第三十一話 関西訛り

「漆原くん!? どうして?」


 ――監禁されていたはずの漆原が、夜十時すぎ、事務所に現れた。一体どうして?


「……杏樹さん、下にタクシーが。俺、金持ってなくて」


 ていうか、その顔は……。


「三島くん! 下に行ってタクシーにお金払ってきて!」

「は、はい」


 三島も驚いた顔で、事務所ドアのところに立つ漆原を避けるようにして外に出ていった。


「とにかく、中に入って、そのソファーに座って」

「ああ……、水、ないかな?」


 漆原は、疲れ切った様子でソファーにドスンと体を預けた。右目の周囲に殴られたような大きな痣が……。


「水ね! ちょっと待ってて」


 私は給湯室へ行って、冷蔵庫から2Lの水のペットボトルを取り出し、製氷室から氷を全部出して洗面器に入れ事務所に戻り、水はグラスに移して漆原に渡し、自分のロッカーからタオルを取り出す。


「漆原くん、顔、ちょっと上向いて」と、氷をビニール袋に入れてタオルで包み、それを漆原の右目の辺りにゆるく押し当てた。漆原はそれを自分で手に持った。

「ありがとう。これ、気持ちいいや」

「どうしたの? 殴られたの?」

「……うん、右目とさ、あと胸とかも何回か蹴られたから、肋骨折ってるかも」

「ええ? じゃぁ、病院行かなきゃ」


 と、私はデスクに置いてあった自分のスマホに手を伸ばそうとしたら――。


「いいよ、杏樹さん。病院は明日にでも自分で行くから……、下手に病院行ったら警察沙汰になっちゃうし、警察だと何かと不味いだろ?」

「だって……」

「いいって。友達の医者にいいのがいるからさ。……それより、ちょっと休ませて」


 そう言って、漆原はグラスの水を飲み干すと、氷を包んだタオルを自分で右目に押し当てつつ、ソファーに横になった。同時に事務所に戻ってきた三島と私は視線を合わせた。一体どうして漆原が事務所に? 何があったのか?


「……杏樹さん、すまない。勝手に尾行したりして」

「そんなこと今はいいよ。それより何故? 漆原くんは自分で逃げてきたの?」

「さぁ……、俺にもさっぱり」

「さっぱりって?」

「……うん、多分、開放されたんじゃないかと思うんだけど」


 開放? 電話では明日の午後二時って言ってたのに? 三島の方を見たら、三島も肩をすくめてよくわからないという動作をして、今度は三島が漆原に話しかけた。


「漆原さん、何があったのか順を追って話できます?」

「うん、じゃぁ最初から話する。……あのマンションで監視してたら、お昼前に杏樹さんと電話を切って三十分後くらいに、例の男が建物から出てきたんだ――」


 漆原はウィメンズオフィス前のマンショの一室で、監視カメラからの映像を録画し続けている同じパソコン上で過去の動画チェックをしていた。漆原がその男が出たのに気付いたのは、既にその男がウィメンズオフィス敷地内の車に乗り込んだ瞬間だったので、慌てて自分も部屋を出た。最初は自分のスマホで男の顔を撮影しようと思っていただけだったらしい。

 ところが、男の顔の撮影が間に合わず、車が駐車場から出て走り去った。この機会を逃してはならないと考えた漆原は、急いでマンション下に戻って自分の車で、その男の車を尾行しようと追いかけた。

 なんとかその男の車を見つけて、追いつこうとしていた時に、マンションに到着した私から電話が入ったのだけど、その会話中にすぐ漆原のスマホの充電が切れてしまったという。それで漆原も、充電の切れたスマホでは男の顔を撮影するのが無理と判断して、それなら相手の行き先でも特定しようと尾行を続行した――。


「……自分の車に、スマホの充電器はあったからすぐ繋いだんだけど、なかなか電源入るまでは充電できなくって。充電さえ切れてなきゃ奴の車の横に並んで写真撮るだけでオッケーだったんだよ。素人の俺が尾行続けたらやばいのは分かってたし」

「そっか。私や三島は充電切れしないようモバイルバッテリーを持ち歩くのが常識だからね。それで、その後も尾行を続けたと。どこで漆原くんはあいつらに見つかったわけ?」

「まぁまぁ、その前にさ、尾行していて一応成果はあったよ。その男が行った先は分かったから。その頃には電源入るくらいにはスマホの充電も出来てたから、やつの顔もその建物の写真も撮ったんだ」


 えっ? 漆原、そこまで一応はやったんだ。凄い……。車の尾行って難しいのに。


「じゃぁその成果は、漆原くんのスマホで今見れるわけね?」

「……いや、スマホは奪われたよ。財布もね。持ち物は服以外全部奪われたから」

「あらら、そうなんだ。……で、どこで誰に捕まったわけ?」

「それがさぁ、その男が入っていった建物を撮影してたらいきなり背後からさ、頭から袋を被せられて、すぐにスマホも奪われ、そのまま車に無理やり押し込まれたんだよ。マジでめっちゃくちゃ怖かった。映画でそんなの見たことあるけどさ、いきなりあんなの、俺、死ぬかと思った――」


 漆原を拉致した相手は、二人組らしかった。一人は男らしいが、もうひとりは性別不明。そして、その拉致現場から漆原の推定で三十分から一時間くらいの時間掛けて監禁場所まで連れて行かれたのだという。そして、その監禁場所で椅子にロープで縛られて、質問攻めにあったらしい。ところが……。


