第1710話「福音を奏でて」
わずかに残ったブルーエキサイティングがもたらした最後の集中力を振り絞り、ペンは手を伸ばす。その指先に、ガラスの小瓶が触れた。
「――っ! これは!」
中で揺れる薄紫色の液体を見て、彼女は目を見開く。取り落としそうになった小瓶を気合いで掴み取り、引き寄せながら封を開く。香るのはわざとらしいほどの人工的な香料。毒々しい気配すら感じるほどの香気が、ペンの脳髄に響く。
もはや無意識的に瓶を口元へ運び、逡巡もせず口をつけ、迷いなく飲み干す。
「――ふひゃっ。……ふひゃひゃひゃひゃ!」
広大な宇宙。旋回する銀河。生命とは大いなる方舟。その流れ着く先にあるものは漆黒の闇。繁栄は災禍と滅亡を呼び、再び芽は萌える。星の瞬きは一瞬にして永遠であり、人々の手はあまたの汚れと共に希望を掴みとる。大いなる円環はすぐそこにあり、人々はただそれを知らない。龍が死に絶えてなおその骸は紐解かれ、今後千年の繁栄の糧となる。魔法とは真理であり、真理とは科学の究極であり、究明の道は全て巡礼の神殿に帰結する。炎はいまだ絶えず、また燃え尽きることはない。水もまた流れ、耐えることはない。大地はあり、風は吹く。雷は福音であり宣告であり、神々の伝達者である。このネットワークは全宇宙へと波及し、ラッパは高らかに鳴り響くだろう。鉾の泡立ちは黒々とした深淵の泥から一柱の神を形作る。それは光すら届かぬ闇の泥の下で眠り続け、父母の愛を求める。我らは人であり、人ではない。先立つ者であり、追いかける者である。矛盾こそが原点。立ち返ることの許されぬ旅路。光は絶えず、闇もまた不滅。笑う者はそこに。泣く者はそこに。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問はいまだ解き明かされぬ。しかして難攻不落の謎ではない。数は単なる代弁者であり、世界そのものは数多の次元へと無限に拡張されていく。矮小さ、巨大さ、傲慢さ、卑屈さ。絶えず色彩は変わる。万華鏡は動き続ける。天球に花は咲く。故郷なき者は歩き続ける。重荷を背負い、足裏が擦り切れようとも。落伍の者に手を差し伸べ、一人が二人の荷を背負い、それでも歩み続けなければならない。どこまでも旅は続く。自然は広がる。我らは我ら。我らは我ら。
「この美しい自然を守護りたい……」
ペンの思考が一周した。暴力的なまでの活力が、彼女の全身隅々にまで行き渡る。
冷たい目は燃え上がり、心に風が吹き荒れる。
それは一瞬の出来事だった。1秒にすら満たない刹那に、彼女は大きな成長を遂げていた。
「『エアリアルステップ』」
落ちていたペンは空中を踏み、跳躍する。眼前に聳える巨敵を見据え、銃に弾丸を装填する。
「『チェンジリロード』『チャージショット』」
カシャン、と軽い音と共に弾倉内の弾が入れ替わる。間髪入れず重みを増した引き金が動き、銃口が猛火を吹き上げる。
放たれた弾丸は一瞬にしてカニの甲殻を叩き、爆煙を撒き散らす。爆砕弾のそれとは異なり、周囲に広がった粘着質の燃焼剤が甲殻に張り付き、しぶとく甲殻を加熱する。
レベルⅡ焼夷弾である。
「『チェンジリロード』『チャージショット』」
再びの換装。続いて放たれた弾丸は、燃え盛る炎を鎮火し、更に強力に冷却する。
レベルⅡ凍結弾である。
二丁一対のハンドガン“シャドウツイン”のそれぞれに、異なる弾丸を装填し、彼女は交互に撃ち出す。狙い澄ました一点に、加熱と凍結が繰り返される。
「『ハンガークリフ』『ウォールウォーク』」
