エピローグ

エピローグ

 視界は自分の真っ白な息に包まれた。暦上は春らしいけど、その気配など微塵も感じない。クリスマスに航平から貰ったマフラーを解きながら、二月になってもう半月が流れたのか、とあまりに轟々と過ぎていく時間の早さをみなこは独りごちた。

 

 街は、バレンタインなどという浮かれた行事のピンクに包まれていた。去年までなら友達に渡すくらいで気にもしてなかったのに、義理とはいえ航平にも上げようかと思うと、急に窮屈な行事のように思えてしまうから不思議だ。


 体育館の窓から覗く紅白幕を横目に、みなこは冷たい音を立てる階段を登っていく。街とは打って変わって、校舎の窓の外に見える景色は、何もかもが静かな冬色に染まっていた。色味をなくした校庭の木々たちは凍える冬を耐えているところだ。春に芽吹くための準備をする植物たちのように、先輩たちはもうすぐ新たな季節の門出に立つ。空に薄っすらと漂う灰色の雲は、今にも柔らかな涙の結晶を溢しそうなくらい重たい色をしていた。


 昨日、夜ふかしをしてしまったせいで、今日はいつもより遅い登校になってしまった。それでも十分に他の生徒よりは早いのだけど。冬休み前から日課にし始めた朝練を休むのは気が引けて、温かい布団から無理やり飛び出してきたのだ。


 みなこはすっかり冷たくなった部室のドアノブを回す。秘密の特訓と自分で銘打っているだけのことはあって、朝練をしているのは今のところみなこだけのはず。だけど、今日は先客がいた。そうと分かっているのは、部室の鍵がすでに貸し出されていたからだ。


 もしかすると、秘密の特訓の情報が何処からか漏れ出したのかもしれない。だとすれば、犯人はおおよそ七海だろうけど。扉を開ければ、それが冤罪であったとすぐに分かった。


「おはようございます」


「あれ? おはよう」


 意外な人物に挨拶を返されて、みなこは驚く。同時に、埃っぽい空気に思わずくしゃみが出そうになった。


「みなこちゃんやん! どうしたんこんな朝から?」


「それはこっちの台詞ですよ。何してるんですか?」


 部室にいたのは知子とみちるだった。迷彩柄のバンダナを三角巾のように頭に巻いて、雑巾を手に、「大掃除やよ」とみちるは明るく笑みを浮かべる。


「私たちは明日で卒業やから。やっぱり、お世話になった部室を綺麗にせなあかんと思って」


「何もこんな朝からしなくても」


 ピンク色のポリウレタンのマクスをした知子の周りには、古い楽譜の束が散らかっていた。どうやら楽譜の整理をしているらしい。真新しいバインダーに、少々よれた紙を丁寧に詰めていく。


「ピッカピカにして、みんなを驚かせようと思ったんやけどねー」


 ドッキリの作戦は失敗した、と言いたげにみちるはトホホと間の抜けた声を出して肩を落とした。拍子に三角巾から覗く前髪が彼女の双眸にかかる。その髪がわずかに軽く感じるのは、トレードマークだった赤いリボンがないからだ。彼女が赤いリボンを外したのは、大会が終わったあの日から。それはどういう意味を持っているのか、みなこは知らない。けど、何か強い決心のようなものを感じた。少しだけ伸びた前髪を指先で弾きながら、みちるはせわしなく表情を変える。くりっとした瞳が弧になった瞼に隠れた。


「まさか、みなこちゃんがこんな朝早くから来るなんて思わんかったから、バレちゃったけどね」


「私も朝練がバレちゃったのでお互い様ですね」


「へへ、そうかもねー」


 みなこはギターケースを壁に立て掛けて、掃除を続ける二人の方を見遣った。


「お二人でやられてるんですか?」


「ううん。祥子ちゃんは小スタジオの掃除、中村くんは水を換えに行ってくれてるんよ」


「それじゃ、祥子先輩にも挨拶してこないと」


 小スタジオの方へ向かおうとしたみなこの視界の隅で、知子がバインダーを棚へ戻そうと腕を伸ばしているのが見えた。棚の上部へ伸びたその腕がふいに止まる。その視線は、壁に掛かった立派な額縁に向けられていた。やるせなさが、みなこの口から言葉を吐き出させた。


「すみません。先輩たちの思いに応えられなくて」


「清瀬さんは謝ることない」


 知子が頭を振る。優しさで緩められた表情は、まだじっと額縁を見つめていた。壁に飾られているのは、大会で授与された表彰状だ。枚数は一枚。去年のものと入れ替わりで今年のものが収められている。宝塚南の結果は、自分たちが望んでいたものではなかった。