「一切喋らなかったぜ。最初はさぁ、向こうも優しかったんだ。お茶をストローで飲ませてくれたりさ、暴力は振るう気はないって言ってたんだけど、三十分くらいかなぁ? 何故尾行したのか? とか、どういう関係だ? とか散々聞かれても一切答えてやらなかったら、怒っちゃったんだろうね……、いきなり顔にパンチが飛んできて、椅子ごとぶっ倒れて、四、五回、胸とか腹とか蹴り飛ばされちゃって。そしたらなんかさ、目隠しされてたからはっきりとは分からないけど、どうももう一人の仲間がその男を諌めていたみたいで、声は一切出してなかったけど、なんかそんな雰囲気を感じたよ」


 諌めていた? ということはもう一人は漆原を殴った男より立場が上ってことか。……そして、私とその男が電話でやり取りした後は、漆原はそのままその部屋に縛られたまま放置された。ずっと目隠しされて、監禁していた連中がなにかゴソゴソしていたり出入りしていたりする以外に、一切会話もしなかったらしく、相手がどんな人間かは全然わからないのだという。


「でね、部屋の中には誰もいない感じで何時間か経ったんだと思うけど、多分三人くらいだと思うんだけど、部屋に入ってきて、椅子からロープを解いて目隠しされたままの俺を後ろ手に縛って、そのまま部屋を出されたわけさ。多分どっかに移動させられんだろうなって思ってたんだけど。そしたらその建物を出た時から記憶がないんだ」

「えっ? 記憶がない?」

「そう、気がついたら、首都高湾岸線の浮島出入り口近くの路上で寝てたんだ。だから俺もどういうことなのかさっぱり……、ってわけ」


 三島も、どういうことなのかさっぱりわからないというように首を捻っていた。明日の午後二時に回答期限を設定しておいて、何故漆原を前日に開放するんだろう? 


「首都高の浮島出入り口……、は何の関係もないでしょうね。多分、漆原さんは建物を出された後、薬物か何かで気絶させられたんだと思います。そして、監禁現場とは全く無関係の場所に捨てられた」

「そうね……、まぁでも、こうして漆原くんが怪我させられたとは言え、開放されたから安心したわ。ほんとにごめんなさいね、漆原くん」と私は漆原に向かって、立ってから深くお辞儀をした。

「杏樹さん、いいよそんな事しなくったって。俺が悪いんだよ、勝手に尾行したりするからこんなことになっちゃったんだし。だから頭上げて」

「でも、あたし、漆原くんのご家族も住所も何も知らないのに、大変なことをさせてしまって、あなたの生命があっただけでも――」


 私はなんてことをしてしまったんだ……、とそれまで溜めていた自責の念が一気に体の底から溢れ出し、突然身体全体がガクガク震え始め、そのままその場に沈み込むようにして力が抜け、しゃがみ込む――。目からは大粒の涙が頬を伝って床に滴り落ちた。そしたら漆原が呟くようにして言った。


「……止めてくれって。俺、そういうの、気分が悪い」

「漆原くん……、私、ほんとに」

「いいよ。とにかく泣くなってば。……三島さん、杏樹さんを椅子に座らせてやってよ」


 三島は漆原のその言葉に素直に従って、私の両肩を両手で抱え込むようにして身体を支えながら立たせてくれて、デスクチェアーに座らせてくれた。でも、私はそのまま漆原を正視出来ず、デスクの上に突っ伏すようにして腕組みを乗せ、嗚咽を続けて項垂れるだけだった。


「三島さん、杏樹……、じゃなかった社長さんて、よく泣く人なの?」

「……まぁ、そう、ですかね」


 ――このやろ、余計な返事するな。……直ぐ傍にいた三島の太ももと拳で軽く小突いてやった。


「痛っ。……そのくせに、こんな風にプライドだけはめちゃくちゃ高いんですよ、うちの社長」

「ああ、それは俺も思う。すんげぇプライド高いよな。あはは」

「ですよねぇ、くっくっく」


 んだよ、こいつら。人が泣いてるっつーのに笑いやがってさぁ。……あたしもなんだか、おかしいけど。


「あれ? おたくの社長、なんか笑ってないか?」


 くそっ。気が付きやがったか。周りで笑われると釣られるんだよ――。しょうがないなぁ……。私は泣き腫らしてる顔を見せたくないので、デスクの上に突っ伏したまんま話し始めた。


「漆原くん、それで、あの男の行った先とかはちゃんと覚えてるわけね?」

「えっ? ああ、しっかり覚えてるよ。ていうか、写真あるよ」

「あれ? スマホ奪われたんじゃないの?」

「奪われたって、バックアップはクラウドにあるよ」


 ああ、そっか。そうだったわね。連中は警察だからIT弱いもんな。多分クラウドのデータは消去されてないだろう。


「じゃぁ、そのアカウントとパスワードで、後で良いからうちのパソコンで見せてくれる?」

「分かった。それよりさ、俺、監禁中に、ちょっと気付いてたことがあるんだよ」

「何を?」

「俺を拉致したあの男、なんだか話し方がおかしかったんだ」


 話し方って……、あ、そうだった。


「漆原くんも分かったんだね。三島、さっきの電話の会話、もっかい再生してくれる?」

「はい、じゃぁ再生します」


 パソコンスピーカーから、漆原を監禁して私を脅迫してきた時の電話での録音データが再生された。漆原はソファーから上体を起こして座った。


〈……無駄だ、藤堂海来探偵社の藤堂海来さん。漆原のスマホの着信履歴と漆原が持っていたあなたの名刺……〉


「そこで停めて。もう一回、〈藤堂海来探偵社〉って言っているところから再生して」


 間違いない。これは――。


「その録音だと声変わっててわかりにくいけど、でもこれ絶対、関西訛りだよな」

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