第10話 暗い先輩

 スマートフォンのアラームが鳴り響く。普段よりも柔らかいベッドにうずめた顔を起こし、みなこは憎たらしく光る画面に触れた。


 時刻はまだ六時だ。音出し練習をしていいと言われているのは七時から。だけどギターならアンプに繋がなくても練習は出来る。眠い目をこすりながら、隣を見ると佳奈が「うぅ」と可愛らしいうねり声を上げていた。


「私、起きるよ」


「……どこいくの?」


 か細い佳奈の声が薄暗い部屋に響く。彼女の目は開いていないが枕に頬をつけて、顔だけはしっかりこちらを向いていた。


「早めにライブハウスに行って朝練。佳奈も行く?」 


「私はもう少しだけ……」


 どうやら佳奈は朝に弱いらしい。細い手が毛布をギュッと握り込む。


「集合時間は八時やからな。遅れんように。ベッドのアラーム七時十五分にセットしとくから」


「ありがとぅ……」


 お礼はスッーと寝息に変わっていく。一応保険にと、みなこは佳奈のベッドだけでなく自分のベッドのアラームも時間をずらしてセットしておいた。



 *


 コンビニで朝食用のサンドウィッチと飲み物を買い、みなこは一人ライブハウスに向かった。朝の匂いが漂う街にはまだ誰もいない。四番街スクエアに漂うその静かな空気感は、まるで本当に大正時代へ来たような気分にさせてくれた。


 カフェの開店準備の為に、六時頃から表口が空いていると言われていたので、まだ明かりのついていないカフェ側からみなこは中に入った。


「おはようございます」


 おずおずと声をかけると厨房の方から「おはようございます」と返事が返ってきた。その声は横山のものではなかったので、恐らくバイトの人だろう。不審に思われないよう「宝塚南の生徒です」と声をかけて、みなこは楽屋に通じるスタッフオンリーと書かれた扉の方へ進んだ。


 楽屋の冷蔵庫に買ってきたサンドウィッチと飲み物を入れ、ステージの方へと向かう準備を始める。まだ音出しを出来る時間には少し早いが、なんとなくステージ上で練習したかった。それに一人であのステージの上に立つというのはまた違った感覚があるはずだ。


 ギターのチューナーとピックをパーカーのポケットに入れて、ステージへ続く重たい防音の扉をみなこは開く。暗いとばかり思っていたステージにはすでに照明が焚かれていた。みなこが立つ舞台袖の方まで、スポットライトに照らされた長い影が伸びている。


 ステージに立っていたのは笠原かさはら桃菜ももなだった。彼女が構えたトロンボーンが照明に照らされてまばゆく煌めきを放つ。その金色の輝きに、みなこが目を伏せた瞬間、伸びやかな音がライブハウスに響き渡った。


 優しく悲しげなパッセージ。彼女はスライドを自在に操り、急降下する音符を激しくも丁寧に紡いでいく。そこに加えられたアレンジは、悲壮感と憂いを纏っていた。彼女が吹いているのは、『Rain Lilly』のトロンボーンのソロパートだ。まだ空調が効いておらず、蒸し暑いステージ上を一気に秋枯れ色へと変えていく。


「おはようございます」


 演奏を終えた桃菜に、みなこがそっと声をかけると彼女は少し目を伏せて頷いた。


「おはよう」


 二つ結びにした長い髪の片方を撫でながら、彼女は舞台の板の上を見つめる。桃菜はあまり人と群れている印象がない。物静かで暗いイメージだ。真っ黒な床には、白いビニールテールが至る所に貼り付けられていた。


「笠原先輩早いですね」


 気まずさを感じ、みなこはとっさに言葉を発する。桃菜は「少し一人で練習したかったから」と抑揚のない声で呟いた。まだ音を出してはいけない時間のはずだけど。


「そうなんですか。実は私もで」


 ははは、と笑い混じりにそう言ってみる。少し絡みづらい先輩へ「私に敵対心はありませんよ」というアピールだ。


「邪魔やった?」


「いいえ、そんなことないです」


 みなこがかぶりを振っても、桃菜は表情を変えない。細く真っ白な腕は、どうやってその大きなトロンボーンを支えているのだろう。細い体躯からは想像できないくらい力強くベルを鳴らし、悲しみや穏やかさを持ちつつ、しっかりとした音の粒を彼女は生み出す。


 桃菜は『Rain Lilly』のソロだけでなく、コンボも選ばれている。三年生の健太がいる中での選出は間違いなく彼女の実力だ。みなこには彼女の実力がどれほどのものなのか知るための物差しを持ち合わせていないが、少なくともこの部で一位二位を争う力があると思っている。もちろんそこに名を連ねるのは、知子と佳奈だ。


 少し会話に間が空いてしまい、桃菜が再びトロンボーンを構える。その時、客席から声が飛んできた。


「こら! まだ音出ししたらアカンって言ったやんか」


 真っ直ぐ下ろされた髪を揺らしながら、近づいて来たのは美帆だ。練習しかないので、今日の彼女はラフなジャージ姿だ。


「どうしても吹きたかってん」


「どうしてもでも時間になってから! 怒られるんは横山さんなんやで!」


 美帆は、はぁとため息を漏らす。それからこちらに気づいて視線を向けた。


「あ、清瀬ちゃんおはよう。練習? ギターやったらアンプ繋がんかったらやっても大丈夫やからな」


「あ、はい。ありがとうございます」


 ステージに上がって来た美帆の少し怒った表情を見て、桃菜はなんだか不服そうに眦を下げた。


「あと十五分待ったら練習していいから。ほら、コンビニで朝ごはん買ってきたから先に食べよう。ハムが好きやったやんな?」


「チーズ入りのやつな」


「はいはい。チーズ入りですよ」


 美帆が呆れ声を出しビニール袋を持ち上げる。薄っすらとサンドウィッチが見えていた。


「ごめんな、清瀬ちゃん。七時なったら一緒に練習しような」


「はい、お願いします」


 美帆に手を引かれて、桃菜は舞台袖の方へと消えていった。物静かと思っていたが、いざ話をしてみると少しだけイメージと違う。暗い印象は変わらないが。言葉数が少ないわりに、なんとなく感じる気の強さ。みなこはスタンドに掛けられたギターを手に取る。ストラップを首からかけて、「杏奈先輩とは真反対の人だなぁ」と独りごちた。

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