「最優秀賞を取りたかったです。先輩たちのためになんて言うとおこがましいかもしれませんけど。少なくとも、私たちの思いは一つになっていたと思います」


「それは分かってる。みちると私のことでみんなに迷惑をかけて。それなのに、みんなは同じ方向を向いてくれた。だから、それだけで十分やし、みんなの思いはとっても嬉しかった。……それに里帆さんにあれだけ泣かれたらね」


 大会終わりに一番泣いていたのが里帆だった。子どものように瞼を真っ赤に腫らして。先輩たちとの最後のステージ、そこで果たせなかったものがあることを彼女は誰よりも悔しがっていた。


 知子の視線が、ゆっくりとこちらの方を向く。「それに」と短く息を吐いて、彼女は一度だけぐっと唇を噛み締めてから言葉を紡いだ。


「……もし今回の結果に悔しさがあるなら、それをこれからの大会にぶつけてほしい。私は、みんながいつか最優秀賞を取ってくれるって信じてる」


 こちらを見つめる瞳の奥に潜ませた思いを読もうとするのは不躾な行為だろうか。冬の澄んだ空気のように凛とした眼は、うるうるとわずかに潤んでいる。知子が息を吸う。胸が膨らみ、また萎む。鼓膜を揺らすこの感じは演奏前の空気に似ている。耳殻に飛び込んできたのは、ピアノの音ではなく彼女の柔らかい声だった。


「……私はやり切ったから」


 潤んでいる瞳を、部屋に舞う埃のせいにするには無理がある気がした。けど、それを指摘は出来ない。どれかけ振り返っても結果は変わらないから。言い聞かせるような知子の言葉に返すすべはなく、意気込みのようなものがみなこから漏れる。


「絶対に勝ち取ってみせます!」


 みなこの言葉に知子の口元がふいに緩んだ。「今年も来年も観に行くから」と視線を外しながら、目尻を指先で拭っていた。


「そうそう! その意気やよ!」


 みちるが嬉しそうな顔をしながらこちらに近づいてきた。知子の顔を覗き込もうとすれば、みちるが何も言わないうちから「泣いてないから」と知子が語気を強める。


「はいはーい」


 軽い声がみちるの口元から漏れた。現役中はあまり見ることのなかったやり取りに、ついみなこは笑ってしまいそうになる。二人は本当にいい先輩だ。知子の反応に満足したのか、今度はみなこの方へ視線を向けて「ファイト!」とみちるは胸の前で拳を作った。


 急なその仕草に、無意識のうちにみなこも同じポーズを取ってしまう。「は、はい」と声を上ずらせれな、知子とみちるに笑われてしまった。


「そう言えば、井垣さんはそうとう悔しがってたみたいやけど、あれから変わりはない?」


 楽譜をしまう作業を再開しながら、知子が話題を変えた。どうも部長としても親心が抜けないらしい。


「個人賞を狙っていたみたいなんですけど、それが叶わなかったのがかなりショックだったみたいです。でもあれから、これまで以上に頑張って練習してるんで、むしろ良かったのかもしれません」


 部単位では望んでいたタイトルは取れなかったものの、宝塚南は個人賞を二つ受賞する快挙を成し遂げた。受賞をしたのは、ピアノの知子とトロンボーンの桃菜だ。佳奈にとってこれが初めての挫折になったかもしれない。けれど、彼女が腐ることはない。むしろ、メラメラと燃えたぎる熱いものを感じていた。


「井垣さんももちろん上手やけど、それ以上に朝日高校のサックスの一年生のレベルが高かったからね」


「朝日高校の演奏って私たちの二つ前やなかった? 知ちゃん演奏、聴いていたん?」


「当日じゃないけど。あのあと、別のイベントで聞く機会があってん」


「そうなんや」


 抑揚が少ないみちるの返答は、そのイベントに誘われなかったことを拗ねているようにも感じた。可愛らしい頬は、愛らしさでちょっとだけ膨らんでいる。


「もちろん曲のチョイスもあると思うよ。宝塚南は全体が平等に目立つような曲のチョイスをしていたから。朝日高校は、その子のサックスをメインで挑んできてた。その差が出たって感じかな。実力は拮抗していると思う」


「佳奈のライバル出現です」


「ライバルがおることはええことやよ」


 みちるが微笑ましそうに言う。直属の後輩が成長していく過程を楽しみにしているようだ。


 ――佳奈のライバル。その存在が少しだけみなこの心を締め付ける。気持ちとは不思議なもので、明確に胸の中に在るのに、その輪郭を上手く捉えられない。佳奈の意識がライバルへと向くのではないか。嫉妬心というべき感情が冬の大地から芽吹き始めている気がした。


