第9話 みちるの面影

 私服のまま校内に入ることに違和感を覚えつつ、みなこは里帆のあとに続いて部室を目指す。すっかり落とされた夜の帳の中で、ぼんやりと校舎の明かりが浮かんでいた。その背後にそびえる山は威風堂々と静寂に飲み込まれた住宅街を見つめている。


 部室にはまだ数人の部員が残っていた。もちろんみちるも。彼女は一人、小スタジオで練習をしていた。里帆が一歩前に出て、みちると向かい合う。


「お疲れ様です」


「お、おつかれ。どうしたん?」


 突然現れた後輩四人を前に、みちるの目は泳いでいるようにも怯えているようにも見えた。みんなは先に帰ったはずじゃなかった、と言いたいらしい。


「みちる先輩に話があって来ました」


「この間のこと……?」


 前髪の赤いリボンがふさふさと不安げに揺れる。食堂前で里帆と話していた時のことを言っているんだろうと思った。だとすれば、みちるの勘は当たっている。


「そうです。そのことで話があります」


「やから、その件のことで私から言えることは……」


 みちるの言葉を遮るように、里帆が首を横に振った。「みちる先輩からしか聞けないことなんです」と可愛らしい唇がはっきりとした形に動く。


「なんでかな?」


 困ったように笑いながら、みちるは首を傾げた。いつも優しさを宿しているはずの表情は、冷ややかなためらいに移ろい始めている。


 里帆がみちるの問いかけに答える。


「みちる先輩のご両親の話を聞いてしまいました」


「誰から?」


 ひどく重たい声色だった。今まで見たことのない恐ろしい表情が、くすんだ照明の明かりを鈍く反射するサックスに映り込む。みなこが直接みちるの表情を見られなかったのは、紛れもない恐怖のせいだ。里帆が言葉を告げた瞬間に、切り替わることを察して目をそらしてしまった。そのせいで、サックスを掴むみちるの手が強張っていることに気づいてしまう。


 その力みは、手のひらから腕に伝わり、肩、背中、そして彼女の全身を凍らせたように見えた。抜いてはいけないジェンガの一片に触れてしまったような感覚。「ねぇ、誰から?」とみちるは抑揚のない声で繰り返す。


「すみません。私なんです」


 耐えられなくなって、みなこは頭を下げた。真っ白な床がやけに眩しく感じて、思わずまぶたを閉じてしまう。


「なんで、みなこちゃんが……」


 その声は僅かにかすれてしまっていた。息切れをしたようなみちるの呼吸が、みなこの鼓膜を揺する。それをまじまじと聞いていられなくて、みなこは慌てて顔を上げた。


「今日、横山さんに会いに行ってきました。私が横山さんに無理を言って話して貰ったんです。だから……」


「そっか」


 みちるは胸元に掛かったサックスをギュッと抱きかかえた。まるで幼い子どもが拗ねて大きなぬいぐるみを抱きしめているみたい。みなこは、そう思った。彼女が抱きしめているのは、母の面影だろうか、それとも横山と川上の優しさだろうか。悲しさと切なさが混じり合ったみちるの瞳は、ここじゃないどこか遠くを見つめていた。


「みちる先輩は、今回の織辺先輩の提案に反対していたんですよね?」


 問いかけたのは佳奈だった。「うん」と短くみちるが返す。その視線はまだこちらを向いてはくれない。


「織辺先輩はみちる先輩のためを思ってあの判断をしたんだと思います。……みちる先輩のために演奏をしたいから」


「それは分かってる。知ちゃんの気持ちは嬉しかった」


「なら、どうして?」


 高い女子の声に混じって航平の低い声が狭い部室に溶けていく。みちるはサックスを優しく撫でながら問いかけた。


「航平くんは、この部活の方針は分かってる?」


「理解しているつもりです。楽しく演奏して勝つ、そうですよね?」


「だったら、知ちゃんがビッグバンドで演奏するべきじゃないやんね? めぐちゃんの気持ちをないがしろにしている」


「それも理解しているつもりです。しっかりと大会に照準を合わせて伊藤は練習していましたから。……けど、それならなんでみちる先輩はあの曲を選んだんですか? 織辺先輩があー言い出すって想像できなかったんですか?」


