しい」


「そりゃ、私が選んだんやから!」


 どんなもんだい、と膨らんだ鼻から子どもじみた生意気な息が漏れる。けど、嫌な感じはしない。だって、美帆は思い出の中の彼女とは違うから。


 美帆はとても優しい子だ。桃菜が吐露する本音を、自己表現を、いつだって笑って受け止めてくれる。


 それは美帆が教えてくれた音楽も同じ。どれだけ自己主張したって誰かを傷つけることはないし、傷つけられることもない。メロディという音の中だけでは、好きなことを好きなだけ叫ぶことが出来た。


 だから、桃菜は美帆と音楽が大好きだった。

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