第4話 目配せ

 続々と部員たちが部室をあとにする中、みなこは桃菜に声をかけようとしていた。しかし、桃菜のそばには常に美帆がいて話しかけづらい。ギターの手入れをするフリをして、一人になるタイミングはないかとじっと機会を伺う。


「みなこ、帰ろうや」


「う、うん……」


 ギターを抱えて丸椅子に座っていたみなこの背中越しから、七海が顔を覗かせた。スクールバックを肩にかけて、唇をつんと尖らせている。


「弦でも張り替えんの?」


「そういうわけじゃないけど」


 美帆は彼氏であるらしい健太と帰るはずだから、しばらくすれば桃菜は一人きりになると踏んでいたけど、なかなか思うようにはいかない。何も恋人だからと言って、毎日一緒に帰らなければいけない決まりはないのだ。いつの間にか健太は部室からいなくなっていたので、先に帰ったのかもしれない。三年生は受験が迫っていて忙しのかもしれない。


「やったら早く帰ろうや」


 廊下にはすでに佳奈やめぐも待ってくれている。これ以上、粘っても桃菜が一人になることはなさそうだ。


「うん。ギター、仕舞うから待って」


 とはいえ。残された時間はあまりにも少ない。夏休みが明ければ、部活の時間が減って桃菜が一人になるタイミングもそれだけ少なくなる。それに文化祭までは、あと二週間ほどしかないのだ。その後の展開を考えると、声をかけるのは早い段階に越したことはない。


 もう少し粘るべきだ、と焦る気持ちとは裏腹に、臆病な自分は今すぐに帰りたがっていた。先延ばしの悪いくせが嫌になる。


 ソフトケースにギターを仕舞い、みなこは椅子から立ち上がった。挨拶をしようと周りを見渡せば、いつの間にか桃菜と美帆は部室からいなくなっていた。少し目を離した隙きに帰ってしまったらしい。


 今日は声をかけなくて済んだ。ほっと胸をなでおろし穏やかになった鼓動に、先程まで少しだけ緊張していたことに気がつく。こういう役回りは基本的にはやっぱり苦手だ。自分は積極的に動けるタイプじゃない。


「おまたせー」


 陽気な声を弾ませながら、七海がめぐの身体にすり寄る。「暑苦しい!」と、むしっとした廊下にめぐの悲鳴が響いた。


「七海ちゃんは宿題終わった?」


「へへ、奏、驚いたらあかんで! ばっちりや!」


「えー意外やな」


「めぐ、ひどっ! うちだって宿題くらいちゃんとやるから!」


「私が手伝ってあげたんやろ。一昨日、泣きついてきたのは誰だったかな……?」


「みなこ、それは内緒やから」


 階段の方へ歩を進めようとしたタイミングで、みんなの視線が音楽室の方を向いた。「お疲れ様でした」と一同が頭を下げたのを見て、みなこは振り返る。


「おつかれ」


 口端を緩めて手をふる美帆と無言のまま軽く頭を下げる桃菜。二人の手には金色の楽器が握られていた。


 二人の姿を見て、みなこも慌てて頭を下げる。てっきり帰ってしまったと思ったけど、準備室に楽器を片付けに向かっていたらしい。ちなみに、吹奏楽部はすでに練習を終えていて、音楽室はシーンと静けさに包まれていた。


「ほら、ぶすっとした顔してたら後輩ちゃんが怖がるやろ! また明日ねー」


 美帆は桃菜の手を掴み無理やり手を振らせた。苦笑いを浮かべる一同に対し、手を振り返す七海。桃菜は露骨に不服そうな表情を浮かべながら、操り人の言うことに従っている。


「何してんの?」


 準備室から出てきた里帆が呆れた表情で二人を見遣った。


「桃菜が怖い顔するから、かわいい後輩ちゃん達にちゃんと挨拶させてんねん」


「桃菜は嫌がってるんちゃう?」


「嫌がってないやんな?」


 ニコッと笑みを浮かべて、美帆は桃菜の頬を片手で掴む。しっかりと固定された美帆の手の中で、桃菜の顔が左右に揺れた。


「ほら、嫌がってるんやん」


「これは桃菜なりの私への愛情表現なんですー」


「そうは見えへんけどー?」


 杏奈と桃菜の関係があるとはいえ、里帆と桃菜の間に亀裂はないらしい。里帆の言葉に桃菜はコクリと頷き、「愛情表現ちゃう」と喉を振るえさせる。


「んー。今日は随分反抗的やなー」


 肉付きの薄い桃菜の頬を、美帆がぎゅーと抑え込む。うぅ、と桃菜はうねり声を上げた。崩れる桃菜の表情に笑う里帆の視線がチラリとこちらを向いた。


「美帆、今日、健太先輩は?」


「今日は予備校があるからって先に帰ったで」


「そっか。ほんなら頼まれごとしてくれる?」 


「なに?」


「小スタに残ってる去年までの楽譜の整理を頼まれてんけどさ、もうすぐ下校時間やろ。一人やと時間かかりそうで」


「なんで私?」


「かわいい後輩ちゃんにやらせるつもり?」


 うーん、と喉を鳴らしながら、美帆は手首の時計に視線を落とした。七時に限りなく近い位置に、短針があるはずだ。


「もー、……しゃあないな。ごめん、桃菜。私のトランペットもなおしといて」


「うん。ええよ」


 手に持っていたトランペットを桃菜に手渡し、美帆は大きくため息をこぼす。「ありがとう」と里帆が美帆の手を引いた。


 二人が部室へと入っていく瞬間、里帆がこちらに目配せを飛ばした。桃菜が一人になるチャンスを作ったから。そんなメッセージをみなこは受け取る。だけど、きっとこれは強制じゃない。杏奈の時と同じだ。機会はあげるけど、そのチャンスを活かすかどうかの判断はこちらに委ねられている。あくまで立ち聞きをしてしまった罪滅ぼしのため。気に留める必要はないけど、気になるなら入ってくることを拒まないから好きにして。里帆のスタンスは一貫されている。


 準備室の中へ消えていく桃菜の背中。プラスティックのスイッチが弾ける音がして、夕焼けに染まった廊下にパッと明かりが漏れる。何重にも重なった影のコントラストの中に、彼女の姿が消えていく。きっと、部屋の中は桃菜一人きりだ。


「みなこどうしたん?」


 階段の方から七海の声がして振り返った。みんなはすでに踊り場の方に集まっている。せっかく里帆が作ってくれたチャンス。難しいことは考えずに飛び込もう。もし、失敗したって里帆はカバーをしてくれるつもりのはずだ。彼女はそういう人だ。それに、航平だって味方をしてくれると言ってくれた。その言葉がどうしてか不思議と勇気の後押しになる。


「ごめん、先に帰ってて。ちょっと用事が……」


「またー! 朝、先に行くことも多いしー」


 そういえば、この夏はこういうことが多い気がする。里帆や杏奈と話すために、放課後残ったり、七海を置いて先に登校したり……。朝の大半は、七海の寝坊が原因だった気がするけど。


 事情を説明することは出来ない。「ごめんな」と謝罪をもう一度口にして、みなこは桃菜がいる準備室へ向かった。

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