第9話 決壊

 いつも抱く一抹の不安は、気がつけば解決して消えてしまっていることがほとんどだ。そんな経験則から、みなこはなるだけ悩みを考えすぎないように努めている。今回だってそうなるだろう。心のどこかでそう思っていた。



 ――だけど、その引き金は突如として引かれた。



 本番を終えて、そのまま控室テントで解散となった。まだ公園内を散策する部員たちもいたが、空き時間の間にそれなりに見ることが出来た為、みなこたちは帰り支度を整えて公園を出た。


「どっちから帰る?」


 すっかりいつものテンションに戻った七海が、通りを見渡し左右に首を振る。背中にベースを背負った奏がめぐに問いかけた。


「めぐちゃんの家は清荒神の方だよね?」


「うん。そうやけど」


「それなら、そっちに向かった方がいいんじゃない?」


「でも、駅までは結構距離あるで。私の家は駅までにあるけど、みんな歩かせるのは申し訳ないって。逆瀬川の方行こうや」


 地図アプリによれば、清荒神駅までは公園の最寄り駅である逆瀬川駅の倍ほどの距離があった。逆瀬川駅は阪急今津線の駅で、宝塚で乗り換えれば、みなこたちが通学で使っている宝塚線に連絡できる。


「ほんなら、逆瀬川でええやん。行きと同じ経路ってことやろ?」


 七海がそう言って、身体をくるっと反転させた。奏が名残惜しそうに七海が歩き出した方とは逆の方へ視線を向けている。


 奏はすぐに宝塚で降りるだろうから、もしかするともう少しだけみんなと居たかったのかもしれない。寂しそうな奏の腕にみなこは身体をひっつかせた。


「まだ暗くなるまで時間あるし、宝塚でちょっとお茶でもする?」


「え、お茶?」


 奏の顔がパッと赤くなる。


「それええやんー、みなこナイスアイデア!」


 はしゃぐ七海に、めぐが表情を綻ばせた。



 *


 ちょっとだけのつもりが、宝塚の駅ビルの中にあるカフェですっかり話し込んでしまった。店から出て、駅のエントランスの方へ向かう。大きな柱の向こうに覗く空は、夕焼けから夜の色へとじわじわ変わり始めていた。


「結構、喋っちゃったな」


 隣に立つ奏にそう声をかければ、彼女は嬉しそうに素直な笑みを浮かべた。


「明日も学校なのに、付き合ってくれてありがとうね」


「ううん。私が誘ったんやし」


「楽しかったよ」


「それはお互い様」


 面と向かって楽しいなんて言われて、少しだけ照れくさい。みなこの口元は自然と緩んだ。誤魔化しきれない恥ずかしさから、へへっと間抜けな声が漏れる。それをかき消すタイミングで、七海が声を上げた。  


「あーそうや明日からテスト返却やー」


 七海の肩に掛かったスクールバッグの紐が片方だらりと垂れた。めぐが横目で七海の方を見る。


「数学は赤点回避してたんやろ?」


 赤点を取ったらイベントに出さない。そう脅されていた七海の答案を、川上はいち早く採点したらしい。七海がイベントに出演出来たのはつまりそういうことだ。


「数学に集中した分、他の教科が恐ろしい……」


「七海ってテストで取れる合計得点決まってんの?」


 毒づいためぐに、七海がわざとらしく泣き叫ぶ。


「みんなは頭ええからうちの悩みは分からんよ!」


 なにを言うか、とみなこは頬を膨らませる。高校に入って初めてのテスト返却はそれなりに恐ろしいのだ。特にみなこは古典のテストが気がかりだった。 


「七海もそれなりに勉強したんやから大丈夫やって」


「もう祈るしかない!」


「祈ったってもう今さら点数なんてあがらんわ」


 祈るように組んだ七海の手を、めぐの手のひらが弾いた。


「私の祈りが!」


「祈るくらいなら次からちゃんと勉強しなさい」


 めぐの叱りに、七海はぐうの音も出せないようでうなだれた。二人のやり取りを微笑ましく見ていた奏が、外の様子を伺いながら一歩だけゆっくりと後ろに下がった。


「話しているときりがないね。続きはまた明日学校で」


「うん。おつかれー」


「おつかれー」


 まだ少しだけ名残惜しそうに、奏は夕焼けの街に消えていった。付き合わせてしまったと思っているのだろうか。逆に気を使わせてしまったかもしれない。だけど、奏と一緒にいたかったのは本音だよ。そんなこと恥ずかしく言えないけど。奏は守ってあげたくなる雰囲気を持っている。そのせいか、彼女の姿が見えなくなるまでみんなで見送っていた。


