第4話 サプライズなんていらない

 自室に戻って来たみなこは、乱雑にマットレスの上に置かれた布団を正す。二度手間になるくらいなら始めから綺麗にしておけば良かった。微々たる後悔の愚痴を一人こぼしながら、素足のままの両足を膝ほどまで布団の中に入れて、ベッドヘッドに背中をもたれさせて座る。


 背中の辺りにあるはずのスマートフォンを手探りするために、わずかに捻った身体は、机の上の写真立ての方を向いていた。二つ並んだ木枠に収められているのは、「花と音楽のフェスティバル」の時に四人で撮ったものと「ジャパンスクールジャズフェスティバル」の時にジャズ研の全員で撮ったものだ。


 思い出とはアルバムの中に仕舞っておくべきなのに、こうして机に並べているのは、決して忘れたくないと思っているからだろうか。だとするなら、大切なシーンを切り取った写真は、いつか机を埋め尽くしてしまう。


 そういう思い出が増えるのはいいことだけど、同時に胸が痛むのはどうしてだろうか。きっと、忘れたくないものだとしても、自分は取捨選択をすると分かっているからだ。来年も再来年も写真を撮るだろう。花と音楽のフェスティバルは、七海、めぐ、奏と四人で撮ったけど、次はそこに佳奈も加わるはずだから。


 思い出の更新。上書きしますか? という設問に「はい」の選択肢を押して、セーブデータを更新するみたいに、写真立てに収める思い出をアップデートしていく。それを当たり前だと思っているのに、切なく感じてしまっている自分がやるせない。


 それに、やがてアップデートをしなくなる時もやって来る。仲間と過ごした高校生活の輝きを閉じ込めた写真に優る思い出を、大人になった自分が作れる自信がない。


 感傷的になった心を、しょうもない、と蹴り捨てるように、みなこは足に掛かった布団を振り払う。暖房の温もりはまだ部屋を満たしてはくれておらず、冷たい空気が素足をなでた。くるぶしの辺りがゾワゾワと悪寒を放つ。


 今は、不確かな遠い未来のことよりも差し迫るクリスマスのことの方が重大なのだ。こればかりは、得意技である問題の先回しをするべきこと。漠然とした不安は、考えないフリをしていれば、知らない間に些細な問題に成り下がり、クリアしていることが多い。それはこれまでの十六年間の人生で身につけた処世術の一つだ。


 手にとったスマートフォンを操作してYou Tubeのアプリを開き、動画を検索する。クリスマスライブの選曲をなんとなく考えておくため。二年生主体で決まっていくだろうけど、里帆はみんなの意見を募るはずだと思ったから。クリスマスライブのコンセプトをミーティングの議題にしたのだって、部員全員の意見を取り入れるつもりだったからだろう。それは前副部長であるみちるの手法だ。


 全員で楽しくより良い物を作る。それがみちるのモットーだった。時に自分を殺して我儘を素直に言えなかったことが問題となってしまったのだけど。里帆は、知子とみちるの良いところを取り入れた理想の部長になろうとしている節がある。


 おすすめ動画には、いつも見ているクリエーターに混ざり、ジャズの演奏動画が表示されていた。この半年間、暇があれば、なるだけジャズに触れるように努めてきた。今ではすっかりジャズの魅力にハマり、お気に入りの曲を見つければ、少ないお小遣いでCDも買うようになった。


 手のひらから溢れそうな画面をスワイプしていく。寝転がっているので、顔に落としてしまわないように左手をぐっと握り込む。なんとなくギターのネックを掴んでいるみたい。画面をなぞる指が止まったのは、先月行われたジャパンスクールジャズフェスティバルの公式アカウントが上げている本番映像を見つけたからだ。


「更新されたんや」


 夜なのでイヤホンを着けて、サムネイルをタッチする。一瞬の読み込みの間を待って、懐かしい会場のノイズが鼓膜を揺すった。


 デバイスの画面を通して、記憶が数週間前にタイムスリップしていく。会場に漂っていた粒子の小さな振動、鼻孔の奥を刺激する少しホコリっぽい会場の匂い、照明の白、部員たちの呼吸の音――。始まった演奏は、同じ兵庫県の強豪である朝日高校のものだったけど、確かに気持ちはあの瞬間にジャンプしていた。


 軽快なドラムのカウントに合わせて、水色のTシャツに身を包んだ同世代のビッグバンドが一斉にハイスピードな唸りを上げる。狂わぬリズム、淀みのない明確な音、それでいてスウィングと遊び心を忘れない。単純で基本的な技術は、確かな鍛錬の裏打ちだ。たった一小節で最優秀賞の実力を思い知らされた。