「私はただ、あの曲をみんなで演奏したかっただけ!」


 みちるは小さな身体を懸命に震わせて、大きな声を飛ばした。まるでサックスをグロウルしたような激しい響き。感情的になった彼女に触発されてしまったのか、航平の声も荒々しくなる。


「だったら、みんなを説得すれば良かったじゃないですか! 自分のための優しさなんて要らないって、同情なんてして欲しくはないって。それは心の何処かに、織辺先輩に演奏して欲しいって気持ちがあったからなんじゃないですか?」


「ちょっと、航平」


「私はずっと言ってたよ! みんなで演奏したいんやって。それなのに、みんな知ちゃんの肩を持った!」


 感情的になった航平を宥めようとしたみなこの言葉を振り払うように、みちるはさらに声を荒げる。まるでわがままを言う子どものように身体を震わせながら、みちるは瞳に涙を浮かべていた。目の前に姿を表したのは、音楽に出会う前の彼女。ひっそりと心の底に身を潜めていた彼女だ。


「みちる先輩だって、織辺先輩の気持ちが分かるって言いはったじゃないですか!」


 航平とみちるの怒鳴り合いに里帆も加わった。後輩二人に詰められて、みちるの身体が一瞬だけ縮こまる。


「理解は出来る。……けど、それは知ちゃんのわがままやよね!」


 確かに、部の方針に反してまで、みちるのために演奏したというのは、知子のわがままかもしれない。


「けど、私は織辺先輩の気持ちが分かります」


 みちるのために演奏しなくちゃ後悔するはず。知子の胸の内は、そういう純粋な気持ちなんじゃないだろうか。もちろん、これが成立するのは、めぐが納得していればの話だ。けど、知子はめぐを無理やり黙らせて、強硬策に出るような人じゃない。そしてそれは、あの時招集された三年生部員たちが納得していたこと、それが何よりの証拠になる。


 落ち着き払ったみなこの声を聞いて、さっきまで感情的になっていた三人はすっかり静かになった。気まずさを隠せないらしく、三人とも視線をそらしている。「織辺先輩の優しさを受け止めることは出来ませんか?」と続けたみなこに、みちるはその場に崩れるように座り込んだ。


「これじゃ、前の会議の時と同じやんか。みんなで私のことを説得して。私がこんな曲を選んでしまったせいで……部がバラバラに……」


「バラバラになんてなってないです!」


 訥々と嗚咽混じりのみちるの言葉を遮るように、聞き慣れた声が部室に響いた。みなこは慌てて振り返る。開いた扉の前に立っていたのはめぐだった。


「バラバラになってるやんか。演奏もぐちゃぐちゃになってもうて、みんな集中も出来てない。私があの曲を選びさえしなければ、こんなことにはなってなかったはずやろ。なんで分かってくれへんの」


「それじゃ、あの曲はもうやりませんか?」


 座り込んだまま小さく俯いたみちるは、めぐの言葉に何も返さない。数秒間だけ、みちるの返事を待っていためぐは、しびれを切らしたように口を開いた。

 

「曲の変更はまだ可能です。ビッグバンドで演奏出来る曲は何曲かあります。一週間あれば、それなりのクオリティーに出来るはずです……どうなんですか? ……選曲の判断はみちる先輩ですよ!」


 みちるがバラバラになった部の姿を元に戻したいのなら、曲を変えると言えばいい。それをしないのは……、みちる自身のエゴだ。自分のエゴと知子の優しさ、部としての方針に挟まれて、がんじがらめになってしまっている。


「みちる先輩はあの曲が好きなんですよね。あの曲に救われたんですよね。……お母さんがくれた大切な曲なんですよね! だからこそ、最後の大会で演奏したかったんじゃないんですか?」


