第四楽章「クリスマスライブ ラブストーリー」

プロローグ

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 アンプにシールドを差し込み、電源を入れば、静寂だけが支配していた部室に小さなノイズが溶け始めた。外気と遮断されたこの部室に流れるどこか特別な空気を、みなこは肺へと取り入れる。『音楽』に色づいた少し埃っぽい空気が、もう三月だというのに、冬のように寒い外気に冷やされた身体をじわじわと温めてくれた。


 冬休み前から続けている極秘の朝練は、一日も欠かすことなく続けている。平日は始業までの三十分、休日は他の部員がやって来るまでの一時間がみなこの一人の練習時間だ。初めの三日間は七海も来ていたのだけど。「寒くて起きられへん」と泣き言を言った切り、彼女は朝練から離脱してしまった。


「春になったらうちも復帰する」と言っていたけど。確かに七海は冬に弱い。始める時期が悪かった。もう少し早く始めていれば、自然と癖ついていたかもしれないのに。


 というのも三ヶ月も続けていれば、日課もすっかり習慣づいてしまった。どれだけ寒くても、身体がその時間に目覚めてしまう。春休み前、最後の平日である今日もしっかりと早起きをして、みなこは部室へとやって来ている。


 木の柔らかい感触を確かめながら、みなこはギターのネックを握り込んだ。モデルは、フェンダーのMIJ Hybird 50S Telecaster、カラーはOff White Blonde。中学生の頃、七海と音楽を始めた時に、父が買ってくれたものだ。


 十万円ほどするモデルを初心者であるみなこに買ってくれたのは、飽きれば自分のものに出来る算段があったからだ、と思っている。みなこの父も学生時代からギターをしていたから。でも、娘が自分と同じ趣味に興味を持ったことが嬉しかったのかもしれない、と最近思い始めてきた。大会を見に来てくれた時、父はとても喜んでくれていたから。


 ネックを掴み、弦の上にCコードの形で指を添えるが、感覚がいつもと違う。雲雀丘の坂を吹き降りてくる風は、手袋をしていても手を冷やしてしまうからとても厄介。指先に薄いビニール袋を巻いているような鈍い感覚が纏わりついている。


 今朝は、駅舎の周りの街路樹に桜の花が蕾んでいるのを見たけれど、防寒具を着込まなくては外を歩きたくなくなるくらい冷えていた。昼間には、それらは不要になるくらい暖かくなるのだけど。感覚のない指先で弦を押さえ込めば、ノイズの中に尖ったメロディーが混じり合った。


 青色のピックを振り下ろし、リズムを奏でる。手が冷えているうちはアップ程度にストローク。そこからいつもなら基礎的な反復練習をしているのだが、なんとなく自由に演奏したい気分になった。昨日、七海の家で音楽番組の特番を見たせいだ。


 普段はあまりやらないオーバードライブで歪を掛けて、パワーコードでリズムを刻む。一年間、ジャズに触れていたおかげか、簡単なフレーズならすぐにコピーできるようになっていた。流行りのロックバンドの曲、昨日聴いたフレーズを思い出しながら、指を動かす。チョーキングで目一杯音を伸ばし、アップテンポなソロを刻む。指もいい具合に温まって来た。目を閉じてライブ会場をイメージ。気分はすっかりロックスターだ。千人ほどの前で演奏した大会のステージ、広い客席、送られる拍手、そこに一人だけで立っている妄想が軽快なギターのチューンのせいで捗る。


「ノリノリやなぁ」


 急に声をかけられて、みなこは、はっと目を開く。微笑ましそうに口端を緩めた航平が扉の前からこちらを見つめていた。


「違う! 今のはたまたま」


「今の曲、最近流行ってるバンドの曲やろ?」


「そうやけど、普段からこんなことしてるわけちゃうくて」


「上手やったで」


 恥ずかしいと感じているのは一方的な感情らしく、単純な称賛が妙にむず痒い。言い訳するのも可笑しな行動に思えて、みなこはギターの弦をぐっと握り込んだ。歪の効いた音が部屋の空間を歪めていくように響く。あれだけ寒かった頬が、ぽーっと火照っていくのが分かった。


「てか、なんで航平がおんの?」


「朝練してるって聞いたから」


「七海から?」


「みなこのお母さんに」


 そっちからか、とみなこは肩を落とした。黙っておいて、と釘を刺していたわけじゃないから、母を責めることは出来ないけど。そもそも聞いたからと言って、それはここにいる理由にならないだろうに、とみなこは拗ねた唇を尖らせる。


 航平はエナメルのバックを床におろして、真っ黒なケースからトランペットを取り出した。それは夏の合宿前に購入したという航平のマイ楽器だ。綺麗ではあるけど、真新しさはすっかり無くなってしまっている。彼が今日まで練習をしっかりと重ねてきた証拠だ。


