第7話 あの子の過去Ⅱ

「みちる先輩の過去ですか?」


「……どこから話そうかな」


 ステージから腰を浮かせて、横山は端に寄せられていた丸椅子の方へトボトボと足を動かした。上下に噛み合わせて置かれていた椅子を二つ手にとって、一つをみなこに手渡す。


 みなこは受け取ったその場に椅子を置いて、横山の方を向きながら腰掛けた。


「みちる先輩のこと小さい頃から知っているんですよね?」


「うん。お腹の中にいる時からね」


「それじゃ、みちる先輩のお母さんとは知り合いだったんですか?」


 椅子に腰掛けながら、横山が静かに頷く。隅に寄せられていた丸テーブルに身体を預けながら頬杖を突いた。真っ白な電球の明かりを反射した瞳は、懐かしい感情で彩られているように見えた。彼女の脳内に映し出されているのは、そういう輝かしい思い出なのだろうか。


「高校の同級生やった」


 同級生の子どもなら、横山がみちるのことを知っていても不思議ではない。そうなると、川上もみちるのことを小さい頃から知っていたということだろう。だったら、とみなこは訊ねる。


「みちる先輩のことをよく知ってますよね」


「そうやね。知り過ぎなくらいかもしれない」


「知りすぎって……」


 みなこの言葉を詰まらせたのは、横山の瞳が少しだけ悲しい色に変わったからだ。そう思うのはきっと彼女が顔を伏せたせいだろうけど。


「順序立てて話さないとあかんかな。……気づいているとは思うけど、みちるちゃんのお母さんと私、それに恵っちゃんは同じ宝塚南高校の同級生」


「川上先生も小さい頃からみちる先輩のことを知ってたんですね」


「三人は仲が良かったから。みちるちゃんが生まれた時も病院に駆けつけたよ。友達の子なのに、こんなに可愛くて愛おしいんだって思った。それは恵っちゃんも同じだったはず。みちるちゃんが生まれたことを、私や恵っちゃんは、あの子の何倍も喜んでいたから」


 仲の良い三人。「それなのに、どうしてそんなに悲しい目をしているんですか?」みなこの喉元にそんな問いかけが引っかかる。その問いかけをすれば、傷つくのは自分だと本能的に分かった。過去を知る覚悟を決めたはずなのに。ここまで来ておいて怖気づいている。けど、後戻りはできない。この質問を飲み込んでも吐き出しても、いずれ横山は同じことを言うはずだと思った。


「ちょっと時間を進めちゃったね。……宝塚南の同級生だった頃に話を戻すと、みちるちゃんのお母さんもジャズ研の部員やったの」


「そうだったんですか」


「そう。それに、みちるちゃんが副部長になって驚いた。あの頃、あの子も宝塚南の副部長やったから。親子揃って副部長だって、恵っちゃんと一緒に喜んだ」


「もしかして、部長は川上先輩ですか?」 


「正解。恵っちゃんが部長で、みちるちゃんのお母さんが副部長。二人は、実力も拮抗してて……。恵っちゃん本人は勝ったと思ったことはないかもしれんけど」


「それじゃもしかして、以前に話していた川上先生が音楽を諦めて教員になったのって」


「みちるちゃんのお母さんに勝てなかったから。もちろん、それだけじゃないと思うで。教員になりたい気持ちだってあったはず。それが原因で不仲になったなんてこともないし。恵っちゃんも踏ん切る理由が欲しかったのかも」


 川上の気持ちはなんとなく分かる気がした。音楽が大っ嫌いになったわけじゃない。ただ、新しい決断をするために、大好きなものから離れたかったんだと思う。


 横山は、頬杖をやめて顔の前で手を結んだ。その小さな拳を額に当てた。


「でも、やっぱり、あの子の力が本物過ぎたっていうのが大きいのかも」


「みちる先輩のお母さんは、そんなに上手だったんですか」


「大会で優秀な成績を収められたのも、あの子のおかげが大きかった。それにうちで唯一個人賞も取っていたし。それは一年生の時からずっとね。あの子のサックスは、優しくて穏やかで、聞いていて心が暖かくなるような、そんな音を出してくれる。ジャズでも吹奏楽の曲でも、どんな曲をやらせても一級品やった。それに可愛らしくて綺麗で。みちるちゃんは面影どころかお母さんにそっくりやで」


「みちる先輩のお母さんのサックス、一度聞いてみたいです」


 きっと、みちるのような素敵な音を奏でてくれるはず。それに、みなこの言葉には、OGなら横山のように教示してくれるという期待も籠もっていた。横山と川上が脱帽するほどの実力者に教われば、部のレベルは間違いなく上がる。


