8月21日SS
世に広くその名を知られる世界的大企業複合体、清麗院グループ。その傘下にあり、長い歴史のなかで多くの女傑を輩出してきた名門、清麗女学院。小中高大の一貫校でありながら、外部からの優秀な学生も積極的に迎え入れる柔軟さを両立することで、文武両道を体現している。もちろん、広く門戸が開かれているとはいえ、その倍率は凄まじく、毎年熾烈な受験戦争が繰り広げられ、無事に入学できるのが一握りの才媛に限られることは周知の事実だ。
清麗女学院高等部においても、エスカレーター式に中等部から進学してくるお嬢様たちは、受験に勝ち抜いて入学を果たした外部生の存在を無視できない。学舎という一種のモラトリアムの内側においては、学園長でもある清麗院家当主の意向もあり、身分の垣根は取り払われる。学業や学校生活での評価こそが唯一にして絶対の指標であり、それは内部生も外部生も、一切の忖度なく計られる。
そんなある意味で残酷なほど正確な判定において最高位の評価を受けた者のみが名乗ることを許される、全校生徒の規範として讃えられる存在こそが、清麗女学院生徒会長であった。
「はー、めっちゃ暑い……。なんなの最近の気候は。異常気象よ。そのうち校舎も解けるんじゃない?」
そして8月21日の昼下がり。当代の生徒会長を示す金百合の徽章を胸元に飾った少女が、とても他の生徒には見せられないようなだらけ切った姿勢で執務机に項垂れていた。
清麗女学院の生徒会室ともなれば、その設備も申し分ない。どこのホテルのホールかと見紛うような、重厚な調度品を取り揃えた室内は、学院の誇り高き歴史そのものを体現している。
より正確に表現するならば、老朽化の進んでいたエアコンがぶっ壊れた。
「天下の清麗でエアコンぶっ壊れてサウナ状態とか、どういうことなのよー」
白い頬と額に玉粒の汗を滲ませて、黒髪の少女は嘆く。
開け放たれた窓からは微風すら吹き込まない。情け容赦のない灼熱の熱波が陽光というドレスを纏って濁流の如く舞い込んでくるだけだ。
あまりにも無防備な姿を晒す生徒会長だが、それを咎める者はいない。そもそもこの時期は夏季長期休暇に指定されており、校舎から離れたグラウンドから運動部員たちの溌剌とした声が輪郭も有耶無耶にして聞こえる程度のものだ。
「せめて扇風機が欲しい。氷が一瞬で溶けるとか、マジきつすぎ」
窓を開け、廊下に向かって扉を開け放っても、焼き石に水。生徒会室備え付けの冷蔵庫では全力で製氷機が稼働しているが、在庫はすでに少女の手元のグラスで液体と化している。
エアコンが贅沢品から必需品へと認識を改められて久しいこの時代。なぜこの炎天のなか、風通しの悪い校舎内で全校生徒の頂点が汗水垂らして呻いているのか。
第一の理由としては、無駄にデカい部屋に合わせた特注のエアコンは専門の業者を呼ばねば修理ができず、今朝方壊れたばかりでは即日手配というわけにはいかなったから。
第二の理由は、機密保持の観点から生徒会室外に持ち出せないPCでしなければならない仕事があったから。
「あー、はよ終わらせてFPOしたい……。ととっ!」
怨嗟の滲む声を低く響かせていた生徒会長は、机上につけた耳に伝わる微かな足音を察知し、慌てて背筋を伸ばす。額の汗を拭い、緩めていた胸元を整えた。その直後、開け放たれた扉が控えめにノックされ、一人の生徒が現れた。
「こ、こんにちはぁ」
「いらっしゃい。講義お疲れ様」
扉の影からおずおずと顔を覗かせたのは、柔らかそうな髪を肩のあたりで揃えた童顔の少女だ。心なしかぐったりとしていて、胸の前にタブレットを抱えている。胸元のリボンの色から、一年生であることがわかる。
「はええ……」
「ずいぶん疲れたみたいね」
入室した女子生徒を労いつつ、生徒会長はタブレットを受け取る。
夏季長期休暇中とはいえ、部活動はあるし、それ以外の校内行事というものもいくつかある。特別夏季集中講義はそのうちの一つであり、希望者を募った上でより専門的で高度な内容の講義を行っていた。系列校である清麗女子大学の教授が招聘されるなど、それなりに本格的な内容だ。
この夏季講義は生徒の要請によって始まったという歴史的な経緯から、現在においても生徒会がその運営を担っている。副生徒会長以下、生徒会幹部たちは各教室で実施されている講義の確認を行っているし、生徒会長はエアコンが壊れようが生徒会室にいなければならない。
この一年生のように、講義を終えた生徒が最終レポートを提出しにくるのだ。データだけならタブレット間でやり取りしてもいいのだが、生徒会長としてレポートの所感を述べなければならなかった。
「あなた、かなり優秀なのね。この講義はまだ最終テストの時間中じゃないの?」
「えへへ。早く終わっちゃったので、抜けてきました」
生徒会長が汗だくで油断していたのは、この時間には来訪がないと踏んでいたからだ。しかし、目の前の下級生はそんな彼女の予想を裏切ってやってきた。レポートを読んだ限り、講義の理解を放棄したというわけでもなさそうだ。
