第6話『木花開耶小姫』
乙女と栞と小姫山・6
『木花開耶小姫』
「お待ち申し上げておりました……」
「よう、おいでくださいました……」
二人の巫女さんが、ゆかしく丁寧なあいさつをした。乙女先生も頭を下げたが、二人のゆったりとしたテンポに合わず、顔を上げたときには、まだ二人の巫女さんは頭を下げたままで、慌てて頭を下げなおした。すると、桜の香りがあたりに満ち始めた。
「あ……」
顔を上げると、思わず声に出てしまった。
「これ、急に、こないなことしたら、先生びっくりしやはる……」
「すいません。せめてものお持てなしのつもりやったんです……」
拝殿は床だけになり、奥に本殿は見えるものの、まわりは一面満開の桜であった。はらはらと桜の花びらが、芳醇な香りとともに舞っている。
クマリン(C9H6O2)という、桜の香りの成分が頭に浮かんでくる。
「ほほ、先生は、成分で桜の香りを感じはるんですね」
――なんで、わかったの……?
「これ、人の心を読んだりしたら、あきまへんえ」
年上と思われる巫女さんがたしなめた。
「すいません。素直なお心してはるさかいに、つい……」
年若の方の巫女さんが、いたずらっぽく言った。
桜の香り成分は、五年ほど前の春に、前任校の理科の教師が不器用に、乙女先生を口説いたときの切り出しの言葉であった。クマリンというかわいい名前が、その理科の先生のイメージにぴったりなので、乙女先生は今でも、そのおかしさと共に覚えている。
「でも、わたし、クマリンより十歳ほど年上やよ」
「え、ええ……!?」
クマリンは、正直に驚いていた。でも憎めない驚きようだった。
「と、年の差なんて!」
頬を桜色に染めてクマリンは言った。桜色がバラ色になる前に、乙女先生は釘を刺した。
「わたしは、これでも既婚者やのん。今は佐藤やけど旧姓は岡目。分かってくれた?」
クマリンは、息をするのも忘れて驚いていた。
「もしもーし、息しないと窒息して死んでしまうわよ」
クマリンは息をするのを思い出した。そして乙女先生も、今、思い出した。
――あのころは、まだうまくいっていた。亭主に隠し子がいることは、まだ知らなかったから。茜……思い出は桜色やバラ色を通り越し、鮮やかな、その子の名前の茜色になってしまった。目頭が熱くなる。
「堪忍してくださいね、茜ちゃんのことまで思い出させて……」
「これ……」
年上の巫女さんが、再びたしなめた。
「あ、あなた達って……?」
はらはら舞っていた花びらたちがフリーズしたように、空中で静止した。
「わたし……伊邪那美(いざなみ)と申します。この子は木花開耶小姫(このはなのさくやこひめ)」
「え……ええ!?」
乙女先生は、クマリンと同じ驚き方をした。木花開耶小姫がクスリと笑った。
「これ!」
木花開耶小姫は、たしなめられっぱなし。伊邪那美の語気も強くなってきた。
「じゃ、お二人は神さま……!?」
「ええ、いちおう……」
伊邪那美は、きまり悪そうに答えた。
「は、ははー!」
乙女先生は、深々と頭を下げた。
「あ、そんなかしこまらんといてください」
「どうぞ、お楽に」
フリーズしていた花びらが、再び舞い始めた。
「……というわけで、この木花開耶小姫をもとにもどしてやっていただけたらなあ……と、思てますのん」
いつのまにか、桜餅とお茶が出てきて、ちょっとした女子会になってしまった。
「あの、つまり木花開耶小姫さんは、今のうちの学校の敷地においでになっていたんですか?」
「はい。あそこは、もともとは里山で、正式には小姫山言うてました」
「もっと正式には木花開耶小姫山」
「ほほ、そんな長ったらしい名前で呼ぶもんは、ここの神主さんが祝詞あげるときぐらいのもんです。普段は、ただの里山」
「もとは、その里山にお祀りされていらっしゃたんですね」
「ええ、ちょうど校門の脇の桜の横に祠がありましたんどす」
「学校建てるときに、ここに合祀されたんですけど。ここも祭神のわたしさえ忘れかけられてしもて……」
「居候の、わたしのことなんか……ウ、ウウ……」
木花開耶小姫が涙ぐむ。
「ちょっと、あんた泣かんとってくれる……」
「ええやないですか、人間……神さまやけど、泣きたいときは泣いたほうがよろしい。武田鉄矢も言うてます」
「ウ……なんて?」
「悲しみこらえて、微笑むよりも。涙かれるまで、泣くほうがいい~♪」
「ホンマに……?」
「え、ええ! それ、あきません!」
乙女先生の教師らしい励ましに、伊邪那美さんは驚き、木花開耶小姫は号泣し始めた。
「ウワーン!!!!」
とたんに、ダンプカー三台分ぐらいの桜の花びらがいっせいに落ちてきて、乙女先生と二柱の神さまは花びらに生き埋めになってしまった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます