第二十一話 妊娠届出書

 NPO法人ウィメンズオフィスは、どちらかと言えば住宅地と言った方がいいような地域にあって、比較的交通量の多い上下各二車線の国道に面しているけど、国道沿いはマンションが多く、国道から少し入るとマンションよりは戸建てが多い。ウィメンズオフィスは二棟のマンションに挟まれた、少し大きめの戸建てといった雰囲気で、見た目には小規模の老人介護施設にも見える。


 私達はその施設を、国道を挟んで対面にある賃貸マンションの二階の空き室を借り上げて、ベランダ越しに監視を続けていた。単身者用の1DKだったのが幸いで激安だった。探偵屋さんは張り込みで部屋を借り上げてしまうこともしばしばあるのだけど、社長としては費用が安く済むのが大助かり。ところが――。


「流石にさぁ、漆原くん、これはいくら何でも経費扱いには出来ないわよ?」


 そのベランダに面する八畳くらいの一室に、ドカンとダブルサイズはあろうかというベッドが置かれていた。


「いいよそんなの別に。せっかく部屋借りたんだからさ、何にもないのは寂しいと思って、この近所にあるニトリで買って運んでもらったんだよ。ベッドのお金は俺が持つし」

「でも、いつまでもずっといるわけじゃないよ? どんなに長くいたって一ヶ月までなんだから、普通は寝袋くらいなもんだよ?」

「やだよ、寝袋なんてさぁ、貧乏っぽいじゃん。でもこれだったらさ、杏樹さんと一緒に寝られるぜ、へへっ」

「ばーか。誰があんたとなんか一緒に寝るかっつーの」


 そもそも、漆原だって、あまりここには来ないのだ。任務としては、主に誰が出入りしているのかをチェックすることだ。そのほとんどはベランダに設置してあるカメラで十分であり、その映像はネット回線を通じて事務所に送られている。ただ、録画映像を後でチェックするとしても、そのチェック作業自体に時間がかかり、それならこの現地でそのチェックをしてもらって、時間があれば直接監視してもらってもいいわけで。


「で、監視三日目になるけど、きちっと録画映像チェックはやってるの? 何の報告もないんだけど」

「やってるよ。あそこって営業時間、朝の十時から夕方七時までだからさ、前後入れて十時間分、一日目のビデオ映像は早送りで全部見たぜ」

「それで? 何か分かった?」

「あそこのパソコンで、出入りした人全員の顔写真、ちゃーんと分けてあるよ」


 と、漆原が言うので、この部屋に設置したノートパソコンを確認すると、女性が十五名、男性が三名、他に出入り業者が三名確認され、その全員がはっきりと顔写真に分けられていた。ふむ……、漆原って意外とこういうのマメにやってくれんだな。


「漆原くんの仕事としてはまずまずだね」

「もっと褒めてよー、そのうち利用者と職員もちゃ~んと分けてるんだからさ」

「あら、もうそこまでやったの?」


 つってもその程度、探偵の本業ならば一日目でやってしまうんだけどね。ただ、その仕訳は漆原には指示してはいなかった。


「あったりまえじゃん。そこから怪しいやつを特定しなきゃ意味ないわけでしょ? 俺も細かくはまだ聞いてないけどさ、この前杏樹さんから受けた説明では、あそこが売春組織となんか関係あるっていう話じゃんか」

「ある、とまでは断定できないけど」

「ともかくさ、女の子を脅して強制的に売春させるなんて俺としても許せないわけさ。女の子は男の性のための道具じゃない」


 あらら、漆原にしてはいいこと言うじゃん。でも、漆原だって、あたしは女の子をセックスの対象にしか見てないと思ってるんだけどな……。


「分かった分かった、とにかく漆原くんはまずまず優秀ね。その調子で頑張って。あとこれ、差し入れだから」


 と、私はこの近くにあるお弁当屋さんで買った一番高いステーキ弁当を漆原に渡した。


「サンキュー。じゃぁしっかりやるからさ、期待しておいてちょうだい」

「お願いね。あと、前にも言ったとおり、雪愛が現れたらすぐに連絡してね」

「分かってるって。あの女の顔だけは絶対に忘れない」




 その日の午後三時。私は喫茶リリアンにいた。毎日というわけではなく、仲西麗華を自宅から尾行することもあったし、仲西の授業が特定できる日は、バレないようにキャンパスの中で監視、尾行することもあった。ただ、何度かこの喫茶店に来る間に、店主のおばさんと仲良くなってしまったのである。しかも、私の職業も何をやっているのかも全部、話してしまった。だって……。


「私もねぇ、昔勤めていた興信所ではよくやったもんさ。酷いときなんか、大雨の中で、雨合羽来て電信柱の影からずーっと何時間も監視とかやったもんだよ」


 と、この店主、若い頃は興信所の調査員さんだったわけ。


「そうそう、私もですよ。一昨年の大雪の日には危うく雪だるまになりかけるくらいにびっしり雪にまみれて大変でした」

「あらら、あなたも頑張るのね。尾行とかバレたことある? あたしの若い頃はさぁ……」


 こんな感じで、来るたびに店主と探偵話で盛り上がってしまうくらいに仲良くなってしまった。店主は私の探偵業とは少し違って、企業調査のスペシャリストだったんだけど、昔見た映画の『マルサの女』に近いこともやっていたらしかった。宮本信子さんのあの演技には憧れたなぁ。