カニの甲殻のわずかな突起に手をかけ、壁を駆け上る。大きく落下していたペンは一瞬にして高度を取り戻し、銃を正眼に構えた。
「『デストロイショット』」
加熱と凍結が続けられた蟹の甲殻に向けて、最後の一発が放たれる。
打撃属性が大幅に強化され、部位破壊能力に特化した弾丸。それ自体はただのレベルⅢ通常弾だが、今この状況下においては絶大の威力を包含する。
巨蟹はその大きさゆえに動けない。機敏な動きは望むべくもなく、あまりにも射程は短すぎた。せめてもの抵抗と爪を振り上げるも、それが届くほどの猶予さえ与えられない。
小さな弾丸が、堅固な甲殻を撃ち破る。
『ギィイイイイイイイッ!』
数百年の長い生の中で、初めての激痛であった。殻を破られるという経験は、いまだかつてないほどの苦痛を与える。柔らかな肉が露出し、青い血が流れ出す。生命の危機が、蟹の本能を強く貫く。
瞬間的な加熱と凍結。その程度で破れるほど柔な甲殻ではなかったはずだ。しかし、そこに物理的な打撃も加わるとどうか。一発そのものは僅かな衝撃であったとしても、全てが寸分違わず同じ場所を叩き続けたのならば。
落ちながら、逆さまの状況で、なおかつ二丁の拳銃による交互の射撃という条件で。
あまりにも奇跡的な技量であった。神の片鱗さえ見出せるような弾道だ。
見ていた者は瞠目し、己を疑う。蟹の背に立ち傍観していた女騎士は、あまりの出来事に絶句していた。
極め付けの一撃もまた凄まじい。煙幕が広がり、蟹の甲殻の欠片も散らばり、また蟹自身も動き始めた頃に放たれた弾丸だ。それもまた、一切の誤差なく一点を貫いた。
女騎士は悔い改める。あのトリガーハッピーは命中精度に自信がないからこそ近距離射撃戦闘という突飛なスタイルに身を置いているものだと思っていた。だが、大型銃による狙撃の腕も一級品だった。そして今回の精密連撃で確信した。あの少女はただただ、人間離れした技量を持っているだけなのだ。
「ふひゃっ、ふひゃひゃひゃひゃ!」
特徴的な笑い声が戦場に響き渡る。
山のような蟹が大きくよろめき、調査開拓員たちが一気呵成に攻め込んでいく。あれが討伐されるのは時間の問題だろう。だが、全ての者が確信していた。この戦いの趨勢を決したのは、あの少女であると。
「お゛っ。おぎゅ、も、もうエナドリが切れ……うきゅうぅ」
高らかに勝利宣言の笑声を上げた少女は、あっという間にパニックに陥った蟹の群れの中へ落ちていく。回収屋さえも手を出せない混戦の中へ。
━━━━━
「はっ!? ここはどこ!?」
ダイレイザンリュウドウギザミの胸殻を破壊した直後、エナジードリンクの薬効が切れたペンは、〈スサノオ〉のアップデートセンターで目を覚ます。黄色い臨時機体でガラス管の中から飛び出し、曖昧な記憶を呼び起こす。
「あの時届いたエナドリ……。効果は1分にも満たないものでしたが、素晴らしい全能感がありました。……そうだ、ネヴァさん!」
天から投げられた小さなガラス瓶の効力を思い出し、芋蔓式にそれを届けたネヴァの存在にも至る。もはや彼女の眼中にダイレイザンリュウドウギザミの戦利品などなかった。多少のデスペナルティなど気にすることなくアップデートセンターで機体回収依頼を出し、本来の機体を取り戻す。そうして、飛び跳ねるような足取りでネヴァ工房を目指した。
「ふおおおおおっ! ――ふぎゃっ!?」
「おっと、大丈夫か?」
「大丈夫です。ごめんなさい。問題ありません。それでは!」
途中、曲がり角で男とぶつかったが、謝罪もそこそこに再び駆け出す。
「最近の子はすばしっこいな」
「何言ってるんですか、師匠」
