第4話 羽目

「ちょっとテンポが走りすぎてるかな。もっと全体の音を良く聴いて」「アドリブとミスタッチは違うで?」「ここはもっと自由にしてもいいんちゃう?」


 練習をしていく中で、知子からこんな指示が飛んでくる。宝塚南高校ジャズ研究会のバンドリーダーは知子だ。彼女が練習の中心となり、全体のバランスを整える。


 指示と言っても、彼女の理想とする音楽の型に全員をはめていっているわけではない。彼女の指摘は、演奏する上での致命的なミスとパフォーマンスを向上させるための的確なアドバイスだ。


 だから部員は彼女の指示を素直に聞くし、部員たちも意見や考えがあればそれを知子に伝える。部全体のイメージを一つの形にするのがリーダーの仕事なのだ。


「清瀬さん、ここのリズム難しい?」


「はい、少しだけ……」


 秋の大会に向けて、定例セッションでは『Rain Lilly~秋雨に濡れるゼフィランサス~』を中心に練習を行っているのだが、この曲がとにかく難しい。全体の音楽を支えるために正確なリズムを刻まなければいけない一方で、曲中にはギターが前に出てくるシーンがたびたびある。ギターソロが終わってすぐにカッティングに移るのだが、ここで一瞬だけ大きく転調するのだ。曲のテンポも決してゆったりしているわけじゃないため、どうしても躓いてしまう。


「清瀬、しっかりベースの音を聴いて、一拍と三拍目の音を合わせるように意識」


 トロンボーンを構える大樹が、みなこにそっと近づきアドバイスしてくれた。知子はとても器用で多くの楽器を演奏出来るらしいが、それでも各楽器の詳細なアドバイスは出来ない。それぞれの楽器の細かいところは、同じセクションの先輩がしっかりと教えてくれる。こうして、ビッグバンドの曲のクオリティーを上げていくのだ。


「それじゃもう一回、合わせましょう」


 七海のダブルカウントを合図に、知子の指がピアノの鍵盤を軽やかに弾いた。その細い指は力強いフレーズが紡ぎながら、恐ろしい早さで音符を駆け巡っていく。繰り返される短いフレーズの連続のあと、そこに金管が一気に加わる。秋の嵐のような激しいトロンボーンとトランペットのクレッシェンド。かなりテンポ感の早いこの曲を支えるのは、ドラムのシンバルレガートとギターのカッティングだ。リズムを乱さないように、大樹に言われた通り奏のベース音を意識する。


 大きく盛り上がりを見せたところで、雨に濡れた一輪の花を思わせる静かなサックスのソロが始まる。伸びやかな音に軽くビブラートをかけながら、佳奈のサックスが激しくうねりを上げた。そこに寄り添うのは知子のピアノだ。早さを維持したまま優しいタッチで静けさを演出する。花びらについた雨粒を身震いさせながら弾くように、佳奈は小刻みな音符をタンギングで見事に吹きこなした。


 ここのソロは佳奈のアドリブ。佳奈は見事に毎回違うメロディを奏でている。もちろんそれを支える知子のピアノも、佳奈の演奏を聴きながら毎回わずかに表情を変えているのだ。素晴らしい演奏をする知子の横で、その手元をめぐがまじまじと見つめていた。


 曲は怒涛の序盤を終えて、中盤へと向かう。トランペットがソロを取ろうとしたところで、スタジオの扉が開いた。部員全員が部室にいるので、入って来るのは川上だけだ。自然と演奏が止まる。


「ごめん。わざわざ止めんでええのに」


 申し訳無さそうに川上は眉根を下げた。川上は四十代の数学教師で、清潔感のある髪型と肌の綺麗さのためか実年齢よりも若く見える。生徒指導も担当しており、怖い先生だと言われているが、みなこはまだ彼女が怒ったところを見たことがない。


「いえ、あまり休憩も取らずにやっていたので……」


「ほんまや、もうお昼前やね。休憩にする?」


「うん」


 知子とみちるが顔を見合わせた。気がつくと時計は十二時を過ぎてすっかり下を指している。全員が集まってから、すでに三時間ほど集中して練習をしていたらしい。


「今からお昼なん? 全員おるみたいやし、全然食べながらでええから、合宿の注意事項とか話してええかな?」


 川上の問いかけに、知子は「もちろんです」と答えた。普段は気分転換に中庭などでお弁当を食べたりすることもあるが、今日はスタジオに拘束されそうだ。空調が効いているのは嬉しいが、外の空気もたまに吸いたい。


