第四十二話 海来、慶一郎と入れ替わる

「私の占いに間違いおまへん。考えるのはお客さんでっけどな。でも、お客さんはしっかりした人です。私と違うて、何年も長いこと悩むようなお方やない。この先も大丈夫やと占いに出てますからね。ほな、私は旅館に戻りますから」


 そう言って、ゴールデンレトリバーを引き連れて女将さんは旅館へ帰っていった。少し雲の方が多い冬の空、その雲の切れ間からしばらくの間は陽光が途切れなさそうで、風もないからか空気に晒されていた掌や顔の表面は少し暖かさも感じる。まるっきりそれは今の自分の気分に一致しているように思えた。さっきまであんなに気分が重かったのに……。


「慶一郎……」


 でも、実際のところ、慶一郎をどうやって呼べばいいのか全然わからない。一昨日の夜は勝手に出てきた。多重人格だと診断された時のことも思い出したけど、その認識が少なからずあった小学校六年前後の頃も、勝手に人格が入れ替わったり、慶一郎が頭の中に話しかけてきたりで、私からはどうすることも出来なかった気がする。


 ふーむ……。それにしても女将さんは、私とほんの少ししか話しもしていないのに、性格まで言い当てている。長いこと悩み続けるような性格じゃないのは確かだ。悩むのが嫌だから逃げようとしたのかも知れないし。せっかちで短気で感情的で、悩むより行動するほうが早いと思ってきたし。凄いな占いって……。


 あんな風に話されたら、とてもじゃないけど死ねないや。死ぬ気があったわけじゃないし、思い付きの選択肢の一つだっただけ。女将さんは死んで後悔するのが嫌だと言ったけど、確かに後悔は嫌だけど、でも死んだら後悔しなくて済むという考え方もある。今の私は……、反対に後悔しなきゃいけない。自分が嫌になる方を選ぶべきだ。


 とするなら、戻らなきゃな。みんなの下に戻って、仲間に救われたっていう自分を演じてりゃ、きっともっと苦しくなる。そうすれば、仲間も嬉しいだろうし、自分自身は誰にも気付かれずに苦しむ事になる。結局、姉を殺したっていう罪からは逃れられないんだから、それしかない。よし、じゃぁ戻ろう……。


 そうして、その展望台から離れて階段を登って、旅館へ戻る道を歩き始めたら、私は急に力が抜けて――。


 ◇◇◇


 ――困るんだよなぁ。


 海来と共存しているはずの僕なのだけど、その心は読めない。他の人格解離者のことは知らないし、精神科医のような専門知識もないけど、心が読めないからこその人格解離なのかなぁと思ってる。これが実に困る。僕は究極の面倒くさがり屋だから、主人格が元気にやっている間は、ずっと死んだように表に一切出ず寝てたいのだけど、こんな風に主人格が死にたいだなんて思ってると、僕は死にたくはないのでほんとに困る。どうにかして主人格の心を奪ってしまいたいくらいだ。でもそれは出来ないんだな。


 女将さんの言っていたことは覚えている。女将さんの言っていたとおり海来は死にたくなったからか、或いはそれに近い気持ちを持って展望台に来たんだと思う。まったくもって困った話だ。


 ――で、こんなタイミングで俺かよ。海来と人格がどうやら入れ替わってしまったようだ。


 ここ十数年、ほとんど前面に出たこともないのに、なんでなんだ……。海来、どういうことなの? ――と、僕が頭の中で考えたところで、僕の心は海来の心じゃないからわかんないんだよな。いや、わかるけどさ、海来があの昔の事件のことを思い出したら死にたくなるくらい辛くなるってのはさ。


 ともかく、今は僕なんだから道端に座り込んでないで、旅館に戻らないとなぁ。でも僕はあの人達と話したこともないから、上手くいくのかなぁ? 他人を相手するのは十数年ぶりだから、自信ないんだよなぁ……。見た目、海来そっくりのフリはすることは出来ると思うけど、おかしく見られないかなぁ。僕は男だからな……。まぁいいや、とにかく戻ろ。寒いし――。