「そうやよ。けど、みんなで演奏出来たら私はそれでええねん。大会の結果は……!」


「私たちにはそうとは思えないんです! 嘘はやめてください」


 みちるは無言を貫いて、否定も肯定もしない。けど、みちるの気持ちはここにいる全員が理解していた。


「織辺先輩の話を聞いて……織辺先輩の思いを知って……その上で、私には演奏なんて無理なんです……。織辺先輩に弾いて欲しいって思ってしまったんです」


「でも、」


「でも、じゃないです! この曲だから、私は織辺先輩に演奏して欲しいんです。みちる先輩こそ、どうして分かってくれないんですか?」


 責め立てためぐの言葉を聞いて、床に着いていたサックスががたんと傾いた。力感のないみちるの様子は、張り詰めていた何かがプツッと切れたようにも、溜まりきったダムが決壊したようにも見えた。


 それから、彼女の中に深く深く蓄積されていた感情が一気に流れ出た。


「……そりゃ、受け入れられるわけないやん! あなたは私のために我慢するって言ってるんやで! そんなの私のわがままでしかないんやから。そのわがままでみんなに迷惑をかけたくないし、気を使って心配なんてして欲しくない!」


「気なんて使ってませんよ!」


「そんなん嘘やんか! 私の過去に同情なんてせんといてよ! なんで、頼んでもないのにみんな私のことを……」


 みちるにそれを言わせているのは、あの頃の思いだろうか。一度、雨で泥濘んだ地面は簡単には乾かない。乾いたとしても、悲しみの足跡が深く刻まれていることだってある。音楽に救われたみちるの心には晴れ間が覗いていたはずだが、冷たい秋の雨に濡れた足元には、まだくっきりと足跡が残っていたらしい。そこに座り込んだみちるは、踏み潰されてしまい枯れそうな百合の花そのものだ。


 めぐが扉から手を離した。そっとみちるへと近づいていく。みなこも里帆もそれを見つめることしか出来なかった。上履きの音がコツコツと響く。迫ってきているのが分かったのか、みちるの肩がピクリと振るえた。


「みちる先輩や織辺先輩が、私にとって大切で大好きな先輩だからです。……もう少し私たちに甘えてください、……わがままを言ってください」


 まるで萎れた花弁を持ち上げてやるように、めぐの手がみちるの頬にそっと触れた。床に倒れていたサックスが僅かに持ち上がる。こちらを向いたみちるの瞳は、すっかり雨模様だった。けど、そこにはもう灰色の雲は掛かっていない。


「この曲で最優秀賞を取りたいんじゃないんですか? だから、この曲を選んだんですよね」


「それは……」


「わがままを言っても良いんです。心配をかけても良いんです。誰もそんなこと咎めていません。もし、みちる先輩が間違ったことを言った時は、間違っていると私たちは言います。不安定な時は支えさせてください。それはお互い様です。……それが友達や先輩後輩関係じゃないですか。だから、織辺先輩や私はこうしてわがままを言っているんです。それを聞いてください。私たちは、みちる先輩にこの曲で最優秀賞を取って欲しいんです」


「本当にめぐちゃんは出られなくてええの?」


「それが本心です」


 めぐの言葉に嘘が混じっていないわけじゃない、とみなこは思う。出たい気持ちが必ずあるはずだ。


 だけど、どんな形であれ、不平等は起こりうるし後悔が発生する。演奏が出来ないめぐの後悔と、最後の大会でみちるのために演奏出来ない知子の後悔を、天秤にかけなくちゃいけない。けど、それは本来選べないものなのだ。


 それと一緒で誰かが誰かを思う優しさも優越はつけられない。みちるのために演奏がしたい知子、知子の思いを汲んで諦めためぐ、部の方針に従いめぐの参加を願ったみちる。エゴと優しさが表裏一体のこの思いに、どれが正しいなんて正解はないから。


