第三章 影の王

第125話 いつの日かの記憶



 これは、まだ八神が特務課へと入る前。

 後に、特務課史上最大の汚点と称される紋章者と彼の戦友であった凍雲冬真いてぐもとうまとの決別の物語。



    ◇



 それは、篠突しのつく雨降りしきる夜の出来事だった。

 高層ビル立ち並ぶ摩天楼の中、自然を取り入れるためと設けられた公園。

 普段は老夫婦が子供たちの元気に遊ぶ姿を眺めて長閑のどかな一時を過ごし、健康志向な若い女性がジョギングをする緑豊かないこいの空間。


 しかし、そんな心安らぐ空間は鮮やかな紅に染め上げられていた。

 中央に位置する噴水はそこに沈む遺体から流れ出た血液で真紅に染まり、紅く染まった水を循環して噴き出している。


 子供たちがボール遊びをする憩いの広場には数え切れないほどの鮮血の花弁が咲き誇る。


 夜の公園を照らし出す街灯は先端部が鋭利に切断され、そこには百舌鳥もず早贄はやにえが如く、幾人もの人間が突き刺さって事切れている。


 耐性のない者が見れば、即座に嘔吐するほどのおびただしい数の死がそこにはあった。

 そして、紅く染まった噴水の近く、百舌鳥もず早贄はやにえに囲まれた公園中央部にて二人の人物が相対していた。


 一方は耳にかからない程度に切り揃えられた白髪に、薄い緑がかった碧眼を四角縁メガネで覆った青年。

 特務課第五班所属、概念格:凍結の紋章者である凍雲冬真いてぐもとうま

 

 もう一方は、袖がダボついたロングコートにフードを被り、顔にはペストマスクをつけてその素顔を隠す正体不明の人物——ザンド。

 その人物こそ、凍雲と同じく特務課第五班所属の紋章者であり、人類史上最も紋章に愛された者と称される程の実力者。

 そして、凍雲と長らくバディを組んでいた戦友にして、この惨劇を作り上げた張本人だ。


「何故、こんなことをした」

「お前の憤怒は正しいものだ。だが、これは必要なことだったんだよ」


 凍雲は凄惨な現場を目の当たりにしても表情一つ変えず、その動機を尋ねる。

 それに対してザンドは凍雲の隠された激情を見抜き、その上で静かにその正当性を語り始める。


「彼らは所謂いわゆる、誹謗中傷ネットユーザー達だ。その身に刻まれた罪過は君もよく知っているだろう」


 噴水を紅く染め上げ、広場を鮮血で彩り、見せしめが如く街灯に突き刺さる彼らは法で裁かれるべき人間ではない。

 しかし、確かにその身には罪過が刻まれた人物たちであることを凍雲は理解していた。


 そして、ザンドは到底看過できぬ事実を噛み締めるように話し始める。


「あの事故は防ぎようのない出来事だった。だが、その後に起きた事件は到底看過できるものではない」


 ある日、とある芸能人が自動車の運転を誤って罪なき子供達を轢き殺してしまった。

 当然ながら、当人は過失運転致死罪で罪に問われることとなった。

 しかし、その事故がそれだけで終息することはなかった。

 芸能人であったことが災いし、その事件は話題性を持ってしまい、ネットで波及したその話題は次第に当事者の家族にまで及んだ。

 

 犯罪者の子供。

 息子を、娘を返せ!!

 なんで我が子は死んでお前はのうのうと息をしているんだ!

 死ね。……死んで詫びろ!!

 

 心無い声が罪なき家族を見えない刃で切り刻み続けた。

 けれど、事件当事者の遺族からの声はまだ謹んで受け止めることができた。

 乱暴な言葉は妻が全て受け止めて、子供たちを言葉の暴力から匿うことができた。

 

 だが、真の悲劇はその後にやってきた。


「何の謂れもなく、後から勝手にやってきた彼らは己が抱く勝手な正義感のまま、なんの罪もない少女を言葉の刃で切り刻み、死に追いやった」


 始まりは、無駄な正義感に駆られた一人のネットユーザーが『直談判してその罪を追及してやろう』と考え、加害者家族の住所を特定してしまったことだ。


 そこから事件がエスカレートしていくのはあまりに早かった。

 何の関係もない、ネットの情報を鵜呑うのみにした人間が寄ってたかって彼らを非難するむねの手紙を送りつけた。

 それだけに飽き足らず、彼女らの自宅へ押しかけて悪質な落書きをする者まで現れ出した。


「そうした騒ぎになれば、最も強く影響を受けるのは純粋な子供達だ」

 

