第2話 夏の坂道

「また明日なー」


「うん。明日もちゃんと起きてや」


「もー。うちが寝坊したんは三回くらいやろ!」


 帰り道、七海との別れ際の会話はいつもこんな調子だ。


 前科がある時点で駄目なのだけど。不服そうに唇を閉じたみなこに向かって、七海が元気に手を振る。その笑顔は淡い夕焼けのオレンジ色に染まっていた。


「それじゃ、また明日ね」


 みなこと七海の家は、それほど離れているわけではないが、この辺りは道が入り組んでいる上に坂が多いため、鶯の森駅を出てすぐに別れることになる。毎朝、駅で待ち合わせしているのはそのためだ。七海は駅からすぐの細い道を通っていくのに対し、みなこは小高くなっている坂の方へ進んでいく。


 鶯の森は、基本的に静かな町だ。猪名川の渓谷も近く、大阪の池田いけだ市と隣接する川沿いには自然もたくさん残っている。一方で小高い森を越えた先にある幹線道路沿は、近年整備が進み住宅が建ち並んでいて川西市を縦断しているため交通量も多い。


 静かな阪急の駅側と幹線道路を結ぶ山道の中にひっそりと佇む住宅街。そこがみなこの住んでいるところだった。


 一段高くなった歩道をトボトボと歩きながら、背中に張り付くギターケースを軽く浮かした。じんわりと掻いた汗が、暑いはずの外気に触れてひんやりとする。空の色は、次第に夕方から夜になろうとしているのに、気温はまだ三十度を下回っていないらしい。この夏、最高の気温だと、今朝、天気予報士のおじさんがニュースで言っていた。


 酒屋の横に乱雑に並んでいるカラフルなビールケース、がらんと空いた駐車場、暑さに悲鳴を上げている自動販売機、電線と木と家々が交互に並び、次第に町が山の中へ溶けていく。じりじりと立ち込める陽炎に包み込まれた町は、ほんの少し物悲しい。左にカーブしていく坂に合わせて、しとしとと流れる溝渠こうきょをぼんやりと見つめていると、背後から声がかかった。


「おっす」


 聞き慣れた声に、みなこはローファーのかかとを軸にして、くるっと踵を返した。坂の上にいるお陰で、航平とは同じ視線の高さになっていた。


「同じ電車やったん?」


「みたいやな」


 航平の赤色のスニーカーが、コンクリートの隙間から生えた雑草を踏みしめる。彼が近づくに連れ、みなこの視線はゆっくりと上がっていく。みなこの横を通り過ぎる頃には、その角度はさらに急なものとなった。


 航平の背中が小高い山越しに沈んでいく夕焼けに重なる。街路樹の梢から漏れる光の筋が、彼の背中をキラキラと輝かせた。うるさい蝉の鳴き声の中に、彼の柔らかい声が混じる。


「夏休みも終わりやなあ」


「うん」


「宿題は終わったん?」


「七海じゃないんやから。ちゃんと終わらせてますよ」


「へー」


「航平こそ終わってんの?」


「英語がまだ少しだけ残ってるけど、まあ明日には終わらせれると思う」


 ガードレールで車道と仕切られた狭い歩道は、二人並んで歩くには少々狭い。手でも繋ぐか、腕を組めば歩けるかもしれないけど。一瞬、過ぎった想像をかき消そうと、みなこは首をブルブルと左右に振る。


「なぁ、みなこ」


「なに?」


「なんか悩んでる?」


「なんで?」


 通り過ぎていくオンボロな軽トラックのエンジン音が、自然の音しかしない町並みに轟々と響く。首だけをこちらに向けた航平の顔は、すごく真面目で優しくて、けど少しだけあどけない少年の面影が残っていた。だけど、みなこが知っている一番古い航平の記憶、小学校の低学年だった頃の彼の姿とは綺麗には重ならない。頬を搔きながら視線をそらし、航平はぼそっと言葉を続けた。

 

「前もそんな顔してたから。ほら、井垣と大西の時」


 そう言えば、夏前もこんなことがあった気がする。あれは、幹線道路沿いのコンビニだったはずだ。佳奈と七海のことで悩んでいた時、偶然居合わせた航平が相談に乗ってくれた。


 あの時よりも航平の背中が大きく見えるのはどうしてだろう。琵琶湖の湖岸で聴いた彼のトランペットのメロディが、リフレインのように耳の奥で響いていた。切なくて穏やかで、ちょっぴり格好いい。航平の手の中で揺れる真っ黒なトランペットケースを見つめて、みなこは短く息を吐く。


「あの時と似たようなことかも……」


「そっか。一人で抱え込んでるんやったら聞くで」


「うん」


 航平には不思議と話せてしまう。それはきっと幼馴染だからだ。そんな言い訳を心の中で唱え、みなこは杏奈の退部のこと、そのせいで奏が悩んでしまっている現状を話した。



 *


「なるほどな」


 うねうねと蛇行している道の左右には土砂崩れを防ぐための擁壁がそびえていた。自然の威厳の中に吸い込まれそうになる感覚。幼い頃からこの景色が苦手だったみなこだが、航平と共に歩いているせいか不思議と平気だった。


「それで、みなこはどうしたいん?」


「どうしたいって……それがよくわかんなくて」


 うーん、と喉を鳴らした航平は、徐々に藍色に染まっていく空を見上げた。数匹のコウモリが森から森へと渡っていく。鼓膜を揺すっているのは、山の中から響くひぐらしの鳴き声だ。


「こう言っちゃ悪いけどさ。みなこには関係のない話やん。そもそも二年生二人の問題なんやろ?」


「そうやけど」


 航平の言いたいことはちゃんと理解している。やっぱりこれは、あの二人の問題なのだ。奏ならまだしも少なくとも自分が首を突っ込むべきではない。だけど、それなら里帆はどうして自分に話を振って来たのだろう。


 てっきり奏と杏奈の問題だからだと思っていたけど。ただ単純に、話を聞かれたからだろうか。


「けど、悩んでるってことは、みなことしては納得できないことがあると」


「多分そう。奏ちゃんが傷つくんじゃないかって。杏奈先輩にやめて欲しくないはずやから」


「なるほどなぁ」


 地面に転がっていた蝉の抜け殻が、航平のスニーカーに踏まれてくしゃりと潰れる。勾配が終わり、住宅街が見えてきた。


「やったら、そうならんように動くしかないんちゃう?」


「そうならんようにって……?」


「みなこは谷川に傷ついて欲しくないんやろ?」


「うん」


「このままじっとしてても事態は好転せえへんやん。谷川が傷つかんように、みなこが働きかけるしかないと思うで」


 確かに放っておけば、来月には杏奈は部活を辞める。そうなれば、奏はきっと嫌な思いをするはずだ。その原因が自分でなかったとしても、直属の先輩が部活を去ることに対して何の感情も抱かない子ではない。


「けど、この件は私に関係のない問題やって言ったやん?」


「そうやな。でも、みなこが首を突っ込むことで事態が悪化するならまだしも、鈴木先輩の退部が覆ることが無さそうな現状、みなこが行動することでそれより悪い結果にはならんのちゃうかな。むしろ何もしない方が、谷川の気持ちを考えると悪い方向に転がりそう」


 航平の言う悪い方向とは、連鎖的に奏まで部活を辞めてしまうんじゃないかということだろう。きっとそこまではならない。そんな風に思うけど、可能性として考えられる以上、少しだけ気がかりだ。


「まぁ、下手にかき乱して笠原先輩まで……みたいなこともありえるかもしれんけど。お前はそういうところちゃんとわきまえて行動できるタイプなんちゃう?」


「航平もそんな風に思ってるん?」


 相談してきた奏や杏奈と話をするように頼んできた里帆もそうだが、自分はうまく立ち回れるタイプに見えているのだろうか。


「失言はせいへんタイプやん。大西と違って」


「七海と比べられるとそうかもしれんけどさ」


「二人の関係に口は出すべきではないと思うけど、そのせいで悩んでる人がいるなら話は別。谷川を守るために動くことは悪いことじゃないはず。もしなんか揉めるようなことがあったら、俺はみなこの味方してあげるから」


「航平が味方してくれたって、どうにかなるわけじゃないやろ」


「そうかもしれんけどさ」


 鼻から吸い込んだ夏の空気は、どうしてかほんの少しだけ甘酸っぱく、思わず口元が緩んでしまった。


「それにさ。俺らはまだ一年生やん」


「うーん?」


「子どもっぽくわがままに行動してもバチは当たらんと思うで。みなこはいっつも慎重過ぎ。そのへんは大西を見習わな」


「そんなもんなんかな」


「そういう振る舞いが出来んのは、今のうちだけやろ。先輩に甘えて見るのも悪くないんじゃないかって話」


 なんとなく航平の言いたいことも分かる。自分の中に大人を作って論理的に立ち振る舞うよりも、七海のように真っ直ぐぶつかることがいいことだってあるはず。きっと、今の自分達の年代では、そのうまいバランスを求められている気がした。


「ありがと」


 素直にお礼を言うのが恥ずかしく、遠い夕焼けに向かってみなこは呟いた。

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