第3話 明るい先輩

 いつも七海と待ち合わせをしている能勢電鉄鶯の森駅は、ホームや駅舎などがウグイス色に染められている長閑な無人駅だ。まだ朝早いこの時間、猪名川の渓谷から、ひんやりとした夏の空気が住宅街を通り吹き抜けてくる。疎らに鳴く蝉たちはまだ寝ぼけているようだ。照りつける太陽が慌てて空気を夏仕様に変えようとしていた。


 いつもと同じ時間になっても現れない七海に電話をかけると、スマートフォンのスピーカー越しになんとも腑抜けた声が返って来た。


「ごめん、今起きた……。みなこ、先に行っててー」


 明らかに寝起きの彼女の声を聞いた時点で、みなこはそのつもりだ。たとえ「待って」と言われたところで待つつもりはない。「それじゃまた部室でね」と電話を切り、ホームに入って来たマルーン色の電車に乗り込んだ。


 宝塚南のジャズ研は、何時から何時と練習時間が決まっているわけではない。その日、一番にやって来た生徒が鍵を開け、最後の生徒が戸締まりをして帰る。定例セッションなど事前に通達してある日を除けば、参加不参加は個人の自由なのだ。ただしコンボでステージに立てるのは完璧な実力主義。オーディションにしっかりと合格する為には、毎日の練習は欠かせない。


 みなこはこの夏休み。誰よりも早く部室に行き、出来るだけ最後まで残って練習をしていた。上手くなってコンボのオーディションにも受かりたい。その一心だ。


 雲雀丘の長い坂道を登り高校を着く。真っ先に向かうのは職員室。大スタジオの鍵をもらわなくてはいけない。当直の先生に挨拶をして、入り口のすぐ横にあるキーラックに手を伸ばした。


 一番右下の隅、そこがスタジオの鍵が掛かっている場所なのだが。どうも鍵が見当たらない。


 夏休みに入って二週間ほど、いつも七海と二人で来て一番にスタジオの鍵を開けていた。だけど今日は先着がいたらしい。七海が寝坊したせいで一本電車を逃したが、それでもいつもとさほど変わらないはず。職員室の時計を見ると七時を少し過ぎたところだった。


 スタジオに向かい扉を開くと、中から低い重低音が聞こえてきた。アンプから鳴り響くベース音。そのサウンドは、ジャズではない。紛れもなくロックチューンだ。


「おはようございます」


 みなこが声をかけると、集中していた女子生徒は慌ててこちらを振り返った。肩まで伸びた髪がふさっと乱れる。


「あ、清瀬ちゃんか。おはよう」


 そう明るい声で返してきたのは、ベースの鈴木杏奈だった。細く筋の通った鼻とまん丸とした目にくしゃりと皺を寄せ、彼女は無防備な笑みを浮かべる。


「今日は随分早いですね」


「清瀬ちゃんも早いやん。いっつもこんな時間なん?」


「はい。夏休みに入ってからは」


 カバンを隅に置き、みなこはソフトケースからギターを取り出した。このフェンダーのテレキャスターは、中学生の頃、父にねだって買って貰ったものだ。


「偉いなぁ、早く来て練習か。うんうん。これは将来が期待出来ますな」


「そんなことないですよ。一生懸命練習しないと上手くなれないですから」


 謙遜したみなこに、杏奈は少し肩を竦ませた。随分真面目な返しだ、と思われたのかもしれない。杏奈は明るく人と距離感が近いタイプだ。だからといって、先輩に対してあまりふざけた感じの返しはみなこには出来ない。


「さっきはなに弾いてたんですか? ジャズじゃなかったですよね?」


「あー聞かれちゃった? 昨日、音楽番組を観ててさ。出てた洋楽のバンドが格好よくてつい真似したくなっちゃった」


「あ、それなら私も観てましたよ」

 

「お、ホンマに! 私、あのバンド好きでさー」


「杏奈先輩って洋楽とか聴くんですね」


「なにー意外って思った?」


「いえ、そんなことないです」


 眉間に寄せた皺がスッと柔らかいものに代わり、彼女はケラケラと笑い出した。からかわれたのだろう、とみなこは少し困った笑顔を浮かべておく。


「私は結構、洋楽好きやで? 特にUKロックとか。来日公演とか行くくらいには好きでさ」


「てっきりみなさんジャズを聴いてるものかと」


「今はもちろんジャズも聴くけど。でも聴くようになったのは、清瀬ちゃんも入部してからやろ?」


「はい。入部してからは勉強のために聴いてます。杏奈先輩もそうだったんですか?」


「私も清瀬ちゃんと同じ。ジャズは初心者やったから」


 ジャズは、ということは、楽器自体は経験があったらしい。杏奈はみなこの返事を待たずに言葉を続ける。


「中学の頃は吹部やったから聞くんは吹奏楽の曲かロックかって感じで。清瀬ちゃんも、もしかしてロック聞くん?」


「昨日はたまたま見てただけで。普段聞くのは普通にJ―popとかです」


「そっかー」


 杏奈は残念そうに笑顔をくしゃりと潰した。「でも、今はジャズを一番好きにならなくちゃですね」とみなこは鼻息を荒くする。


「そうやな。うちらの代で、根っからジャズが好きなんは、里帆と美帆の二人かなー。二人はちっさい頃からジャズを聴いて育ってきたらしい」


 沖田姉妹がジャズに詳しいことは、みなこも知っている。演奏する曲が決まるたびに二人は、争うように曲の解説をしてくれるのだ。


「でも、あの二人は楽器初心者やったんやで」


「そうなんですか。上手やから経験者かと思ってました」


「二人はがんばり屋さんやからな。それから上手いと言えば桃菜やなあ。あの子のトロンボーンはプロ並みの腕前」


 同級生を褒める彼女の顔に嘘やお世辞はない。正直で真っ直ぐないい先輩だと思った。


「でも、杏奈先輩って吹奏楽部だったのにジャズ研に入られたんですね」


「ほら、うちの高校の吹部は人数が少ないから。大会も上を目指して真剣にって雰囲気じゃないし。それに入学する前の文化祭で、ジャズ研の演奏を聴いてこの部に入りたいって思ってん」


「そうだったんですか」


「ステージで格好よく演奏している姿を見て、私もあんな風に演奏したいなって。ちょっと学力的にも上やったこの高校に受かろって頑張れた」


 杏奈の気持ちをみなこは良く分かった。新歓ライブで見た先輩たちの演奏は鮮明にみなこの記憶に残っている。


「それじゃ、文化祭はちょっと特別なステージですね」


「そうやな」


 ひんやりとした空調の風を浴びて、彼女の髪が柔らかく靡く。少しだけ恥ずかしさを誤魔化すように、薄い瞼が明るい瞳をそっと隠した。

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