「わぁ、旨そーだなー」


 旅館に戻ると、ちょうどカンナが起きてきたところで、私は外に散歩に一人出掛けていたと説明したらカンナはボケーッとした感じで、不思議がらなかったのはホッとした。他の男二人は男同士の部屋で寝たまま起きてこなかった。起こそうかとカンナに言ったら、寝かせたままにしておいたほうがいいというので、それに従った。こんな時、海来ならどうしたのかもよくわからない……。それでお腹空いたから、顔を洗って、旅館の朝食会場に来たらバイキング形式で、料理を選んでいたら、めちゃくちゃ旨そうだったのだ。


「旨そうだな、って海来、あんた朝から偉く男っぽくない? なんだかさっきも部屋の洗面ですっごい男っぽく顔洗ってたし」


 うっ……。ちょっと油断してたかな?


「えー、ほら、だってこの唐揚げ、なんだかお馬さんの顔に、……に、似てない?」

「はぁ? あんた何言ってんの? 朝から頭おかしくなった?」


 カンナが笑ったな……。誤魔化せたのか。とにかく、海来に変わるまで気付かれないよう大人しくしていよう……。


「おはよっ」

「おはようございます」


 テーブルに座って大人しく朝食を食べていると、三島と漆原が同じテーブルにやってきた。三島はバイキングの皿に色々料理を選んで持っていたが、漆原はコーヒーカップだけだった。


「おはよー、よく寝た?」とカンナが言うと、漆原がそれに答えた。

「寝たっつーか、飲み過ぎで頭が痛いよ。だよなぁ? 三島ちゃん」

「僕は別に頭は痛くないけど、なんかボーッとしますね。……いただきまーす」


 迂闊な態度でもして変に思われても面倒だと思って会話に加わらず、大人しく朝食を食べていたら……、


「ちょっと、海来、黙々と食べてないでさぁ、朝の挨拶もなし?」


 うっ……。そっか、挨拶しなきゃそっちの方が変だよな。


「お、はぁ、……う」

「もう、口の中ちゃんと飲み込んでから言え。あんたは子供か。おかしな奴だなぁ」


 だってさ、話しかけてほしくないんだよ、こっちは。僕は海来じゃないんだから。


「ごめんごめん、朝食が美味しいからさ、夢中になっちゃって。あはは」


 しかし、先に食べ終わっていたカンナは追い打ちをかけるように言う。


「あははって。どうしたの? 朝の散歩でなんかあったの?」

「いや、べ、別になにもないわよ? カンナったら、やだなぁ、そんな疑うような目で見ないでしょ」


 すると、私と同様に黙々と朝食を頬張る三島は別として、漆原もこちらに心配そうな視線を送る。


「どうしたの? 杏樹さん? まだ昨日のことが?」

「え? 昨日のことって?」


 ……しまった。僕は昨晩のことはあまり思い出せないので、普通に聞き返してしまった。しかし、カンナが漆原の方を見て、右手人差し指を自分の口に当てている。それ以上言うなってことか。


「……ああ、ごめんごめん、杏樹さんは飲み過ぎてないの?」

「そんなには飲んでないから、全然大丈夫よ」


 ていうか全く酔ってない感じだ。海来は多分、全然酒は飲んでないようだな、よく知らんけど。


「そうなのか。……でも、変だなぁ、杏樹さんって自分も飲みながら、めちゃくちゃ酒勧めてこなかったっけ?」

「そうですよ、社長、昨晩は下戸な僕にもお前も飲め飲めってしつこかったし」

「だよねー、すっごく上機嫌だったし、あたしにも飲め飲めって」


 三島とカンナも漆原の言ったことに同調するのだけど、僕は全然思い出せない。一体海来の奴、昨晩どんな感じだったんだ? 人に勧めておいて自分では飲まなかったのか? ……しょうがない、適当に誤魔化すしか。


