第39話
「あ・・・・・・やっとわかったわ。どうしてそんなことを話してくださるのかと思ったら、そういうことなの」絵里は明るい笑顔を見せた。「その話をもっと早く聞いておけば、ボーイフレンドができてたかも知れないわね。でも良かったわ、いま聞かせてもらったから、今後の参考にさせてもらいます」
「ずっと同じ職場で働いている人とどうにかなりたかったなら、変化を起こすようなことをしたらいいんじゃないかな。棚から荷物を落としたら会話が始まるんだからさ。今からでも間に合うよ、きっと」
「そうね、これからは最初がかんじんだって心がけときます。それでもうまくいかなかったら、荷物を落とすやり方をためしてみます」
絵里はおどけたような口調で言った。僕たちは声を合わせて笑った。そんなときでさえも、絵里の笑い声は遠慮がちに聞こえた。絵里のやわらかいアルトの声と、つつましやかながらも明るい話しぶりが、その笑い声とともにとても好ましかった。
演奏会からの帰りではあったが、僕たちは音楽についてはあまり話さなかった。絵里が音質の良いヘッドホンを買うつもりだと話したとき、ついでのように音楽のことを少しだけ話題にした。
気がついたときにはずいぶん時間が経っていた。両親が心配しているかも知れないからと、絵里は店から自宅に電話をかけた。僕はテーブルについたまま、電話に向かっている絵里を見ていた。絵里の体がときどき小刻みにゆれた。絵里が話し終えるまで、笑いながら話している絵里の後ろ姿から眼を離すことができなかった。
店を出たときには霧雨が降っていた。ふたりとも傘を持っていなかったので、地下鉄駅の入口を目指して懸命に歩いた。
「私は今までデートをしたことがないんです。だから、今日は私とデートをしたことにしてくださいね」息をきらしながら絵里が言った。
息をきらしながらも、絵里は明るい笑顔を見せていた。絵里にいとおしさを覚えながら、その笑顔に向かって僕は答えた。
「もちろんデートだよ。今日のは最高のデートじゃないか」
「松井さんは、休みの日にはいつもデートするんですか」
「たまに会うだけだよ。せいぜい日曜日に会うくらいかな」
佳子との親密な仲を知らせるべきなのに、僕はそのことを隠そうとした。そんな自分を意識して気持ちが少しかげった。
地下鉄駅の改札口を入ったところで、僕たちは再会を約す言葉を口にして別れた。僕たちにはその日が二度目の出会いだったが、ふたりをつつむ雰囲気は、すでに親密なものになっていた。僕は心の隅でふわふわと揺れるものを抱えて家に向かった。
家に帰り着くとすぐに自分の部屋に入った。家族の者としゃべったり、テレビを見たりするよりも、ひとりで静かにしていたい気分だった。
腹ばいになって夕刊の見出しを追っていると、別れぎわに絵里が口にした言葉が甦ってきた。演奏会のことを感謝したあとで、絵里は「迷惑でなかったらですけど、ヘッドホンを買うときに、松井さんに相談にのってもらえたらと思って」と言った。僕は「遠慮しないでなんでも相談しなよ。迷惑だなんて少しも思わないから」と答えた。僕は思った。絵里はこれから、いろんな相談を持ちかけてきそうな気がする。あの笑顔で頼まれたなら、応じないわけにはいかないだろう。喫茶店でのひとときが、絵里の笑顔と声を伴って思いだされた。
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