「注意事項と言っても当たり前のことばかりやし、あんたらはちゃんと分かってるやろうけど……。取り敢えず、楽器片付けてご飯食べ」


 まじまじと自分を見つめる生徒たちに溜息をこぼして、川上は椅子に腰掛けた。川上がいると妙な緊張感が漂う。怖いせいというよりかは、それとはまた別の緊張感がある気がする。部員たちはおずおずと動き出した。


 スカートの上にギンガムチェックの布を広げ、みなこはそこに母の作ってくれたお弁当を乗せた。トマトソースのかかったハンバーグに真っ赤なプチトマト、みなこが大好きなちくわきゅうりも入っている。ちくわきゅうりは、文字通りちくわの穴にきゅうりを入れたものだ。夏休みだというのに、毎朝早起きをしてお弁当を作ってくれる母には頭が上がらない。


「公共交通機関を使っての移動やから他の人の迷惑にならんように。持ちものに制限はないけど常識の範囲内で」


「先生、ゲームは一応禁止にしてます」


 話をしていた川上に、知子が口を挟む。


「……まぁ、諸々のことは部長と副部長から聞いてるか」


 こうして部内で話す川上は、学年集会などで大人数の前に立つ印象とは少しだけ違う。怖いとまではいかないものの普段は口うるさい彼女だが、ジャズ研では諸注意は最小に留まっている。それがむしろ信頼されていると感じるため、ルールをしっかり守らなくてはいけないと思わせてくれるのだ。


 髪を搔きながら、少し逡巡してから川上が再び口を開いた。


「当たり前のことを当たり前にやる。遊びに行くわけじゃないからな。けど、こういう校外活動は楽しいし、学生時代の思い出にも残るはず。だから、羽目を外しすぎないように楽しんで。行く目的を履き違えなければ、ある程度のことは許されるから」


 少しくらいは羽目を外せ、そう言われている気がした。それでも部員たちはしっかりとルールを守るだろうけど。真面目すぎると言いたげだが、そうとはハッキリ言えないのは教師という役職ゆえだろう。みなこの口の中で僅かな塩分を含んだきゅうりがポキリと弾けた。 


「ほんなら、合宿全体の流れを説明してもらおか。東、お願い」


 コンビニのたまごサンドを頬張っていたみちるが、口に含んだまま「ふぁい」と返事をして立ちがあった。


 行儀が悪い、と言いたげに知子が彼女へ厳しい視線を送る。それに気づいているのか、「へへっ」と毛先の赤いリボンを触りながら、彼女はホワイトボードの前に出てきた。


「初日は、十時前にはライブハウスに着く予定です。合宿期間中は、基本的に午前は個人練習、午後はセッション。スタジオも併設されてるから、参加しないセッションの時は、客席から見学でもええし、そこで個人練習をしてくれても大丈夫やよ」


 昼ごはんを食べているせいもあり部員たちの返事はまばらだ。みなこの隣では、手作りだという可愛らしいオムライスを、奏が小さなスプーンで突いていた。


「それから文化祭のセットリストと楽譜は明日配ります。合宿は文化祭を想定して練習を進めるから、この土日でしっかりと自分のパートを確認しておいてね。みんなの意見を取り入れた楽しいセットリストになっているはずやから」


 と、言い切ったところを境に、おっとりとした声で話していたみちるの声のトーンが変わった。小さな胸をぐっと張って、彼女は少し誇らしげに続ける。


「そして! 二日目の夜は近くの公園でバーベキューをすることになりました!」


 バーベキューと聞いて、七海が「おぉ!」と声を上げた。両手にはコンビニの菓子パンが握られている。


「お! 七海ちゃんも楽しみ?」


「はい、もちろんです! もしかして、バーベキューって毎年してるんですか?」


「うん。でも、去年は雨で出来んかったんやけどね。今年は晴れ予報やから楽しみやねえ」


 毎年なんて聞き方をしている時点で、七海はもう来年のことを考えているに違いない。目をキラキラさせながら七海は言葉を続けた。


「バーベキューするなら花火もやりましょうよ!」


「花火かー。一昨年はやってなかったけど、みんなでやったら楽しいかもね。問題ないですよね先生?」


「うん。でも、公園のルールをちゃんと調べんとな。ちゃんとバケツを用意してルールを守ってやるなら問題ないとは思うけど」


 適度に羽目を外せという川上のメッセージを、七海は汲み取ったわけではないはずだ。だけど結果的に川上は少しだけ嬉しそうだった。「やった!」と七海が大袈裟に喜び両手を上げる。


「合宿、楽しみだね」


 彩りに添えられたパセリをスプーンで避けながら、奏の口端がニッコリと緩んだ。


「そうやなー」


 確かに楽しみだ。合宿、花火にバーベキュー。そんな夏らしい言葉を舌の上で転がすと、口の中で生ぬるいプチトマトがぷちっと弾けた。

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