 けど、横山の表情を見て、自分の発言がどれだけ考えの至らないものだったかを痛感した。どうして横山がこれほど悲しい表情をしているのか。どうして、みちるの過去を聞くことに覚悟がいるのか。横山が言葉を紡ぐよりも先に脳内を巡った憶測が、吐き出した言葉を後悔させる。


「みちるちゃんが生まれて、二度目の春を迎えた頃だったかな。あの子の胸に癌が見つかった」


 無理やり平静を保とうとしているのが分かった。伏せた双眸に涙が浮かんでいる。きっと、瞳を輝かせているのは、美しかった思い出だ。


「若いと病気の進行は早くてね。手術をしても助かる見込みはかなり低いって。結婚してまもなくで、子どもが生まれたばかりで、どうしてあの子なんだろうって……。優しくて可愛くて穏やかなで、一番の友人だったあの子との時間は、何の前振りもなく終わりの時を知らされた……」


 かけるべき言葉は見つからない。悲しむ横山の姿だけを捉えた視線は動かせないまま、じっと一点を見つめて、彼女の紡ぐ声だけを聞いていた。


「きっと、一番辛かったのはあの子のはずなのに、泣いた私や恵っちゃんを慰めてくれてね。……みちるちゃんは覚えてないかもしれないけど、あの子が息を引き取る時、みちるちゃんはずっと手を握ってた。だから、寂しくはなかったはずだって。安らかなあの子の閉じた目を見つめながら、私はずっと心でそう唱えていた」


「それじゃ、みちる先輩はお母さんのことをあまり覚えていないんですか」


「多分ね。物心が付く前だったし。……けど、」


 そこで横山は言葉を詰まらせた。「ちゃんと順を追って話さないとね」と言って、座っていた椅子から立ち上がり、ゆっくりとステージ脇の階段の方へと歩き出す。


「みちるちゃんは性格もあの子にそっくりでおとなしい子だった。学校では友達は少なかったみたいだけど、元気に成長してくれるのが、私たちの細やかな喜びやったの。あの子の仏壇に手を合わせるためっていうのもあるけど、時々家に行って、幼いみちるちゃんと遊んでいたのが昨日のことみたいに思う」


 ライブハウスの真っ黒な床は、まるでブラックホールみたいに横山の温もりのある言葉を吸い込んでいく。それから、と続けた横山の声は宇宙の闇の中に沈んでいくようにまた少しだけ暗くなっていった。


「みちるちゃんが中学生になる少し前くらいだったかな。お父さんも亡くなった。みちるちゃんのセーラー服姿をずっと楽しみにしていたんやけど、その姿を見ることが出来ないまま……」


「みちる先輩は一人ぼっちになっちゃたんですか?」


「ううん。愛媛からお祖母ちゃんが来てくれていたから。あれから、みちるちゃんは、ずっとお祖母ちゃんと二人暮らし」


 横山が段差にしゃがみ込んだ。膝を抱えて、まるで子どもみたいに座り込む。長い髪が乱れることも意に介さずに腕の間へと顔を埋めた。


「私たちが遊びに行っても、みちるちゃんはいつも平気な顔をしていた。辛いはずなのに、苦しいはずなのに。安寧とした態度で接してくるみちるちゃんを抱きしめることが出来なくて……。嘘だって分かっていたのに、辛くないわけがないって分かっていたのに」


 後悔で縁取られた言葉は、すぐに消えることなく辺りを浮遊しているみたいだった。無重力の中を漂う寂寞が、静かにみなこに降り注ぐ。


「みちるちゃんは、二年生になって学校へ行かなくなった。行けなくなったっていう方が正しいのかもしれない。あの子に似て、自分の気持ちを話してくれるタイプじゃなかったから、理由は分からないけど。頑張りすぎたんだと思う。誰かと仲良くしようだとか、寂しいところを見せないようにしようだとか。周りに気を使って、強いフリをしてたのが限界に来たんだと思う。私は、塞ぎ込んだみちるちゃんを見てられなかった。あの子との思い出を重ねていたのだとすれば、身勝手な話だけど。それでも、どうにかしてあげたかった」


「気持ちは分かる気がします」


「それでね、恵っちゃんと相談して、プレゼントを贈ることにしてん。もしかすると、そのプレゼントは逆効果で、傷つけてしまうかもしれない。そんな恐怖を感じながら、プレゼントを持っていった」