 奏の姿が完全に見えなくなり、改札へ向かおうとエスカレーターに乗ったところで、七海が「あ、」と声を出した。


「あれ、佳奈ちゃう?」


 七海が指差したのは、駅のエントランスの向こうだった。こちらに向かい制服姿の少女が歩いて来ている。それは確かに宝塚南の制服だ。ポニーテールが色づき出した夜闇の中からムクッと顔を出す。


「ホンマや、井垣さんやなぁ」


「おつかれー」


 いきなり大きな声を出した七海を見て、みなこはハッと思い出す。七海を縛り付けていた緊張の意図はすでに切れてしまっているのだ。


 その時、感じたことのない不安がみなこの中に走った。なんとも言えないざわつきが、こそばゆい痛みを胸に与える。それでもどうしていいのか分からず、ただ目の前で起きることを見守ることしか出来なかった。


 佳奈が七海の声に気づきこちらを向いた。軽く会釈をしてこちらに向かって来る。どうしてわざわざこちらに来るのか、とみなこは疑問に思ったが、彼女だって同じ電車に乗る為だとすぐに分かった。


 七海はすでに佳奈を迎え入れるつもりだ。半身でエスカレーターの下段の方を向いて、佳奈に向かい手を振っていた。 


「おつかれ」


 エスカレーターを上がりきったところで待っていると、佳奈の方からそう声をかけてきた。七海は無邪気な笑みを浮かべて、「今日は緊張したわー」と声をかける。


「うん。ジャズ研に入って初めてのステージやったもんな」


「えー佳奈も緊張するんや。意外やなー。うちは初めての舞台やからもうガチガチなってもたけど、佳奈は余裕そうやのに。結構こういう経験あるんちゃう?」


「経験って言えるか分からんけど、ほんの少しだけ。サックス教室で演奏会はしたことある」


「へぇー。やっぱり佳奈はそういう経験あるんや」


 七海の瞳には尊敬の念が浮かんでいた。上級者に対する憧れの眼差し。佳奈は明らかにそんな七海を嫌がっている。その双眸が少しだけ鋭さを持った。


「教室に行ってる人は、みんな出るやつやから」


「ふーん、そうなんや。でも、そういうところで演奏してる経験あるからやろうな、やっぱり今日の演奏もめっちゃ上手やったで」


「そうかな……」


「そうそう、かっこよかった!」


 興奮気味に動く七海にカバンの中のドラムスティックが音を鳴らす。その音がどうしてか耳障りで、みなこは顔をしかめた。


 なんとなく嫌な空気を感じているのか、めぐが可愛らしい素振りをしながらツインテールを揺らし、話をそらした。声のトーンはぶりっ子モードだ。


「井垣さんも今から帰りなん?」


「うん。みんなも今帰り?」


 佳奈が不思議そうな顔を浮かべた。解散してから随分時間が経っていているのに、どうしてここにいるんだ、と言いたげだ。だが、その疑問を抱いたのは七海も同じだった。


「ちょっと、そこでお茶してたらすっかり遅なってもうてん。……あれ、そういやなんで佳奈は宝塚におるん?」


「今日はサックスの教室に行ってたから」


 そう言って佳奈が、背負ったサックスのハードケースをぐっと揺らした。彼女がいつも使っているケースは、学校の備品とは別のものだ。おそらくマイ楽器なのだろう。


「えー、本番のあとにサックス教室行ってるん」


「うん、土日の夕方はレッスンって決まってて」


 佳奈の落とした視線の先で、彼女のローファーがトンとベージュのタイルを鳴らした。細い指先が髪をなで上げ、耳殻へと運ぶ。頬の筋肉がピクリと固まった気がした。僅かな佳奈の所作が、みなこの不安を掻き立てる。同時に、それが佳奈からの警告である気もした。それ以上話しかけないで。そう言っている気がする。だけど、そんなこと意に介さず、七海は佳奈とコミュニケーションをとることをやめない。


「佳奈っていつからサックスやってんの?」


「……小学校四年生の時から」


「すごいなぁー。やっぱり長いことやってるから上手いんかなぁ。うちはドラムまだ一年ちょっとやし」


「そうなんや」


 佳奈の声が徐々に小さくなっていく。止めなければいけない。そう分かっているのに、みなこは動き出せない。


「佳奈って一年の中で一番すごいと思う! 今回のイベントでソロも任されてたし、それを見事に堂々と吹きこなしてた。この間は部室でピアノも弾いてたやん。あれも素敵やったで! しかも、佳奈は顔も可愛いしスタイルもええやん。それでもって、サックスもめっちゃ上手やし、言わば天才? 将来は部長とか!」


 ひっきりなしに褒め続ける七海に、佳奈はすっかりうつむいてしまった。もういけない。みなこの中でいっぱいいっぱいになった不安が、そう告げてくる。無理やり手を引いてでも、七海を連れて帰ろう。そう思って七海の腕を引こう決め、みなこは手を伸ばす。


