ある日の自己省察
*** メモ ***
「よい子」の日だそうですが、自分というものについて毎日考えていて、どうせあんまり発想は違わないのですが、だいぶんまとまってきた気もするので一度メモとして「この厄介な自分」の定義について書き残しておこうと思う。いわゆる「発達障害」の中の「自閉症スペクトラム」というのがあって、まあ人格障害のことで、あんまりくわしくはないけれど、ケースが千差万別で、ほとんど「個性」に近いのが特徴らしくて、いろいろと分類はあるらしい。「アスペルガー障害」などは知的な能力では健全な人々を凌駕していたりする。らしい。だから人格の障害という場合は知的な障害とは別で、種々様々だとしても、アイキューとかとはあまり相関はない。僕の場合には知的な能力はかなり高くて、いまだにアイキューなどは人口上位3%以上に分類される。そういうことで自分を買いかぶっていた面があって、それでなにやら周囲と軋轢を起こしたりする。社会的な能力の低さとの齟齬が、社会との齟齬を引き起こす?のだろうか。周囲もどことなく違和感を抱く、こういう知性と人格障害とのアンバランスな個性が、僕における様々な問題には常に根っこにある。知性が妙に突出しているという点で、小さいころから変にセルフイメージがかえって歪んでいたりする。自分の知性が高いとかいうことに葛藤がある。そのせいでいじめられたりしたので、そういう考えに入ることを恐れていたりする。今でもその名残で苦しんでいる。「よい子」だったころの自分が周囲から浮いていたことを引きずっているのだろう。人間的な総合的な能力、あるいはコミュニケーションの能力、容姿、身体の強靭さ、そうしたパラメターの総和ではだいぶん劣等な人物かという気もするが、それで全くモテないのだが、とにかく兎角世の中では「知性の高さ」を持て囃したり褒めたりする、そういう風潮もないではない。「学歴偏重」というのがそれである。そういうことで「よい子」だった記憶は一種の成功体験で、今となっては要らざる歪んだ優越コンプレックスに変化したりもしているが、可能性としては、「知性の高さ」のみを生かして一種の知的な報酬の高い職業に就いて、成功者として本当に社会的に良好で適応的な地位を得ることもまあ有り得るわけである。個性を生かして自己実現するわけである。円満な人物でなくてもオカネさえ持っていれば幸せになり得るのが今の資本主義社会である。もともとの認識から一歩も進捗はしていないが、要するにアタマを生かして幸福になり得ることは可能で、これは同語反復ぽかったが、まだあきらめずに今まで通りに頑張ればよいのだということだと思う。そういう整理がかなりついて、このように言語化されたということの、途中経過の報告でした。
(2021.4.15)
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