「何を渡したんですか?」


「テナー・サックス」


 顔を上げた横山の目は真っ赤になっていた。目頭から落ちた雫は、激しく灯るスポットライトの中へと消えていく。みなこは立ち上がって、横山の傍へと歩み寄った。


「みちる先輩はもっと昔から音楽をやっていたのかと思っていました」


「ううん。はじめは、お母さんがやっていた音楽に抵抗があったみたいだったけど、その音色に懐かしさを感じてくれたのか、それとも血筋なのか、すぐに音楽へとのめり込んでいってくれた。私が宝塚市内のジャズスクールを紹介して、知子ちゃんと知り合ったのはこの頃やったかな……」


「中学生の頃から二人は知り合いやったんですか?」


「二人とも引っ込み思案だったけど、性格が似ていたおかげか、すぐに仲良くなれたみたい。好きなジャズの曲も同じで……。それから徐々にみちるちゃんはどんどん明るくなっていった。高校生になったら宝塚南に入学してジャズ研に入るんだ、って報告を受けた時は本当に嬉しかった。その頃には、恵っちゃんが宝塚南で教師をしていたから」


「みちる先輩は音楽に救われたんですね」


「そうだといいな……。私は、みちるちゃんに感情を表現できるものを与えたかったんだと思う」

 

 横山が涙を拭った。綺麗な彼女も近くで見れば、目尻に年相応の皺が見える。けど、それはしっかりとここまで生きてきた証だ。近くに寄ったみなこの顔を見つめると、彼女は困ったような表情を浮かべた。


 恐らく、みなこが解せない顔をしていたからだ。みちるが音楽に救われて、知子と知り合った過程は分かった。みちるの境遇に同情するし、横山がみちるのことを思う気持ちも痛いくらいに分かる。けど、その過去たちが、今回の知子の判断とどう関係あるのかが分からない。もちろん、知子やみちるの気持ちを考えると、推測できることはあるけど。


 たとえば、一緒に宝塚南へ進学し大会に出て、優秀な成績を収めようと約束したのだとするなら、実力のある知子が参加するべきと判断したのも頷ける。


 けど、それなら、他の部員にその理由を黙っている必要は無いはずだ。「みちると交わした約束を守るために、私はビッグバンドでも出演したい」と言えばいい。嫌われたくないから黙っていることは無いはずだから。だって知子は、みなこと里帆の前でエゴな理由を告げていた。――めぐをビッグバンドから外すのは、優秀な成績を収めるためだ、と。


 それに、みちるの両親が亡くなっていることを隠したいのだとしても、わざわざその話をする必要は無いはずだ。知子と出会い約束した。二人の間の友情に疑問はない。だから、それだけで部員は納得するはず。


 拳をぐっと握りしめる。鋭い痛みが下唇を伝わって、同時に唇も噛み締めていたんだと気づく。どれだけ心が傷む結果になろうと聞かなくちゃいけないのだ。みなこはここに、みちるの痛みや過去の苦しみを分かち合うために来たんじゃない。友人のめぐのため、そして大会に集中するエゴのためにやって来た。ひどく冷たい人間だと思われたとしても、本懐を果たさずに帰るわけにはいかない。祥子が言っていた『誰かを思う優しさ』。その正体が分からなくては、ここに来た意味はないのだ。


「一体、織辺先輩は何を隠してるんですか? 横山さんが話してくれた過去の中に、今回の真実はあるんですか?」


 横山は静かに頭を振って、吐息混じりの声で「まだ一つ言えてないことがある」と告げた。


「なんですか?」


「これは、知子ちゃんやみちるちゃんが隠していること。それを私の口から告げべきなのかどうか分からないけど、」


 言葉とはあべこべで、横山に迷いはないように思えた。ただ、こちらの最後の覚悟を試しているだけなのだ。だけど、ここまで来てみなこに逃げるつもりはない。「話してください。すべて受け止める覚悟は出来てます」そう言いながら、まるで自分に言い聞かせるようだとみなこは思った。


「……みちるちゃんのお母さんは、プロのサックス奏者だった」


「サックスのプロですか?」


「そう。あの子は、宝塚南を卒業してから音大に入って在学中にデビューしたの。若くして作曲も出来る女性天才サックス奏者って売り出しで、若手最注目株の一人だった。雑誌で取り上げられたり、ウェブのニュース記事になったり。一緒に演奏していた仲間が広い世界に羽ばたいていく。まるで私たちの思いまで乗せて、飛んでいってくれているみたいで、素直に嬉しかった」


 懐かしそうに話す横山の顔を見つめながら、みなこの身体からふっと力が抜けていく。彼女が話すみちるの母の経歴、そこに当てはまるミュージシャンをみなこはただ一人だけ知っていた。脳裏に浮かんだ優しく穏やかな表情は、思い返せばみちるに良く似ていた。


