第3話 無関心

 感情的なトロンボーンのグリッサンドが登場するのは、『Rain Lilly』の中盤、秋の嵐のように激しく入れ替わるトランペットとピアノのソロを繋ぐシーンだ。吹き荒れては気まぐれに穏やかになる風のような難解なパッセージを桃菜は涼し気な顔で吹きこなす。


 同じフレーズを杏奈と大樹も演奏しているのだが、そのクオリティーの差は一目瞭然だった。恐ろしいくらい早いテンポ感に大樹は顔をしかめて、曲の難易度に杏奈は顔をこわばらせている。二人は中学生の頃から吹奏楽部でトロンボーンをやってきたはずだ。今はメインにしている楽器は違うけど。少なくとも杏奈は全国を目指していたらしい。それなのに、桃菜はトロンボーンをはじめてまだ一年半ほどしか経過していない。


 ――特別。


 杏奈が言った言葉が脳裏を過る。確かに桃菜は天才だ。その実力は疑いようがない。


 中盤の終わりを告げたのは、雷鳴のようなピアノのクレッシェンド。轟々と吹き付ける風のようなトランペットが一瞬にして淀んだ世界を晴らしていく。残響が柔らかく散っていく中で、奏のウッドベースが嵐の過ぎ去ったあとの空みたいな静かなラインを刻んだ。


 奏がウッドベースでビッグバンドに参加するようになったのは合宿明けから。個人練習の合間を縫ってずっと行っていた練習がようやく身を結んだ。アドリブの練習と平行しなくてはいけない中、たった三ヶ月ほどで人前に出られると判断される腕前まで持っていくのはかなりの努力があったに違いない。一般的に、ウッドベースからエレキベースへの持ち替えよりも困難だとされているのだ。


 曲の終盤は、しっとりとしたテンポでメロディアスな雰囲気に包まれる。みちるの優しいサックスのサウンドが奏のウッドベースに寄り添う。穏やかな風が空にかかった灰色の雲を払いのけるようにさらに知子のピアノが加わる。溢れ出すキラキラとした陽射しが濡れた花弁を煌めかせた。それから息をするまもなく始まる、穏やかなサックスとトロンボーンの掛け合い。演奏するのは、もちろん佳奈と桃菜だ。


 最後の盛り上がりに向けて、二人の掛け合いはヒートアップしていく。アドリブの応酬。彼女たちには、どれだけのレパートリーがあるのだろうか。演奏のたびに違った景色が見える。ギターのカッティングのリズムが狂ってしまうそうになるほど、みなこは毎回二人の演奏に聞き惚れてしまう。


「なかなか良くなってきてるよ。他の曲のクオリティーも上がってきてるし、文化祭は問題なさそうやね」


 満足気にみちるが鼻からふんと息を吐き出す。首元のストラップからサックスを外し、緩んだ表情のまま片付けを始めた。気が付かない間にもう下校時間だ。窓のないスタジオは外の景色が分からず、集中していると時間があっという間に過ぎてしまう。


「今日はこのくらいやな。それじゃ、明日は夏休み最後の練習です。セッションは昼からを予定していますが、クラスの出し物の手伝いとかの予定はありますか?」


 知子の問いかけに里帆が手を上げ答える。


「二時までクラスの準備手伝わんと駄目みたいで」


「あ、俺もです」


 里帆の言葉に大樹が同調した。彼が片付けている古びたトロンボーンは学校の備品だ。目を細めた里帆が彼の方をちらりと見遣る。


「真似せんといてよ」


「同じクラスやねんからしゃーないやろがい」


 すんと拗ねたように鼻を鳴らし、里帆は知子の方を向く。「すみません」と申し訳無さそうに頭を下げて、二つ結びにした髪を揺らした。


「ううん。クラスの準備も大切やから。セッションは二時からにしようか。それじゃ本日の練習はここまでです。お疲れ様でした」


「お疲れ様でした」


 部員が一斉に返事をする。バタバタと周りが帰り支度を整えている中、みなこはぼんやりと桃菜の方を見つめていた。


 昨日、航平と話したお陰で、やるべきことが見えた気がしていた。奏が傷つかないために自分に出来ること。それはやっぱり杏奈の説得だ。


 奏のために部活を辞めないで欲しいと頼むしかない。だけど、これはやっぱり杏奈と桃菜二人の問題なのだ。一方的に、杏奈に求めるだけでは話の筋が通らないと思う。


 つまり、まず今の自分が対話すべきは桃菜なのだ。彼女がどう思い、何を考えているのか。杏奈にしたように、彼女にもそれを聞かなくちゃいけない。


 だが、自分は桃菜とどんな話をすればいいのだろうか。そもそも二人のわだかまりは自分に解決できる問題なのか? 子どもの喧嘩だというなら、双方が謝れば万事解決する。けど、これは杏奈のプライドの問題なのだ。桃菜に奪われたポジション、それから文化祭という彼女にとって特別な舞台の存在。これらをなかったことには出来ない。


 ――桃菜が杏奈にトロンボーンのパートを譲る。そんな幼稚な解決策が脳裏をかすめた。そんなわけにはいかないことくらい分かっている。コンボは完全に実力主義なのだ。その提案がどれだけ屈辱的な思いをさせるのか、想像するだけで吐き気がする。


 そもそも桃菜は自分のせいで、杏奈が退部してしまうことを知っているのだろうか。お互い好意的に思っていないと杏奈は言っていたが、いくら嫌いな相手だとしても、同級生が退部することに無関心でいれるものだろうか。


 もし、この春先の関係のまま佳奈が退部すると言い出したら、自分はどういう気持ちになったのだろう。微妙な距離感の同級生の退部……。難解な想像の答えは、少なくとも無関心ではなかった。


 それじゃ逆に自分が退部する立場だったら。佳奈はどういう反応をしてくれただろう。


 無表情のままこちらを見つめる佳奈が浮かぶ。おそらく桃菜も同じ反応をするんじゃないだろうか。安易な桃菜のイメージ像はそうだと告げてくる。もちろん、杏奈の心境の変化を気づいていない可能性もあるけど。もし知らないなら、当事者の彼女は知るべきだ。そう思うのはおこがましいことだろうか。


 いつもの自分ならそう思って引き下がる。だけど、このままでは奏が傷ついてしまうのだ。他人の感情を言い訳に使うことに違和感を覚えつつ、きっとこれが航平の言う子どもっぽさだと自分に言い聞かせる。これは奏を守るための子どもっぽい私のわがままです、と。


「どっか不安なところがあるん?」


 ふと、思考が途切れたみなこの耳に入って来たのはみちるの声だった。ピアノの前で赤いリボンのご機嫌に揺らしながら、七海と話をしていた。整理している大きいクリアファイルは楽譜を仕舞うためのものだろう。


「『Milestones』のドラムがまだ不安で。午前中にセッション出来たらなって思って人を集めてるんですけど」


「七海ちゃんはこの曲先週からやもんね。それに、結構ドラムの難易度ある曲やし……。でも私も午前中はクラスの手伝いしなあかんねん」


「そうですか……。やっぱりみんな忙しいですね……」


「ごめんな……。でも、お昼からのセッションでこの曲に時間割くように知ちゃんにも言っとくから!」


「ありがとうございます!」


「七海ちゃんのドラムはぐんぐん上達してるから頑張ってね」 


「はい! みちる先輩のクラスは何やるんですか?」


「お化け屋敷やよー」


「夏っぽくていいですね!」


「おばけ役するから遊びに来てね」


 そこでみちるの視線はこちらに向いた。みなこちゃんもね、と言いたげだ。


「みなこはお化けとか苦手なんですよ」


「文化祭レベルだったら大丈夫やって」


 多分、と心の中で付け加える。肝試しや、本格的なお化け屋敷はゴメンだけど、さすがに学生が作るものなら怖くはないはずだ。


「それじゃ、みんなで遊びに来てね。でも、うちのは結構怖いと思うでー」


 珍しく悪戯っぽく口端を緩めたみちるが、くすりと笑みをこぼした。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る