第三十話 拉致
すぐさまスマホの受話口を手で塞いだ。
「リリアンさん、ちょっと仕事の話で他の人に聞かれたくないから外で電話してくるね」
出来るだけ平静を装ってそう言ったら、リリアンおばさんは特に違和感なく頷いてくれたので、私は店の外へ出た。
「もしもし?」
〈誰の依頼だ?〉
ボイスチェンジャーでピッチを上げたその言葉の意味はすぐに見当はついたが……。
「何の話?」
〈分かっているはずだ。漆原麟太郎を知っているだろう?〉
「さぁ……」
〈とぼけても無駄だ、藤堂海来探偵社の藤堂海来さん。漆原のスマホの着信履歴と漆原が持っていたあなたの名刺に記載された携帯番号は一致している〉
えっ? まさか、漆原、捕まったのか?
「漆原くんをどうしたの? 無事なの?」
〈ああ、彼には傷一つ付けてないよ。声を聴かせてやろう……、ちょっと待ってくれ、元の音声に戻すからな……〉
〈……すまない〉
間違いない、漆原の声だ!
「漆原くん! 大丈夫!?」
〈奴らに捕ま……〉
「漆原くん!?」
〈……もういいだろう。どうしてあの男をこの漆原に尾行させたんだ? 一体誰からの依頼だ? 言わないとこの男がどうなるか想像がつくだろう?〉
「それは……、待って。あなた一体誰なの?」
〈それは言う必要はないな。今から24時間待ってやる。別に漆原を殺すつもりはないが、どうなるのかは藤堂さん、あなたの返答次第だ。では〉……ブッ。
「待って!」
……まさか、漆原くんが捕まるなんて。まさか、そんな……、どうしてそんなことが。時刻は……二時ちょうどか。今の電話の相手は……、渡辺二瓶か、それとも仲間か。……漆原くん、一体どこにいるんだ? ――ちくしょう、こんなことになるんだったら、漆原にうちの携帯を持たせておけばGPSである程度なら追跡できたのに……。
「海来さん、どうしたの? そんなとこで突っ立ってて」
「え? ……ああ、ちょっとね、仕事でややこしいことがあってさ」
「そうなの? なんか顔色があまり良くないみたいだけど……」
「大丈夫よ。……急用が出来たから、すぐに会社に戻らなきゃ」
心配そうな顔で店の外にまで出てきてくれたリリアンおばさんにそう言うと、私はそのまま店の中においていた自分の上着とバッグを持って、車を止めていた駐車場に急いだ――。
武蔵川女子大学すぐ側の時間貸し駐車場に着いて社用車に乗ろうとすると、その隣りにあった女子寮から、後ろ姿に見覚えのある女性が外に出てくるのが視界に入った。あれは京極菖蒲。……待てよ、彼女は渡辺の共犯だから、何か知っているかもしれない。……でも、こっち側に寝返ったわけでもないし、もし知ってたとしても言わないよなぁ。下手に問い詰めても逆に向こうを刺激するかもしれないし……、あっ、そうだ。あの件なら――。私は、荷物を社用車の中に投げ入れると、京極の後を追った。
「京極さん、ちょっといいかな?」
大学キャンパス外の、正面の大通りから少し入った車一台しか通れない程度の路上で、彼女は立ち止まって振り返った。
「あ、藤堂さん、こんにちは」
「ごめんねー、なんか呼び止めちゃったみたいで。そこの駐車場で京極さんが寮から出てくるところを見かけたからさ」
「いえ、別に急いでるわけでもないので」
「そうなんだ。じゃぁ、こんな路上で申し訳ないんだけどさぁ、ちょっと話できるかな。そんな長い話じゃないから」
「いいですよ。何ですか?」
「この前電話で話した仲西さんの妊娠の話なんだけど、あれからさぁ、色々とうちの方で産婦人科病院を当たってみたんだけどね、やってくれそうなところが見つかったの」
「やってくれそうなって……、中絶して流産の診断書にしてくれるところですか?」
「そうなの。お金は少し、あれなんだけど、詳しい話をしなくても察してくれるっていうか、話のわかるお医者さんが見つかったんだよ」
「ほんとですか? それならそこで是非」
おお、京極さん、この件なら目がキラキラしてるなぁ。やっぱり、京極は仲西麗華の妊娠の問題は積極的に解決したいって思ってるみたいだな。三島の言う通り、京極は渡辺らと共犯関係でも、無理やり妊娠させることはやはり許せないと。これなら行けるかもしれない。
「うん、だからね、もし出来たらってことなんだけど、京極さんの方から、仲西麗華さんを説得してくれないかな、と思ってさ」
「あたしがですか? 麗華に中絶を?」
「うん、私は所詮、探偵会社の人間っていうか、お金貰って仕事してるだけの人だし、京極さんの方がそういう説得には向いてるんじゃないかと思うわけ」
「それはそうですけど……、でも私にも彼女が堕ろすのを渋っている理由がよく分からなくて」
「いや、それはやっぱり、あいつらの脅迫が酷いからだと思う」
やつらは、あっさり尾行していた漆原を見つけて、拉致監禁までする連中だ。実際私だってそこまでするとは思いもしなかった。そんな酷い奴らだからこそ、仲西は相当怖いのだろう。
「……そう、ですね。分かりました。妊娠の件でご相談させていただいたのはそもそも私ですし、確か、調査の契約にも入ってなかった仕事ですよね?」
「うん、まぁそうなんだけどね。ただ、契約外の仕事だからって言うんじゃないのよ。妊娠週数から考えてまだ中絶期限までは日数はあるけど、母体のことを考えたら早いほうが良いわけだし。京極さんなら私より彼女のそばにいるわけだからさ。最近はどうなの? 仲直りはしたって聞いたけど」
すると、京極は私から視線をそらして少し表情を曇らせた。