「みちるちゃんが生まれた年に初めてオリジナルのCDを出すことになったの。……それが最初で最後のアルバムになっちゃったけど。そのアルバムの中に一曲、みちるちゃんのために作られた曲があった」


 横山がスマートフォンを操作する。音楽アプリを立ち上げるつもりだ。そして、彼女の手の平の中から流れてくる曲が何なのかみなこは気づいていた。


 難解なピアノのイントロ。秋の嵐を思わせる金管楽器のユニゾン。冷たい豪雨の中で一輪の花が凛と佇んでいる。『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』。激しさと疾走感が織りなす冒頭が、みなこの鼓膜をそっと揺すった。細かい音符のその節々に、作曲者の心の穏やかさが隠されているような気がした。次第に嵐が過ぎ去って、曲の景色は鮮やかな水色の青空へと姿を変えていく。


「みちる先輩のお母さんのお名前は、漆崎日菜子さんですね」


「そう。漆崎は旧姓ね。『Rain Lilly』は、生まれてきたみちるちゃんのことをイメージして作ったらしい。人生には悲しみや絶望の雨が降り注ぐ時が必ずある。けど、強く優しく美しく真摯に生きていれば、いつか晴れ間が顔を覗かしてくれるんだって。それが例え刹那の一瞬でもいい。その僅かな時を生きるために人は産声をあげるんだって、メッセージを込めてね」


 病気が判明した彼女は冷たい雨の中にいたはずだ。身体の熱を奪っていく秋雨の中で、恐怖と悲しみに押しつぶされそうになりながら、幼い我が子を残してこの世を去る無念は想像するだけで胸が張り裂けそうになる。


 彼女は最期、晴れ間を見つけることが出来たのだろうか。止まない雨は無いのだろうけど、降りしきる雨の中で尽きる命だってあるはずだ。彼女がそうであったと思うのは、亡状な想像かもしれない。それでも彼女はそのメッセージを我が子に託した。


「みちる先輩の心は、この曲のおかげで晴れたんだと思います」


「多分そうやと思う。あの子が、みちるを前向きにしてくれた。だから、私がみちるちゃんに表現出来るものを与えたかったなんていうのは、私の身勝手な思いよね」


「そうは思いません。みちる先輩がこの曲の本当の意味に気づけたのは、サックスを始めたから、音楽と向き合ったからなんだと思います。……だから、横山さんや川上先生のおかげなんじゃないですか」


「そうかな」


 横山は優しく笑ってみせた。赤く腫れた目元がくしゃっと潰れる。みなこは、ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込んで、それをゆっくりと吐き出した。


「みちる先輩は、音楽に……この曲に……人生を救われたんだと思います」


 そして、その曲を自身最後の大会の曲に選ぶということがどういうことなのか。少なくともあの会議の場にいた部員たちは理解しているはず。さらに言えば、知子は、みちるが『Rain Lilly』を選曲した時点で、こうすると決めていたのかもしれない。めぐじゃなく自分が演奏したいと望む知子の気持ちは痛いくらいに分かる。


 きっと、めぐも今のみなこと同じ気持ちになったはずだ。尊敬する先輩が、親友の人生の糧となった曲を弾きたいと懇願している。それを拒む理由はめぐの中に無かったのかもしれない。天国の亡き母がみちるのために残してくれた曲だと知ればなおさらだ。


 みなこだって、最後くらい知子のそのわがままは通ってもいいと思っている。


「私から話せることはこれくらい」


「いいえ。ありがとうございました」


「納得できたかな?」


「はい。少なくとも私は織辺先輩の気持ちは分かった気がします」


 そう、みちるの境遇を知り、理解できたのは知子の思いだけなのだ。みちる自身は、こうなることを望んでいたのだろうか。自分が思い入れのあるあの曲を選べば、知子がピアノを弾いてくれると打算的に動いていたのだろうか。


 みなこには、そんな風に思えなかった。だからこそ、里帆に詰め寄られて、みちるは困惑していた。オーディションのあと、他の三年生を招集して会議を行った。それは、知子が「自分が弾く!」だなんて言い出すと思いもしなかったからじゃないだろうか。他の三年生に、部の方針と違うからと反対して欲しかったんじゃないだろうか。


 みちるの気持ちと知子の気持ちを同時に思案すればするほど、この件は互いの思いが複雑に食い違っていることに気づく。エゴと優しさで積み重なったジェンガのタワーは、どれか一つでも抜いてしまうだけで、今にも倒れてしまいそうなほど、絶妙なバランスを保っていた。

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