 しかし、その手は空振りに終わった。何も掴めなかった手のひらの中には、自分の生暖かい体温だけが残った。ふいに動き出した七海の身体が、スッーと視界の隅に消えていく。


「佳奈はすごいよ!」


 そんな七海の声がみなこの鼓膜を揺らした。前触れはあったはずだ。自分はそれを見て見ぬ振りをしていたのだろうか? 確かに不安は抱いていたけど、それはいつものこと。今回だってきっと思い過ごしだと思っていた。まだ何も起きていないのに、そんな言い訳が一瞬のうちに頭を巡る。


 ――それからすぐに、その瞬間は訪れた。


 笑顔を浮かべて身体を寄せた七海の手が、佳奈の肩に触れる。それと同時、反射的に佳奈がその手を振り払った。鋭くなった佳奈の双眸が、一瞬こちらをぐっと睨む。それからダムが崩壊するみたいに、せき止められていた佳奈の感情が言葉となって流れ出てきた。


「やめて!」


 張り上げられた少女の声が駅の構内に響いた。どうして拒否されたのか、まるで分かっていない七海は困惑と驚きを同時に浮かべる。


「ど、どうしたん?」


「私は別に上手くないし! そんな風に言うのはやめて!」


 佳奈のポニーテールが乱雑に揺れた。彼女は声なんて張り上げた経験がなかったのだろう。前かがみになって、胸の前で自分の手を掴み、全身を使って喉を震えさせた。


「ご、ごめん。でも佳奈の演奏が良かったから……」


「私は上手なんかじゃないから」


 先程の叫び声と対象的に、今度はひどく冷たい言葉が棘のように鋭く尖って吐き捨てられた。その声はちょっと枯れていた。ぐっと胸元で握り込まれた彼女の手は、ほんのりと赤らんでいる。


 どうしていいのか分からないのか、七海はその場で立ち尽くしていた。相手の感情を読み取れない恐怖心が、七海の身体を硬直させているに違いない。肩から垂れたカバンの持ち手だけがフラフラと揺れている。その様子を見て佳奈の表情がさらに曇った。


「大西さんは、いつもそうやって私に……」


「そんな言い方ないんちゃう?」


 めぐが七海をかばうように前に出た。その言葉尻は少しだけ荒い。スカートの裾を握って、必死に感情を抑え込んでいるのが分かる。佳奈がうつむいたまま、言葉を返した。


「私は言われたくないことを否定しただけ」


 強気な言葉とは裏腹に、佳奈の華奢な肩越しに揺れるポニーテールが気弱に揺れていた。前髪の隙間から見える彼女の瞳は少しだけ潤んでいる。


「七海は無神経やけど、ひどいことを言う子じゃない。悪口を言ったなら井垣さんが怒るのも分かる。でも、そうじゃないやろ?」


 言葉を探すうちにめぐも落ち着きを取り戻したのか、後半の口調は少しだけ穏やかだった。めぐの言分を佳奈も理解しているのだろう。だけど瞳の中でそんな理性と暴れる感情がせめぎ合っていた。佳奈の肩はわずかに震えている。


「……私だって言われたくないことはある」


 噛み締められた佳奈の唇が、忌々しさを噛み締めるようにぐっと閉じられた。軍配は感情に上がったらしい。それを見ためぐが諦めたように息を吐く。


「……そう。もういい。いこ七海」


 めぐが七海の手を取って改札に向かった。みなこもめぐに着いて行こうとして一瞬迷う。佳奈の方を見やった瞬間、わずかに上がった彼女の視線とぶつかった。うるうると潤んだ綺麗な瞳は、物悲しさを孕ませながら、必死に何かを訴えかける色をしていた。駅の電灯に照らされ、ほんのり茶色く、白目の部分はわずかに赤くなっている。「私は傷ついているよ」彼女にその意図がなくとも、そう読み取れる色だ。


 なにか言わなければ。その双眸を見て、みなこは脳内でそう叫んだ。それから必死に言葉を探す。目の前にいる少女を救える、そんな言葉が自分の中にある気がして。一分、二分、と一秒のはずの時間がずっと長く感じた。それでいてようやく出てきた言葉に、我ながら落胆する。


「ごめんね、井垣さん。七海のことは気にしないで」 


 みなこの言葉に、佳奈は何も返さなかった。スカートから伸びる真っ白な細い足が、一歩だけこちらに歩み寄りかけて止まる。悪い癖だ。それをまた見て見ぬ振りをして、みなこは改札の方へ向かった。ホームの方から発車メロディが流れて来ている。それがなにかの警告音のようにも思えた。エントランスから吹き込んできた風は、季節を少し巻き戻したような冷たい風だった。

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