 だからこそ、今の宝塚南にとっての部の総意を正解にするしかないのだ。判断基準は、気の迷いかもしれないし、いっときの感情かもしれない。時間が経てば間違っていたと思うかもしれないし、必ずしも正しいわけじゃないかもしれない。けど、めぐの気持ちをみちるがちゃんと理解したことで、嘘や秘密はすべてなくなった。それが正しさになりうるものだと信じるしかない。


 少なくとも、みちるの心の雨は本当の意味で止んだのだろうと思った。後輩の胸の中に倒れ込んだみちるは、見せたくなかった姿を自分たちに見せてくれている。


「みちる、ごめん」


 沈黙が支配していた空間に響いたのは、ここにいる誰かの声ではなく知子のものだった。半端に開いていた扉からこちらの様子が聞こえていたらしい。下校時間はとっくに過ぎていて、大スタジオの方には誰もいなくなってしまっていた。


「私が悪いねん。みちるの気持ちを考えていたはずやのに、だんだんいろんなことが分からなくなって」


「ううん。私も誰かを思っているフリをして自分の気持ちしか考えてなかったと思う」


 みちるの言葉に、知子は表情を曇らせる。めぐが知子の気持ちを代弁するように、「いいえ、みちる先輩の優しさやったと私は思ってますよ」とみちるの髪を優しく撫でた。


 無言のまま相槌を打って、知子が言葉を紡ぎ始める。


「……私はもう、誰かのためなんて言わない。自分の素直な気持ちを言う。中学の時に、みちると出会って私の中で、音楽が、ジャズが、より大きく楽しく特別なものになった。それはみちるのことを一番の友達だと思えたから。……みちるのお母さんの曲も、みちるのサックスも、私は大好きやねん。だから、私にあの曲を弾かせて欲しい」


 深く下げられた頭は、みちるとめぐに向けられたものだ。けど、めぐは知子のその思いにすでに気づいている。だからこれはみちるのために下げられたものだ。


「だめかな?」


 知子に訊ねられて、みちるは黙ったまま頷いた。涙のせいで声が出せないんだと思う。みちるの反応を見て、知子は安心したように息を漏らした。優しく穏やかな吐息だった。くるり、と踵を返してこちらを向く。


「里帆さんも、清瀬さんも、高橋くんもごめん。頼りない、不甲斐ない部長で……」


「謝らないでくださいよ」


 頭を下げようとした知子をみなこは手を前に出して静止させる。半端な姿勢で止まったまま、知子は続けた。


「みんながいなかったら、不安や不満が渦巻いたまま大会で演奏していて、結果的にぐちゃぐちゃになって……、一番後悔が残る形になってたと思う」


「……みちる先輩の曲に対する思いを知れて私たちはよかったと思っています。この曲に対する私の思いも変わりましたから。知ってから言えることですが、みちる先輩の気持ちを知らずに大会になんて望みたくなかった。だから、他のみんなも同じことを思うはずなんです」


 みなこたちがやっていたことは、大会前にジェンガの山を崩してしまうことだったらしい。崩れそうな山をなんとか持ちこたえさせようとしていたつもりだったけど。でも、大会の演奏中に崩れて、取り返しのつかないことになってしまうよりかはいい。それに、崩れてしまったジェンガはまた積み重ねればいいのだ。その方法は、決して難しいものじゃない。


「……うん。明日、みんなに説明しようと思う。今回の経緯を、私の気持ちを。でも、みちるの両親のことを話さなくちゃいけない」


 最後は、みちるに語りかけたものだ。「ううん、もう大丈夫……」とみちるは顔を上げて、真っ赤な目をくしゃりと潰しながら答えた。その顔を間近で見つめながら、めぐが可愛さたっぷりに微笑む。


「この曲に込められた思いを、みんなで背負わせてください。演奏をしていなくても、私も同じ気持ちですから。その代わり、二人とも素敵な演奏を頼みますよ!」


「ありがとう」


 知子とみちるの声が綺麗にユニゾンした。

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