第39話『乙女先生の休暇』
乙女と栞と小姫山・39
『乙女先生の休暇』
盲腸を罹ったとまで噂が立った。
それほど乙女先生が仕事を休むのは珍しい。
「ご家庭の事情です」
教頭の田中は、昨日の午後から十回は人に言っている。
教頭も、転勤後わずか一カ月で、乙女先生が学校には無くてはならない存在になっていることを認めざるを得なかった。しかし、いったいなんの家庭事情なのか、教頭にも分からなかった。で、鬼の霍乱から、家庭不和、あげくは急性盲腸炎まで噂がたってしまった。
生指部長代理の桑田など、遅刻者がやってきても叫ぶしかなかった。
「入室許可書は、どこにあるんやあ!?」
昨日は午前中授業があったので、それが済むと、銀行へ行って、幾ばくかのお金を下ろして、我が家へと急いだ。
「ごめん、一人で心細かったやろ。さあ、忙しいで。まずは腹ごしらえ!」
乙女さんは、牛丼のお持ち帰りを、テーブルにドンと置いた。
「心細くなんかなかったです。パソコンでネットサーフィンやってましたから」
ふと目をやったパソコンの画面には、民法の親権について書かれたサイトが出ていた。それには気づかないふりをして学校の話を面白おかしく話してやり、美玲もかすかに笑ったりした。栞やさくやが絶好の話の種で、MNBの研究生をやっているというと正直な興味を示した。
「よっしゃ、今日のシメはそれでいこ!」
乙女さんは亭主に電話して午後六時には学校を出るように厳命した。そして芸能事務所に勤めている卒業生に電話し、なんとかMNBの今日のチケットを三枚無理矢理確保した。
それからの数時間、乙女さんは楽しかった。
古巣の岸和田に行き、実家に寄りたい気持ちはグッと抑えて、ゴヒイキの小原洋装店を訪れ、美玲のよそ行きを二着注文。プレタポルテの普段着を三着買った。しかし、今時の子、もっとラフな服も必要だろうとユニクロに寄ることも忘れず。上下セットで三着買って、フィッテイングルームで着替えさせ、靴も同じフロアーの靴屋でカジュアルなパンプスに履きかえさせた。欲を言えば美容院に連れて行ってやりたかったが、先のことを考えて、明日以降の課題とした。
「おう、美玲……!」
我が娘の変わりように、MNB劇場の前で、亭主は驚いた。
「そんなに見ないでください、恥ずかしいです」
美玲は、乙女さんの陰に隠れてしまった。
ショーが始まると、美玲は夢の中にいるようだった。自分と年の変わらない女の子達が、こんなにイキイキと可愛く歌って踊っていることに圧倒されてしまった。
――こんな世界があったんだ――
帰りの握手会では、迷わずチームMのリーダー榊原聖子のところへ行った。
「よ、よかったです!」
「ありがとう」
たったこれだけの会話だったけど、美玲は、なんだか、とても大きな力をもらったような気がした。
「ミレちゃん、よっぽど嬉しかったんやろね、右手ずっと見てるよ」
「え?」
気配に気づいたんだろうか、美玲は、帰りの電車の中で、夢の途中にいるような上気した顔でこちらを見た。
「意外と簡単でしたよ」
その晩、手島弁護士が電話してきた。
「養育費の総額を言うとおとなしくなりました。問題は、相続権の放棄だけです。これだけは一応お話してからと思いまして」
「はい、美子さんの分も、そちらのお家の相続権も放棄……その線でお願いします」
「分かりました、明日中に書類を揃え、連休明けに処理しましょう。あと美玲ちゃんの学校を……あ、こりゃ、釈迦に説法でしたな」
「アハハ、では、よろしくお願いします」
その夜、昨日とはうってかわって明るくMNBの話などをする美玲であった。
「ミレちゃん、水差すようやけど、ちょっとこの問題やってくれるかなあ」
「え、テストですか?」
美玲の顔色が変わった。
「どないしたん?」
「このテストに落ちてしもたら……」
「え……?」
乙女さん夫婦は顔を見合わせた。
「……いいえ、なんでもないです」
美玲は必死の形相でテストに取り組んだ。その間、乙女さんはパソコンで、なにやら検索し、亭主は新聞を読むふりをして、娘とカミサンを見比べていた。
「一ついいですか?」
「なんだい?」
亭主は、よそ行きの声を出した。
「新聞が、上下逆さまですけど……」
「ぼ、ボクは逆さまでも読めるんや」
「へー!」
純な美玲は、まともに感心した。乙女さんは、お腹が千切れるくらいおかしかったが、涙を流しながら笑いを堪えた。
美玲は、一時間ちょっとで、英・国・数・英の四教科を仕上げた。
「あんた、数・英」
亭主と二人で採点した。美玲は俯いて震えていたが、採点に熱中している二人の教師は気づかなかった。
さすがに現職の教師で、十分ほどで採点を終えた。乙女さんの目は輝いていた。
「ミレちゃん……」
「は、はい……」
「あんた、天才やで。なあ、あんた偏差値70はいくよ」
「いいや、75はいくだろう」
「あの……わたし、この家に居てもいいんですか?」
「え……?」
「そのテストに落ちたら、もう、この家に置いてもらえないんじゃないかと、心配で、心配で……」
美玲の目から。涙がこぼれた。
「アハハハ、なに言うてんのよ。これは、ミレちゃんにどこの学校いかそうかと思うて……学力テスト」
「な、なんや、そうやったんですか……中学校に入学テストなんかあったんですか?」
「ミレちゃんには、テストのいる中学に入ってもらいます!」
それから、夫婦は夜遅くまで私立の中高一貫校を捜した。公立高校の教師である二人は、自分の子供を行かせるなら私立だと決めていた……。
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