 うだうだと話していると、小スタジオから祥子が出てきた。手には箒とちりとりを持っていた。みなこを見つけて、「あれなんでおんの?」と首を傾げる。


「朝練をしに来たら、みなさんが掃除されてて。あ、少し早いですけど、ご卒業おめでとうございます」


「急に思い出したみたいに言わんといて!」


 呆れたように祥子は首元を掻いた。「私はまだこっちで続きあるからー」と透明なゴミ袋にちりとりのゴミを入れて、小スタジオへと戻っていく。


「みなこちゃん、ありがとうね」とみちるが甘い声を出した。


「……先輩たちが居なくなると思うと寂しいです」


「一応、明日も部活には顔を出すから、そんな悲しい顔せんといてよー」


 戸惑うように下がったみちるの眉を見て、みなこは自分の頬を手のひらで抑え込んだ。脳裏に別れがちらついていたが、それを顔には出さないようにしていたのに。


「そんな顔してました?」


「先輩冥利に尽きるから嬉しいけどね」


 みちるは、こちらの反応を見て、照れながら可笑しそうに笑ってみせる。その隣で知子が寂しそうに視線をそらした。こういうところが知子の可愛らしさだ。みなこと同じく、卒業と言う言葉を、彼女は人一倍寂しく感じているのかもしれない。


「知ちゃんは留年する?」


「ちゃんと卒業するから!」


「里帆ちゃんもみなこちゃんも喜びそうやけど?」


「するから!」


 知子が語気を強めて、みちるが悪戯に口端を釣り上げる。知子に向けられる無邪気で子どものような双眸は、彼女が持っている本来の瞳の色のはずだ。それは次第に、大人っぽい艷やかな色に変わってこちらを向く。


「これからはみなこちゃんたちが部活を引っ張っていかなあかんねー」


「まだ里帆先輩たちに甘えさせてくださいよ」


「新しい一年生も入って来るんやから、そんなこと言ってたらあかんよ!」


 みちるの言い分も分かるけど、やっぱりまだ上級生には甘えていたい。それが後々に別れの辛さに変わると分かっていても。それが同じ時を過ごし、思い出を共有することだと、みなこは分かっている。


「最後に質問してもいいですか?」


「質問? ええけど、なんやろ?」


 不思議そうに二人は顔を見合わせた。質問というよりかは、みちるに訊かなくちゃいけないことがある。知子がエゴや思いやりでビッグバンドに参加すると表明したこと。それらを不審に思い里帆と一緒に詮索したこと。みちるの過去が公になってしまったこと。結果として全てが良い方向に転がったとみなこは思っている。けど、遺恨を残したくはなかった。みなこは意を決して訊いてみる。


「後悔は無いですか?」


 意外ではない質問だったらしい。みちるは、一度だけ知子の方を向いてから、はっきりと頷いた。リボンのついていない寂しく大人っぽい髪が揺れる。


「一つもないよ。結果は満足の行くものじゃなかったけど。知ちゃんが言ったように全力は出し切れた。……それに、ステージは最高に楽しかったから!」


 みちるの笑顔が、ぱっと華やいだ。秋雨に濡れていた小さな花は、枯れてしまったけれど、また春に向けて新しい芽を出し、大きな蕾をつけていた。きっと美しい花を咲かせる。その場所は音楽という草原じゃないだろうけど。


 頑張らなくちゃいけない。後悔しないように。壁に飾られた表彰状の文字に、『最』の文字をつけられるのは自分たちしかいないのだから。



 『ブルーノート 第三楽章~エゴと混乱と大会と~』 了




 ☆あとがき


 ここまで、『ブルーノート』を読んでくださり、ありがとうございました。約一年間の連載でようやく一年生編を書き終えることが出来ました。私自身が楽器を少々やっていたこともあり、音楽系の部活の青春物語をいつか書きたいと思っていましたので、想像を形にすることが出来た作品となりました。

 また、小さいながら賞を頂けたこと、これまでの作品の中でも、多くの人に読んで頂けた物語となったことで、より思い入れの強い作品になりました。

 連載当初に作ったプロットは、みなこの一年生編、つまり、この第三楽章までの物語でした。しかしながら、大会の結果はみなこたちにとって、やり残したことのある内容で終わってしまっています。

 ですので、続きを書きたいと思っております! ……しかしながら、まだプロットも出来ていませんので、少々間隔は空くと思いますが、再開の際にはどうかまたお付き合い頂ければ幸いです。

(二年生編の前にみなこと航平の中編の恋愛ストーリーなんて書きたいなあー、とぼんやり考えています)


 伊勢祐里


 ――――BLUE NOTE『第四楽章』へ続く。



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