第3話 曖昧な線

 家に帰って来たみなこは、コートだけを脱ぎ捨て、身体を柔らかいベッドへと倒した。枕に顔を埋めたまま、どこかに転がっているだろうクッションを手探る。カバーの端に指先が触れて、人差し指と中指で無理やり手繰り寄せた。


 ――何を贈ればいいだろうか。


 ひんやりとした枕に生暖かい自分の吐息が溶け込んでいく。その温もりがじれったくわずかに顔を持ち上げれば、眩しいシーリングライトの光が網膜を焦がした。クリスマスの眩さだ、と悲劇のヒロインのような口ぶりで、みなこはまた闇の中へと逃げていく。


 一層、恋人にプレゼントを渡す方が楽なのかもしれない。「私は、あなたのことが好きで好きでたまらないんです!」と溢れ出る愛を贈り物に込めれば良いのだから。相手も自分のことが好きなのだから、何を上げたって喜んでくれるはずだ。大切なのは、好き同士、お互いが贈り合うことなのだ。愛しておりますの事実確認、愛の大きさの再確認。クリスマスとはそういうイベントごとだ。


 これが友人同士になると難易度がぐっと跳ね上がる。それも異性だから余計に。別に好きなわけじゃない。とはいえ、贈り物を贈るのだから嫌いなわけでもない。誤解を招かない絶妙なライン。好きと無関心の中間に存在する幼馴染という曖昧な線。そこに踏み込みすぎてもいけないし、手前過ぎてもいけない。


 相手は何を求めているのだろう。枕と瞼が作り出す薄明るい闇の中に航平の顔が浮かぶ。汗まみれでグラウンドを駆ける航平の姿は、中学二年生くらいのサッカー部時代のものだ。あの頃は身長もまだ同じくらいで、おぼこく可愛げがあった。


 どうして自分の記憶には、この時の彼の姿が焼き付いていたのだろう。イメージはゆっくりと俯瞰になっていく。理科室前の廊下から、みなこはぼんやりと夕暮れに染まるグラウンドを一人眺めていた。そういえば、たまにこうして航平の姿を見ていた気がする。


 気恥ずかしくあまり話さなくなっていた時期だったが、ボールを懸命に追う姿を見るのはなんとなく好きだった。あー部活頑張っているなぁ、とその程度の感想を抱いていた。部活動に邁進する姿を羨ましく思っていたのかもしれない。丁度、七海と軽音楽部に入りたいと話していた頃だったから。


 甲高いホイッスルがグラウンドに響く。防球ネットの向こうで激しく動いていた長い影が一つに集まっていく。女子マネージャーが、給水用のボトルケースを抱えて部員たちに駆け寄った。オレンジ色のボトルを笑顔で受け取り、航平はマネージャーと楽しそうに談笑を始めた――。


 そこでみなこの回想は打ち切られる。苛立ちを込めて足をばたつかせれば、隅に折りたたんでいた布団がバサリと床に落ちてしまった。どうして自分は苛立っているのだろうか。返答を望んでいない自問自答は闇の中へと消えていく。「もう!」、低いうめき声を出して、みなこは身体を反転させた。


 そもそも貰ったものは定期入れなのだから、あまり高価なものは贈るべきじゃない。それなのに何故、こんなに悩まなくてはいけないのか。クリスマスに掛かっているのは魔法なんかじゃなく呪いだ。手に持っていたクッションを壁に押し当てれば、真っ直ぐなストライプがぐちゃりと歪んだ。


「アホっ」


 ふいにいまの航平の優しい笑顔が浮かぶ。それをかき消すように腹筋に力を込めて、身体を持ちあげる。無理やり身体を伸ばしてまで床に落ちた布団を拾い上げるのが億劫で、縛らくそのままカーテンの閉まった窓を見つめていた。