「……一応、お互い、きつく言い合ったのは謝りはしたんですけど、無視って程でもないのですが、それ以来少し話しがしづらくて」
「そうなんだ。でも、そういうのは時間が解決するよ。大丈夫だよ、あなたなら。仲西さんのことが心配なんでしょう?」
それは多分間違いないんだ。だから、あいつらに私の会社に来たことを喋ってないんだから。それに、仲西の妊娠の件までうちでやってたら、事件そのものの解決も遠のいてしまう。どうにかしてこの件だけでも京極を引き込まないと――。
「……はい、では私の方からなんとか麗華に話してみます。大丈夫、なんですよね?」
「大丈夫よ。流産の診断書さえあれば、中絶と流産なんて区別する方法なんてないんだからさ。じゃぁお願いするわね? 仲西さんがオッケーくれたらすぐにでも動けるように手配するからさ」
「わかりました。では」
私は京極の背中を見送った。これでひとまず、仲西の件は京極に任せられる。それより今は、漆原だ。とにかくひとまず、会社に戻ろう――。
「ええっ? 漆原さんが拉致された?」
会社に戻ったのが午後四時。期限まで後二十二時間。漆原が拉致されている場所の見当もつかない以上、それまでに漆原が開放されるような返答を用意しなければならない。
「うん、相手は多分渡辺二瓶か、その仲間だと思うんだけど、例の男を私の指示もなく、漆原が勝手に尾行しちゃって……」とその詳細を三島に説明した。
三島はよく気がつく人間だった。私の頭の中は明日の期限までにどんな返事を用意すれば良いのか、それだけだったのに……。
「そもそも漆原さんの住所も家族も知らない。社長は何も聞いてなかったんですか?」
「う、うん。電話番号とラインくらいしか……。まさかこんなことになるなんて思いもしなかったから。駄目だね、これじゃぁ。履歴書くらいとっとくべきだったわ」
「そうですね……。ネットでエゴサしてみますけど……、何も出てこないですね」
「確か、実業家で五軒くらいのお店のオーナーだって聞いたけど」
「お店の種類もわからないんじゃぁ、調べようがないですね。参ったなぁ、もし漆原さんに何かあったら、仕事任せた以上、大問題になっちゃいますね」
うわぁ……、最悪だ。あたしって、駄目だなぁ。最悪のことを考えるのが経営者だって散々自分に言い聞かせてきたつもりなのに。ったく、自己嫌悪だ……。
「ほんとに、全然気付かなかったわ。私って経営者失格……」
「……あ、いや、僕は別に社長を責めてるわけじゃありませんよ。ただ、こうなった以上は最善を尽くさないと」
「そうだね。向こうは、漆原くんを殺すつもりはない、とは言ってた。だから、開放はしてくれるんだとは思うけど……、どんな形で開放するのかまでは」
「そうなんですか。殺すつもりはない……、あっ、社長、その電話のやり取りって録音しましたよね?」
「当然。非通知の場合は絶対最初から録音するからさ。聞いてみる?」
「はい」
私は、自分のスマホに録音したその脅迫相手との会話を、聞きやすくするために一旦パソコンに移してからパソコンスピーカーから再生した。
「三島は聞いてどう思った?」
「まぁ、社長が話してくれた内容そのままですけど……、これピッチ戻しても本人の地声に直せませんかね?」
「これは復調が無理なタイプ。最近のボイチェンはスマホアプリで簡単に出来てしまうから」
「そっか。なら、例えばドラマなんかでよくある、鉄道の音とか、あるいはもっと駅のアナウンスの音とか入ってませんかね?」
「じゃぁ、その可能性にかけて何度か再生し直して聞いてみよっか」
それから何度も何度も、その録音データの再生を繰り返して二人で聞き続けたのだが、イコライザーで周波数調整までやったり、特殊なソフトを使って人間の声をマスキング、背景音だけ強調できるようにしたり、さんざん色々な工夫をしたのだけど、わかったのは、向こうの声が反響している事くらいだった。つまり、あまり何も物がない部屋か、それとも反響しやすい広い部屋か、くらいしかわからない。車かバイクの音が混じっているのも分かったけど、市街地であればどこも似たようなものだし、場所を特定出来そうな音はまったくなかった。
「何もないわね。もっかい聞く?」
「いえ……、少し休憩しましょうか? もう夜七時だしお腹空きませんか?」
「そうね。ピザでも取ろうか?」
「ピザ良いですね。じゃぁ、スマホで注文してみますね」
ピザが配達されてきても、それを二人で食べながら延々とその会話録音をリピート再生で聞き続けた。それしか手掛かりがなかった。もし、居場所が特定できたのならば、応援だって呼ぶことは出来なくはないのだけど、居場所が特定できなければそれも意味がない。そして、段々と眠くなり始めた夜十時過ぎ。私はふと、あることに気がついた。
「ちょっと待てよ……、三島くん、安西調査事務所の例の報告書ってどこにあるの?」
「え? ええっと、僕のデスクの上ですけど、ちょっと待って下さいね。……これです」
私は三島から渡された報告書の、渡辺二瓶に関する個人情報が書いてあるページを凝視した。……そうか、そうだとするならば。
「三島くん、もっかい再生してくれない? 相手の声の方を強調して」
「あ、はい――」
三島がパソコンで会話を再生しようとしたその時だった。ガンガンガンと、事務所ドアを強くノックする音。
「誰、こんな時間に?」と私は施錠していた事務所のドアを開いた。
漆原くん!?
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