 ある日、加害者家族の姉妹が登校した時、上履きが捨てられていた。

 友人は一夜にして離れ、『犯罪者の娘だからいじめてもいい。いや、いじめてせいさいしなくちゃいけないんだ』という勝手な正義を振りかざしたイジメが日常と化した。


「初めに亡くなったのは、イジメから妹を庇い続けていた姉だったか」


 日常的に振るわれる暴力は日々激化していった。

 それでも、姉妹は懸命に二人を護ってくれている母に心配をかけまいと、学校に通うことをやめなかった。


 そんなある日、いじめから妹を庇い続けていた姉の精神は遂に限界を迎え、人知れず学校の屋上からその身を投げた。

 妹を護るためと懸命に抗い、耐え続けた彼女であったが、未だ幼いその身で全てを背負えるほど彼女は強くなどなかった。

 どこにでもいる普通の女の子が耐えられるような地獄ではなかったのだ。


「しかし、彼女は己の命と引き換えに状況を逆転させる一手を打っていた」


 遺書として残していたのだ。

 自殺というインパクトをもって、これまでに起こった出来事の全てを書き記した遺書を世間へつまびらかにすることで、彼女は最後の最後まで妹を、家族を護ろうとしたのだ。


「だが、彼女の想いは歪んだ正義によって踏みにじられた」


 彼女が残した遺書はなかったことにされた。

 学校側と繋がりを持つ政治家によって、彼女が死んだ事実そのものを揉み消されてしまったのだ。


 普通ならば、重大事件として取り上げられてしかるべき事態であるが、学校側は政治家の力を借りることでこれを隠蔽したのだ。

 驚くべきことに、この隠蔽には警察関係者も関わっていた。

 誰も彼もが、ネットを介した集団心理によって生み出された歪な正義に毒され、彼らによって歪められた事実を信じ込んでしまっていたのだ。

 それ故に、加害者家族が幾ら訴えかけても、誰も取り合ってはくれなかった。


「そして、続け様に妹が死の恐怖から失語症を患い、登校を拒絶した」


 姉の死後もいじめは留まることなく続き、耐えられなかった妹は登校を拒否した。

 だが、悲劇はより多角的にやってくる。


「ネットユーザーが、そして無垢なる子供たちが形作った『犯罪者家族には罰を与えなければいけない』という無意識下の正義に突き動かされた被害者遺族が最後の撃鉄を落とした」


 周囲の環境が作り出した『正義』の名の下に、遺族は怨讐おんしゅうを胸に立ち上がった。

 そして、誰もが寝静まった深夜。

 加害者家族の住居は業火に飲まれた。

 失語症を煩う妹は痛みに呻く声さえ挙げられず、瓦礫に埋もれたまま炎に消えた。

 子供たちを守り続けた母も、懸命に娘を助けようと争い続けたが、最期には娘と共に炎に包まれてしまった。


 そして、後に残るのは過ちを犯したと自覚する後悔などではない。

 『娘、息子の仇を討った』という誇らしさのみ。

 そして、それでも尚恨みが消えぬ被害者遺族らは天に昇る炎さえも恨めしげに睨み続けていた。


 それから数年後、実際に殺人という罪を犯した、いじめの主犯である少年や放火を犯した遺族、自殺をもみ消した政治家や警察関係者、校長らは逮捕された。

 しかし、加害者家族を手紙で非難した不特定多数のネットユーザーや無駄な正義感に駆られて個人情報を調べ上げたネットユーザーが罪に問われることはついぞなかった。


「何故、事件発覚まで数年もの時間を要した?」


 それは事件当初、ネットユーザーが形作った理不尽な正義に毒された警察関係者が火の不始末が原因の事故と処断したからだ。


「何故、事件が発覚した今となっても罪に問われない者がいる?」


 それは、ネットユーザーの誹謗中傷、不特定多数からの悪意ある手紙を完璧な形で罰するだけの法整備が整っていないからだ。


「……何故、何の罪もない家族が苦しみ、死ななければならなかった」


 それは、……いや、そんなことが許される理由など存在するはずがない。

 存在していいはずがないのだ!!


「だからといって、裁かれなかった者を惨殺するのは裁きではなく、ただの殺人だ」


 全ての事実を知り、ザンドが抱く想いを理解した上で凍雲はそう断じた。

 

 公園を鮮血で染め上げている彼らはそういった法で裁かれなかった罪人たちであった。

 法で裁かれなかった彼らを、ザンドは一夜にして殺し尽くし、未だ己の罪過を自覚せぬ咎人とがびとらへの警鐘としたのだ。


 けれど、そんな法を無視した無秩序な殺しが許されるはずがない。


「正論ではあるが、綺麗事に過ぎないな」


 ザンドは凍雲の本心を見抜いていた。

 言葉では綺麗事を並べていても、その奥にはザンドの行いに理解を示す感情があることを。

 確かな罪を背負う咎人を裁くことができない現状へ憤りを抱いていることを。

 

「誰に何と言われようと、ワタシは先の事件のような間違った正義など生まれることのない、誰もが正しき正義を自覚して、集団心理になど惑わされぬ確固たる自己が確立した社会を、罪なき者が涙を流すことのない世界を作り上げる」


 “これは、その為のいしずえだ”


 そう締めくくった彼の言葉には一切の迷いがなかった。

 どれだけ己が両手を血に染めて、屍山血河しざんけつがを築くことになろうとも、もはやこの道をたがえることはない。

 そう思わせる気迫がその言葉には宿っていた。


「犠牲の上で成り立つ理想など碌なものではないぞ」

「犠牲が生まれ続ける今を見て見ぬふりなどどうしてできようか」


 想いは平行線。

 最早、二人の道が交わることはあり得ない。

 凍雲の弁は正しく、ザンドの弁もまた正しい。

 そこには善も悪もなく、ただそれぞれが抱く信念だけがある。

 

 故に、これは必然であった。


「俺はお前を殺してでも止めてやる」

「そうか、罪なきお前を黙らせるのは骨が折れるのだがな」


 血染めの噴水。

 それが一際大きく噴き上がった瞬間。

 互いの信念はぶつかり合った。

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