 それで、店主と話が盛り上がってたりする間は、店主の旦那さんがウィンドウ越しの大学正門監視を代理でやってくれたりするのだけど、午後四時過ぎになってその旦那さんがお店の中で私に叫んだ。


「あの子が出たよ!」


 出たって……、幽霊じゃないんだからさ。


「ありがとう、じゃぁ、これから尾行してきますね」

「頑張ってね」


 と、店主に店から送り出されるようにして、大学正門から出た仲西麗華の尾行を始めたのだった。



 これで、尾行七日目になる。そのうち二回は三島がやってくれたけど、仲西麗華はそのまま自宅に直行しないことはあっても、特に怪しい男と会っている様子はなかった。強制売春させらているとは言え、毎日のようにやっているわけではなく、メールを通じて指示があった場合にのみ動くのだという。そのメールアドレスですらも毎回異なるらしかった。おそらくアドレスからも渡辺二瓶に紐付けられないようにやっているのだろう。


 喧嘩したという京極菖蒲からは、仲西とはひとまず仲直りしたという連絡は貰っていた。但し、仲西の妊娠については何も聞かなかったと言っていた。仲西が妊娠した理由、それに関する私の想定については京極には伝えなかったが、もしそうならば、仲西は絶対に言わないだろう。親友の京極に迷惑をかけたくないと思うだろうから。


 それにしても、こうして仲西麗華を尾行していて思うのは、彼女はやたらと警戒心が強いということだ。我々プロの探偵が尾行していても、気付かれるんじゃないかと思うほどである。もちろん、一回会っているから顔を覚えられているということもあるので尾行はその分やり難いのだけど、それ以上に彼女はしょっちゅうあたりを見渡したり、後ろを振り返ったりするのだ。


 おそらくは、渡辺二瓶からの脅迫が効いているからなのだろうけど、それにしてもやり難い。見失いそうになったのは一度や二度ではなく、三島が尾行した際には、三十分近くも見失ったことがあるらしかった。しかし、この尾行は絶対にバレてはいけなかった。仲西麗華自身に黙ってやっているということもあったし、下手にバレたら彼女自身の身に危険を晒してしまう。


 今のところその気配はないが、私達以外に彼女を尾行する渡辺側の人間だっているかもしれない。渡辺だって彼女が誰かに、その悪事を話す可能性を考えないわけはないだろう。実際に私達にそれを話したのだから。



 尾行を続けて一時間経つと、彼女は大学から電車を乗り継いで、とある繁華街の雑居ビルにある英会話スクールにやってきた。就職に有利になるという理由で毎週三回は通っているらしかった。その終わりを外で待つこと二時間、時刻は夜七時半過ぎ、やっとそのビルから出てきた仲西だったが、英会話スクールを終わったらそのまま自宅へ帰るはずなのに、乗った電車の方角が違っていた。


 彼女が降りた駅に直結する地下街を十分程歩いて、その地下街の端の方にある喫茶店に入っていく。……不味いな。誰かと待ち合わせているのだろうが、あんな小さな店、簡単に気付かれてしまうから中には入りにくい。どうしようかと迷っていたら、ガタイの大きな男性がその喫茶店に入っていこうとしていたので、これ幸いとその男の影に隠れるようにして私も続いて店内に入っていった。


 店内に入ると、真ん中に通路があって、出入り口側はその通路の左右にテーブル席が四つずつ、奥はカウンター席とテーブル席が五つだった。仲西麗華は一番奥のテーブル席で出入り口の方へ向いて一人座っていたが、ガタイのでかい男性の背後を隠れるようにして店内に入っていって、ちょうどカウンター席を隔てて彼女からは見えにくいテーブル席に私は座った。店内は少し暗めなので、向こうからは気付かれない筈だ。


 彼女に対して背中を向けて座っていた私は、コンパクトの鏡を使って彼女を確認するも、誰かを待っているようではあったが、なかなか誰も現れない。時刻を見ると八時半。この店の閉店時間は九時とある。これはちょっとやばいなぁ……、店内には私と彼女以外に客は……ゲッ! カウンターに一人しかいないじゃねぇか。これじゃぁ出るに出られんし、彼女が先に立ったら私がここにいることがバレてしまうよ。変装用の帽子と眼鏡は持ってきてるけど――。


 閉店十分前、とうとうそのカウンター席にいた一人も出ていってしまった。どうなってんだよ? 彼女、待ち人誰も来ないじゃん。……ん? 誰か店に入ってきたな、スーツ姿の男。ちょうど顔のあたりに片手に持っている新聞で隠れてしまって、顔がよく見えないが……。そしてその男は仲西の対面に座った。ちょうど私からは男の背中が見えるだけなので顔がわからない。まさか、今日の売春相手か?


 座って何かを話しているようだったが、全く聞こえない。ガンマイクでも使えば聞こえるんだろうけど、流石にそれは店内では目立ちすぎて無理だ。仕方がないので、コンパクトの鏡を使って様子を窺っていると……、あれは、なんだろう? 仲西麗華がなにか用紙を見せてるけど。コンパクトではよく見えないし。……男がそれを手に取ってるけど。……よしっ、じゃぁ奥の手だ。


 私はスマホを取り出し、虫眼鏡アプリを起動してコンパクトカメラに写っているその男が持つ用紙を拡大してみたら――。


 あれは、妊娠届出書?

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