「ごめんごめん、なんかさ、みんな楽しそうだっから、調子に乗ってついお酒勧め過ぎちゃったのよ。自分がむよりそっちの方が楽しくてさ。あはは」

「……」

「……」

「……」


 なんだなんだ? この白けた空気は。僕はなんか昨晩の状況と違うことでも言ったのか? 不味い空気だな……、まさか海来とは別人格だと気付く人はいないと思うけど。


「海来、朝ごはん食べ終わったら、お風呂行こうよ。せっかくここに泊まってるんだからさ。海来もまだなんでしょ?」


 え? お風呂? ……そっか、ここ温泉旅館だったよな。海来が昨日お風呂に入ったか入ってないかなんて知らんけど。


「う、うん、入ろう入ろう。さっさと朝食終わらせちゃうね」


 すると、コーヒーを飲み終わったらしい漆原が椅子から立ちながら言った。


「じゃぁ、俺も付いてくよ。カンナさんと杏樹さん、三人で一緒に入ろうぜ」


 何を馬鹿なこと言ってんだ? 俺と漆原は男……、じゃなかった漆原は男なんだからそんなの無理だろ。


「もー、漆原くん、私はその趣味はないってここに来るまで散々言ったでしょう? 聞いてよ海来」

「え? 何を?」

「この漆原くんってさぁ、ここにくるまで、車の中で延々私とどっか食べに行こうとか、デートしようって言ってくるのよ?」

「そ、そうなんだ」


 そうだ、確か、漆原って人はナンパ師だったな。なんかそんな記憶あるぞ……。


「そうなんだ、って海来も知ってたでしょう? 海来も言ってたじゃん、四六時中ナンパしてるような人だって」

「ああ、……そ、そうなのよ。漆原さんって、すっごいナンパする人で、えーっと確か二千人くらいナンパしたとか」

「漆原、さん?」


 と、食べ終わっていた三島がぼそっと不思議そうに言った。……なんだ? さん付けが不味かったのか? ……えっと、どうだったっけ? ……呼び捨てだったかな? ここは誤魔化さないと。


「う、漆原、まさかカンナをナンパしようとしたの?」

「えー、ナンパっつーかさ、カンナさんすっげー美人さんじゃん。俺としては捨ててはおけないさ」

「そりゃさぁ、美人だって言われるのは嬉しいんだけどぉ、昨日も車の中で言ったとおり、……こんな、他のお客さんもいるところで、あんまり大きな声では言えないけどさ、あたしは男の人には興味ない人なの。海来とこういう関係なんだからさ」


 カンナは自分の右手で私の左手を握って、漆原の方に向けてその握った部分を示す。まぁ、僕もそれはそうだと知ってるんだけど……。


「カンナさん。冗談だよ、冗談。ここは混浴とかないしさ。知ってるよ、カンナさんがビアンでホモ、杏樹さんがバイ、でしょ?」

「こらっ、普通の声でそんな事言わないの。ねぇ? 海来」

「え? ……う、うん、そ、そうだよね。……漆原、失礼でしょ?」

「ごめんごめん、でも別にそんなの今時は隠すことじゃないんだからさ、堂々としてたらいいじゃん。よしっ三島ちゃん、俺らも男同士。風呂入りに行こうぜ」

「行きましょっか」


 そう言って、三島と漆原は朝食会場を出ていった。私は、食後の珈琲を取りに行って、再びカンナの前に座った。


「海来、大丈夫?」

「何が?」

「何がって……、あんたほんとに朝から変よ?」


 ……そうか、ぼんやりとしか思い出せないけど、多分、あの事件や過去のことを思い出して、それで海来は熱海まで来たんだっけな。多分相当悩んでて、それをカンナ達に見つかったということだったな。


「うん、やっぱりね。そんな簡単にはなかなか……」

「しょうがないよね。まぁいいや、とにかくさ、温泉行こう、温泉。ここのお風呂相当評判良いらしいじゃない?」

「そうだね。じゃぁ、お風呂行こうか」


 僕とカンナは仲良く手をつないで、朝食会場を出て一旦部屋に戻る廊下を歩いていた。……お風呂なぁ、実際は嫌なんだけどなぁ。僕は男だから、自分の肉体が女だって認めたくないんだよね。それもあって、前に出てきたくない……、いや? そんなことはないぞ?


 だって、カンナってばむっちゃくちゃエロい身体してるみたいだし、これは逆に楽しみだぞ、ムフフ。海来、しばらく出てくんなよ――。


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