「毎朝してるんやろ?」


「ま、まぁね」


「おぉ、偉いなぁー」


 連続攻撃はずるい、と思わず頬を掻く。それに朝練は、勝手に決めて、それを貫いているだけだ。褒められるほどのことじゃない。けど、毎朝欠かさず早起きしていることを褒められて、ちょっとだけ嬉しかった。


「朝はまだ寒いやろ?」


「起きるのは慣れたけど、もう手がカチカチ。カイロポケットに入れてあるからそれで温めてる」


 スカートのポケットから貼れないカイロを取り出して航平に見せてやる。くちゃくちゃと握り込めば、酸素に反応した砂鉄がぼにゃりとした熱を発した。「暖かそうやなー」と羨ましそうな声を出しながら、航平はみなこの隣へ並んで来た。


「なんか演奏する?」


「う、うん」


 肩が振れそうな距離だ。背丈が違うから、正確には航平の二の腕辺りにみなこの肩が当たる。有名な犬のキャラクターがラッパを吹いているデザインのクロスを取り出すと、彼はトランペットを磨き始めた。艶が出た金色に並んだ二人が映し出される。


「どれにする?」


「どれでもええよ」


 楽譜ファイルを捲っていく近い横顔を見つめながら、みなこはギターの弦をハンマリングの要領で弾いた。楽しげな音が鳴るものだから恥ずかしい。音に感情というものがこれほど簡単に乗るものだとは。普段から気遣っても中々難しいことが、途端に容易くなるのはどうしてだろう。


 その疑問の答えは、自分の中でとっくの昔に出ている。けど、心の中で投げかけるだけで、決して投げ返そうとはしない。臆病な自分は、グローブを着けることなく、飛んできたボールを見ないフリしているのだ。


「やっぱりこれかな」


 航平が手を止めたのを見て、みなこは視線を楽譜に落とした。


「『A列車』ね、分かった」


「入学して初めて聞いた曲やからな。今の時期にピッタリやろ」


 あれからもう一年が経つのか、とみなこは深く息を吐いた。外では白く染まっていた息もここでは透明なまま。今でもあの新歓ライブの演奏は良く覚えている。上級生が演奏してくれた『A列車で行こう』。体育館に響く楽しげなジャズのサウンドにみなこは惹きつけられた。もちろん、奏やめぐと入部しようと約束したのもあるけれど、朝練をするほどジャズにのめり込んでいったのは、間違いなくあの時のあのライブに魅了されたおかげだ。


「今ならあの時の先輩たちみたいに弾けるかな?」


 吐息混じりに呟いたみなこに、「どうやろ?」と航平は肩を竦ませる。緩く結ばれたネクタイがわずかに動いた。苦笑いに近い表情に隠されているのは、自信のなさだろうか。それとも謙遜だろうか。


「もうすぐ一年生が入って来るから。新歓ライブでは、あの時の先輩たちみたいなパフォーマンスをしなくちゃ」


 先月に卒業式があり、三年生は既に学校にはいない。中には、すでに上京した人や大学の寮や下宿先へ向かった人だっているはずだ。ここにいた人たちが門出に立ち、新たな道に進んで行った。その事実がみなこに責任感という重圧を与える。


 ネックを握った手が力んだのを見て航平が吹き出す。「なに?」とみなこが気色ばめば、「まだ新三年生がおるんやから、俺らがそこまで固くなる必要はないかもな」と優しく目元を綻ばせた。


「そうやけど」


「来年、副部長になることを想像して、緊張してるん?」


「少しは」


「真面目やなぁ」


「ええ子でしょ?」


「自分で言わんかったら、もっとええ子やったな」


 笑いながら、航平はみなこから一歩だけ距離を取った。みなこのギターを弾く肘が当たってしまわないように気を使ってくれたのだろう。みなこは航平が楽譜を見やすいように、同じように足を動かした。すると、彼は少しだけこちらに近づく。丁度、二人の間に譜面台が来る。


 横目で紺色のブレザーを見遣れば、合図を送ることはなく彼はトランペットを構えた。管を支える手の甲に青い血管が浮かんでいる。それを見て、みなこもピックを握り直した。マウスピースからわずかに唇を浮かせて、「ワン、ツー、」と航平がカウントを取った。


 航平の息を吸い込む心地のよい空気の揺れが鼓膜を揺する。それに寄り添うようにみなこも息を吐き出し、ピックを振り上げる。音楽が始まる瞬間の緊張と期待。それを噛み締めながら、初めの音を弾く。暗譜しているので、譜面を見る必要はそれほどなく、ふいに視線は譜面台の付け根部分に掛かったクロスに目がいった。


 先程、航平がトランペットを拭いていたものだ。しわくちゃになった呑気なキャラクターの絵が仲睦まじく演奏するこちらを見つめている。この柄を選んだのはみなこだ。軽快に走り出した思い出という音楽の列車に乗り込んでしまったみなこは、遠ざかる煌めきを追いかけるように、去年のクリスマス前のことを思い出していた。

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