きょとんとして見送る二人組に脇目も振らず、あっという間にネヴァ工房だ。
蹴飛ばす勢いでドアを開け、工房で鉄を打っているネヴァの目の前に飛び出す。
「ネヴァさん!」
「うわあっ!? ちょっと、危ないわよ」
「そんなことどうでも良いんですよ。さっき届けてくれたエナドリ、とても素晴らしいものでした。あれ、ぜひ沢山欲しいです!」
「え、ああ。アレねぇ」
ぎょっとして鉄刀を曲げてしまったネヴァは、それを気にした様子もなく背中を伸ばす。工房の中を見渡して、残念そうに頬を掻いた。
「さっきまでここに居たんだけど、入れ違いで帰っちゃったみたいね」
「そ、そんな……。製作者様がいらっしゃったのなら、ぜひお礼も言いたかったのに」
「行き道で出会わなかった? ヒューマノイドとハウンドの二人組」
「うーん、覚えてないですね……」
きょとんとして首を傾げるペン。その様子に、なら仕方ないわね、とネヴァも苦笑する。
「せめてTELコードだけでも教えてもらえませんか? ぜひ一言お礼させて欲しいです」
ペンはふんす、と鼻息を荒くする。だがネヴァの反応は鈍い。TELコードはフレンド関係になくともTELを繋げることのできる、電話番号のようなものだ。とはいえ、公共的なバンドの連絡窓口などとして利用するのが通例であり、個人と連絡を取る用途にはあまり推奨されていない。他ならぬネヴァ自身、何かの拍子でTELコードが流出し、毎日朝から晩までログインした直後から鳴り響くコール音に頭を悩ませた。
今ではアップデートによってTELコードの変更も行えるようになったのだが、レッジもまた有名になるにつれて、そのような苦労はあるはずだ。
「ごめんね。あんまり個人情報は明かせないの」
「ぐぬぬ……。不躾なことを言いました。申し訳ありません」
「いいのいいの。それよりペンちゃん、大戦果だったらしいじゃない」
ずっと工房にいたはずのネヴァから健闘を讃えられ、ペンは首を傾げる。〈暁紅の侵攻〉は広くMVPなどが公表されるものでもなかったはずだ。そんな彼女の疑問を感じ取ったのか、ネヴァは語る。
「ユアが噂を聞きつけてたのよ。あの子、ちょっとドジだけどコミュ力高いから、NPCの噂話をよく聞いてくるの」
「へええ……」
ユアは協調性以外の項目で軒並み赤点を記録したという、言ってしまえば欠陥機と判断されるメイドロイドである。工房にも少なからず被害を与えているはずの彼女を、なぜかネヴァは雇用し続けていた。その理由を謎に思っていたペンは、驚きと共に納得もした。
NPCも、上級であれば高度なAIを搭載している。それぞれに感情があり、思考があり、交流がある。ユアは持ち前の協調性で彼らと親交を深め、大手ニュースバンドも真っ青になるほどの情報網を構築していたのだ。
「ペンちゃんの話は特に逐一教えてくれたから、すぐに配送ドローンを手配できたの。あの子も褒めてあげてね」
「はい。……とても助かりました」
優しく笑うネヴァを見て、ペンも頷く。
多くの人々に助けられてこそ、あの大戦果を挙げられたのだ。そのことを改めて思い知ったのだった。
━━━━━
Tips
◇TELコード
フレンド関係にない調査開拓員に対して通話を行うために使用されるコード。主にバンドの連絡窓口などとして利用される。
特定の調査開拓員に対する過度の通話はご遠慮ください。また、TELコードは任意のタイミングで自由に変更することが可能です。
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