 曲は、『TIME CHECK』。


 画面は、まるで音楽番組のような多彩なカメラワークで切り替わっていく。宝塚南の演奏の時も周りには、テレビの収録で使うようなカメラを抱えたスタッフが何人もいたけど。このカメラワークが、より彼らの演奏を引き立て、尚且技術の高さを明確にした。


 奏者の手先を見ても分かるが、この曲はとにかく速い。ドラムもギターもウッドも金管も、急坂をものすごい勢いで駆け下りていくような疾走感に身を任せている。時間確認のくせに、そんなに急がなくてもと思ってしまうくらい、猛烈なテンポで曲が展開していく。


 この曲をミス無く演奏したことが、最優秀賞を勝ち得た要因だろう。バディ・リッチをリスペクトしているのであろうドラムの自慢げなテクニックも鼻につくことはない。ただただ高校生とは思えないハイレベルな演奏に魅了させられ、一瞬で冒頭の一分間が終わった。曲はサックスのソロへと移っていく。


 長い黒髪を揺らして、一人の少女がスタンドの前に立った。面差しは笑顔のまま、ストラップに強調された豊満な胸をとんと張って、彼女はアルトサックスのマウスピースに柔らかな唇を添えた。


 彼女のことをみなこは知っている。サックスで個人賞を獲得した松本まつもと陽葵ひまり。みなこたちと同じ一年生だ。話したことは無いけれど、なんとなく画面越しに人となりは伝わってくる。明るく活発なタイプ、それが明確に音にも出ている。また佳奈に負けないくらい容姿端麗だ。佳奈が彼女を意識したのは、狙っていた個人賞を持っていかれたことが相当悔しかったからで、みてくれを意識しているわけじゃないはずだけど。みなこを含め、第三者とは、余計な揣摩を加えて面白がるものなのだ。


 抑え気味になったトランペットとトロンボーンを背景に織りなされるハイスピードでクールなサックスのソロ。彼女の実力が佳奈よりもわずかに上であることは、みなこの耳で聴いても明らかだった。いや、You Tubeでイヤホン越しに聴いていて、僅かな差と感じるのだから、生で聞けばその差はもう少しばかり開くのかも知れない。みなこは佳奈の生音を知っているが、陽葵の生音はまだ体感したことがないから。


 堂々とソロを吹き切り、陽葵は深く頭を下げた。どっと観客から拍手が送られる。のちに個人賞を受賞する奏者への忖度のない称賛の拍手だ。


 凄まじい演奏を聞くと心が震える。それはシンプルに感動したというだけじゃなく、比重の何割かを悔しさが占めているから。――――同じ一年生なのに。ポツリと出た自分の声は、口端から溢れ、イヤホンに塞がれた耳には響かず、枕の縁へと沈んでいった。これほど実力に差があるものなのかと痛感してしまう。もちろん別の楽器なのだけど。


 宝塚南にだって、個人賞を獲得した知子や桃菜がいた。それでも最優秀賞へ届かなかったのは、その他のメンバーのクオリティーの差だ。朝日高校は、個人賞を受賞した生徒以外のレベルが高水準なのだ。


 それは個人レベルだけの話ではなく、バンド全体としての問題だ。


 音楽は時折、絵に例えられる。楽譜という指示に従い、みんなで同じ絵を描く。演奏が出来れば、それは格段難しいことじゃない。図面通り、自分の割当箇所に線を引き、色を塗る。演奏技術とは、模写力とムラっけのなさだ。


 それぞれの個人同士に実力があればあるほど、図面通りの精巧な絵が出来上がる。それは美しく観客を魅了することだろう。だけど、音楽の良し悪しは、必ずしも個人の技術力だけに依存していない。


 お互いの癖、呼吸、間合い、それらすべてをどれだけ感じ取り、共有出来るかが重要で、クオリティーは演奏技術以上にフィーリングに左右される。もちろん、技術が高いに越したことはない。より優れた演奏家は、演奏技術と同時に優れた感性を持っているから。


 鳴らす音に感情を宿らせる。持ち寄った思いが絵になっていく時に、その絵は図面以上の美しさを持って響き渡る。人が音楽に感動するのは、図面にはない感情という色を奏者がその絵に塗り足すからだ。


 クラシックでも、吹奏楽でも、それらは変わらない。殊更、ジャズになれば、アドリブの数は前者よりも増え、周りとのフィーリングが重要となる。


 つまり、宝塚南は圧倒的に一体感が足りていない。


 朝日高校が織りなす音楽の一体感とは何なのか。自分たちだって、みちるの件もあり気持ちは一つになれていたはずだ。同じ方向を向き、同じだけの大志を抱き、最優秀賞を勝ち取るんだという気概に溢れていた。ステージでは、部員の呼吸や空気感をちゃんと感じ取れていた。一つになるというのは、こういうことなのだ、とも感じていた。けど、あれでもまだ最優秀賞には届かない。