「レポートもしっかり書けてるわ。優秀ね」
「はええ。せ、生徒会長さんほどじゃないですよ」
率直な称賛に対し、少女は小柄な体をさらに縮めるようにして首を振る。
当代の生徒会長といえば、外部からの一般受験で入学を果たし、今日まで成績一位を逃したことがないほどの秀才である。そんな傑物に到底比べられるほどではない、と少女は腰を低くしていた。
「それに……今はちょっと早く帰りたくて」
「何か用事が?」
「はえっ!? そ、そういうわけじゃないんですけど……。ちょっとイベントというか、なんというか」
聞かせるつもりもなく呟いた言葉も、生徒会長イヤーは鋭敏に拾う。驚いた少女はばつの悪そうな顔で歯切れ悪く答えた。
「イベントねぇ。……私も早く帰りたいんだけど」
「生徒会長もですか?」
「そう。あ、他の生徒には内緒にしてね」
何故だろうか。その下級生と直接話したことはないはずだったが、生徒会長はすでに彼女に心を開いても良いと直感していた。まるで以前から交流のある友人と話しているような気持ちになるのだ。
生徒会長たる自分が早抜けしたいと言えば、それは役職にも罅が入る。慌てて念を押すと、少女はコクコクと頷いた。
「実は、FPOっていうゲームをやってるんだけど」
「生徒会長も!? ですか!」
少女が目を丸くして飛び上がる。
FPOというタイトルは世界的にも有名で、お嬢様学校として知られる清麗においてもプレイヤーは少なからず存在すると言われている。むしろ、運営会社が清麗院グループ傘下であることを考えれば、知っていて当然と言ってもおかしくはないかもしれない。
それにしても文武両道、才色兼備、博学多才と称賛されるトップオブ清麗こと生徒会長までもがプレイしているとは思いもよらなかったのか、少女は一転して鼻息を荒くする。慌てて取れかけた敬語を付け足すそのかわいらしい様子に、生徒会長も苦笑しながら頷いた。
「そうなの。てことは、早く帰りたい理由は一緒ね」
「そうなんですよ。早いところ海を渡りたいんですけど……」
「白玉を定期的に食べないといけないのは大変よね」
「そうですね。わたし、それ以外にもちょっと色々大変な体ですし」
「というか海まで来れてるってことは――えっと、空宮さんもかなりやってるのね」
「はええ!? いや、わたしは運が良かったというか、仲間に恵まれたというか」
タブレットに表示された生徒の名前をちらりと確認しつつ、生徒会長もFPO話に花を咲かせる。まさかこんなところで同志と出会えるとは、まさに晴天の霹靂とはこのことである。
すっかり室内のうだるような暑さも忘れて、しばし楽しい時間に熱中した。
「もしかしたら、あなたとゲーム内で会ってるかも」
「プレイ人口も多いですし奇跡的な確率でしょうけど、すれ違うくらいならしてるかもしれませんねぇ」
お互い、FPO内での名前は明かさない。リアルとヴァーチャルを下手に重ねることの迂闊さは、彼女たちも理解していた。
「それじゃあわたし、帰りますね」
「いいなぁ。私も早く帰りたいわ」
「生徒会長のお仕事、頑張ってください!」
講義の疲れも吹き飛んだのか、ニコニコと無邪気な笑顔で去っていく少女。その小さな背中を見送って、生徒会長はまた現実に向き直る。夏季講義の受講者は時間割通りの講義を終わらせれば帰路に就けるが、生徒会長はそうもいかない。
「ああ……レティさんに会いたい……」
すっきりと晴れた青空を恨めしげに見つめながら、生徒会長は小さく呟いた。
「そういえば今日はバニーの日じゃん。これを口実にレティさんに……じゅふふっ」
はたと気が付いた事実に、そのまま妄想が膨らむ。あっという間に生徒の鑑としての凛然とした姿勢は崩れ、風紀委員に連行されそうな表情で怪しい声を漏らし始める。
「かいちょー、こっち終わりましたよーって、またアホになってる……。せいっ!」
「あぎゃっ!?」
幸い、講義の確認を終えた副会長が戻ってきて彼女の頭をポカリと叩き、そのあられもない醜態が生徒に披露されることは回避されたのだった。
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Tips
◇現実世界の体調管理について
仮想世界没入中もVR機器によって現実世界のバイタルは常にモニタリングされています。室温を快適に保ち、適切な食事を摂った上で、楽な体勢であることで、より快適な仮想現実体験が行えます。没入中も空調設備を切るなどはせず、快適な環境の維持をおすすめします。
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バニーの日に出てこないメインヒロインの兎がいるらしい。
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