 *


「寒い時は、お鍋に限るわねぇ」


 ぐつぐつと煮える真っ赤なスープから、刺激の強い唐辛子の香りが立ち込めている。みなこの家の鍋の定番と言えば、キムチ鍋だった。父は、水炊きが好きらしいけど。みなこの好みは母に似たらしく、どちらかと言えばキムチ鍋の方が好きだった。


 家族で食卓を囲むのは週の半分ほど。父が仕事で遅い時は、先に食べてしまうことが多い。ぼんやりと眺めていたテレビでは、人気のお笑い芸人が今まさに絶壁の上からバンジージャンプを飛ぼうとしていた。


「怖そうねぇ」


 真っ赤に染まった黄緑色の葉っぱを口に運びながら、母が呑気な声を出す。父はビールを煽りながら「俺は飛べんわ」と小さく首を横に振っていた。


「あなたは怖がりですもんね」


「人並みや」


 テーブルに置かれた缶ビールが少しだけ不機嫌な音を立てた。それを見て、母はクスクスと笑っている。怖いと言っているが、きっと母ならバンジーを飛ぶだろうと思った。怖いもの知らずの節が彼女にはある。


 液晶の向こうではお笑い芸人を急かすカウントダウンが始まった。スリー、ツー、ワンの合図で飛び降りる。渋っていたのが嘘のように、お笑い芸人はパッと足を浮かせた。弛んでロープが一気に谷の底へ流れていく。またたく間にロープがピンと張って、落下したお笑い芸人は、落ちてきたところをまた上がって来た。


 好きと無関心の間の線が、こんなはっきりとしたものだったらいいのに。ここから先は好きへと落下するから危険だ、と足を止めることが出来る。プレゼントだって悩まないし、相手に変な勘違いを与えなくても済む。


 だけど、好きの谷底というものはものすごく深いはずなのに、どうしてか人はそこに落ちるまで自分が落下していることに気づかない。


「熱っ」


 ぼっーとして、熱い豆腐を冷まさずに口に運んでしまった。「大丈夫?」と母が眦を下げる。


「う、うん」


 水で流し込み、事なきを得る。「急いで食べんでもええのに」と、父が的外れなアドバイスを寄越した。


「そういえば、大会楽しかったわ」


「急に何?」


 鍋から小鉢に具材を装いながら、みなこは眉間に皺を寄せた。母は軽快な声色で「頑張ってるから褒めてあげようと思ったのよ」と茶色くカールした髪を揺らす。


「いい演奏だったわ。あなたも楽しかったでしょ?」


「もちろん。航平くんも久々に見れたしな」


「航平くん、随分、大きくなってたでしょ?」


「男の子が成長するのは早いなぁ」


「育ち盛りですからね。あなたは三、四年ぶりに見たんじゃないですか?」


「中学の入学式以来だから、もうそれくらいになるか」


 大人というのは平日に都合が付かないものらしく、父は中学の卒業式や高校の入学式には参列していない。別に来て欲しいと思ってはいないけど、来て欲しくないわけでもない。父の立場になって考えれば、娘の晴れ舞台には顔を出したいものだろうから、残念な話だなとは思う。だから、全国大会が週末に行われるのは喜ばしいことだった。


「みなこが恥ずかしがり出してから、クリスマスにパーティーすることもなくなってしまいましたからね」


「別に恥ずかしいわけちゃうから」


「そ。それなら今年はクリスマスパーティーする?」


「せんでええわ! それにクリスマスは学校でライブするから!」


「へぇ、またライブするの?」


 みなこは大げさに頷いて、豚肉を口の中にかき込む。唐辛子がチクリと舌を刺激した。


「またお父さんと行こうかしら」


「まだ学外の人を呼べるかは未定やから」


「呼ぶと決まれば行ってもええんでしょ?」


「どっちでも」


「あら、反抗期かしら?」


 母は冗談交じりに怯えた声を出す。その双眸が悪戯心に染まっていたから、腹立たしさが膨れ上がった。きっとこの人は、みなこが好きの谷底を興味本位に覗けば、何食わぬ顔をして突き落としてくる。まだ命綱も着けていないのに、だ。

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