 気がつくと、朝日高校の演奏が終わっていた。自分たちの時よりもわずかに拍手が大きく感じるのは動画越しだからだろうか。暗転した画面には、おすすめ動画が並んでいて、その二つ目は宝塚南のステージが表示されていた。サムネイルは、客席を背景にピアノを弾く知子の横顔だ。


 恐ろしさもあるが、自分たちの演奏を客観的に見るのもまた勉強だ。みなこが動画を再生しようと画面に指を伸ばした瞬間、スマートフォンのバイブレーションが作動して、アプリの着信が鳴り響いた。


 驚きのあまり手から落としてしまいそうになり、慌てて両手で握り込む。拍子に通話のボタンをスワイプしてしまったらしく、イヤホンからマイクのノイズが聞こえてきた。通話の相手が誰か分からず、みなこは慌てて身体を起こす。


「大丈夫?」


 こちらが慌てていることが伝わったのか、佳奈の第一声はそんな疑問文だった。


「なんや佳奈か」


「残念な言い草」


「そういうつもりちゃうから」


 安堵したのだからむしろ褒め言葉だ。寒さから逃れるように、素足を自分の腿のうちにしまいあぐらをかく。身体を反転させて、壁にもたれかかった。エアコンの風が直接当たって温かい。ゆらゆらと揺れる前がみに焦点を合わせながら、「で、どうしたん?」とみなこは訊ねる。


「冷やかしたのは、悪かったなって思って」


「冷やかした?」


「コンビニで」


「あー、」


 佳奈が言っているのは、「デートでもするのか?」と煽ってきたことだろう。律儀に謝って来なくてもいいと言うのに。「別に気にしてへんよ」と返すと、「でも、悩んでそうやったから」と佳奈の真面目そうな声がイヤホンを通じて両耳を撫でる。


「プレゼントに迷っててさ」


 心配してくれたのだから、素直に甘えようと思った。冷たくなった素足が、自分の腿の温もりをスウェット越しに奪っていく。


「高橋に渡すん?」


「まぁ、そうやねんけどさ」


「やっぱり、付き合ってんの?」


「そんなんちゃうから!」


 ふいに声が大きくなってしまった。むしろ嘘臭くないか、とせせら笑う冷静な自分に向けて、「そういうプレゼントちゃうから」と言い訳がましく続ける。


「じゃあなんで?」


「誕生日に定期入れ貰ったから。お返しはせなあかんやろ? 貰いっぱなしは悪いし」


「そういうことね」


 なんとなく声色から佳奈の表情が想像できて腹立たしい。


「そういうことって、どういうこと」とみなこが声を低くすれば、「だって、高橋はみなこにプレゼント渡したんやろ?」と佳奈が声を明るくした。


「そうやけど」


「高橋はなんでみなこにプレゼント渡したんよ?」


「そりゃ幼馴染やからやろ」


 幼馴染への贈る品に深い意味なんて何もない。それにもう自分たちは高校生でいい大人だ。友人に誕生日プレゼントを贈るのは普通なのだから、幼い頃から付き合いのある異性にプレゼントを贈るのだって普通のはず。いや、常識の範疇だ。暑中見舞いだとか、年賀状のように、「お体におかわりはありませんか?」「今年もよろしくお願いします」という挨拶のようなもの。つまりは、大人の付き合い方なのだ。


 あぐらをかいていた足を伸ばせば、自動で上下するエアコンの羽が冷えているところを狙い撃つようにくすぐってきた。


「何がええと思う?」


「うーん。無難なのはマフラーとか?」


「それは恋人に贈るものちゃう?」


「そうかな?」


「そうやって」


 だのに、どうも佳奈はまだ勘違いをしているらしい。こちら側も向こう側もプレゼントに深い意味なんて求めていない。貰った以上、無視は出来ないというだけなのに。向こうが大人の付き合いをしてくれているのだから、こちらもそれに応えないと。こちらだけ恥ずかしがっていては、まるで子どものままみたいじゃないか。


 吐息のようなため息が佳奈から漏れる。肌に爪を立てた音が僅かに聞こえた。頬を掻いたのかもしれない。


「そんなに悩むなら本人に聞いてみたら?」


「本人に?」


「欲しいもの上げた方が喜ばれるやろ?」


「まぁ確かに」


「ほんまはサプライズで渡すっていうのが一番ええんやけど。こういうのってムードが大切やろ?」


「佳奈はドラマか漫画の見過ぎ」


 少しふざけたトーンで怒ってみせれば、「見過ぎてはない」と彼女の声が膨れた。同時に、お互いが笑い声を漏らす。そもそもムードなど必要はないものだ。幼馴染に渡すプレゼントは、サプライズを仕掛ける必要なんてないから。

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