第1587話「悲しそうな顔で」

「イザナギ……なのか……?」


 裏世界の陸地に佇む影があった。耳元で直接囁かれたような鮮明な声には覚えがあったが、確証は持てなかった。

 黒い大地に立っていたのは大柄な龍だ。いや、半龍半人と言った方が妥当だろうか。蝙蝠のような翼を畳み、四本の太い足で立っている。長い尻尾を地面に這わせている。

 だが四本の脚で支えられた下半身から、人間らしい上半身に変化している。鱗で覆われた青白い肌の体で、腕には見慣れない、黒く螺旋を描く槍のようなものを抱えている。

 彼女の全身は陽炎のように黒い影が揺らめいており、輪郭も朧げだ。そんな姿となったイザナギがこちらに語りかけてくる。


『こっちには、来ないで。戻れなくなるよ』

「イザナギだよな。ちょっと見ないうちに様子が変わったか?」

『……来たらおしまいだよ。恐ろしいことになる』

「最近忙しくてなかなか会えなかったからな。ちょっと心配だったんだ」

『…………』


 陸に向かって大きく手を振ってみる。なぜか返答が返ってこなくなってしまった。こっちの声は聞こえていないのだろうか?


『もしかして、私の声は聞こえてない……?』

「い、いえ。レティにはちゃんと聞こえてますよ」

『なんでパパはいつも通りなの?』

「なんででしょうね……」


 しまいには俺を置いて、レティと話し始めるイザナギ。見た目からして色々あったのだろうし、近況を聞きたいのだが。やっぱり直接話せる距離まで近づいた方がいいのだろうか。


「レティ、俺もボートに乗れるか?」

「ちょっとレッジさん。今そういう話の段階じゃなくないです!?」


 ついにはレティが怒り出す。ぼ、ボートには乗れないのだろうか……。


「まずはイザナギが完全にドラゴンど真ん中になっちゃってることを気にした方がいいんじゃないですかねぇ!?」

「そう言われてもな……。もとから翼やら尻尾やら生えてたわけだし、あれくらいはなるんじゃないかと」

「女の子は変わったところを直接言ってもらいたいんですよ! 分かります!?」


 なぜ俺はレティに叱られているのだろう。そして、なぜラクトたちが深く頷いているのだろう。


「あー、えー。イザナギ、ちょっと雰囲気変わったな。かっこいいと思うぞ!

『……ありがと。――じゃなくて、こっちに来てはいけない。戻れなくなる』

「どういうことだ?」


 イザナギ(龍のすがた)は赤い光の宿る瞳でこちらを見ている。ただ泰然と佇んでいるように見えるが、いつでも動けるように構えているようにも見えた。


『ここは境界線の上。彼岸と此岸の狭間。すべての輪郭が交わる土地。長く止まると、元の世界に戻れなくなる。そうなる前に、帰らないといけない』

「そうか……。なんとなく、そんな雰囲気は感じてたんだ」


 道中に出てきたホロウフィッシュや、海そのもの。霊体だけが表世界からも干渉できるという事実。それらを総合してみれば、誰でもある程度の予測は立てられる。それでも、いざ実際に言われると、少しテンションが上がるな。


「それで、イザナギはなんでこんなところにいるんだ?」

『私は、ここでするべきことがある。だから、パパたちは早く帰って』

「そう言われてもな。こっちも帰る方法が見つかってないんだ」


 イザナギは少し沈黙する。


『……大丈夫。ここでは、全てが反転する。ここで動けなくなれば、向こうで動けるようになる』

「お、そうなのか。自殺を試すのは最後の手段だと思ってたんだが、それが正解だったんだな」

『……』


 カミルやクチナシもいる以上、死を試すのは大きな賭けになる。そうでなくとも、試すには色々とリスクが伴う自殺はなかなか実行に移せなかった。しかしイザナギが教えてくれたおかげで、ひとまず安心はできた。


『だから、早く……』

「イザナギはどうするんだ?」


 なぜか分からないが、ずっと拒絶の姿勢を取り続けているイザナギに、その理由を尋ねる。俺たちを何かに巻き込まないようにしているようにも見える。そのために自ら敵対者のような雰囲気を出して、追い返そうとしている。

 謎の多い存在ではあるが、彼女は決して悪ではない。そもそも調査開拓団の一員、仲間であることに違いはないのだ。


「何をするのかは知らないが、手伝えることがあるならなんでも言ってくれよ。面倒ごとは手分けして片付けて、さっさと一緒に帰ろう」

『それは……できない』


 イザナギは搾り出すように言う。首を左右に振り、槍を抱きしめる。


「申し訳ないけどな、イザナギ。巻き込みたくないとか、危ないからとか、申し訳ないとか、そういうのはあんまり関係ないんだ」


 先ほどから何か勘違いしてそうなイザナギに、率直な言葉をぶつける。


「姿が変わったことはもちろん気付いてたさ。何かあったのかと心配もしてる。そもそもどうやってここに来たんだと疑問も抱いた。それよりも、何よりも、君が悲しそうに決意している顔が気掛かりなんだよ」

『悲し、そう?』


 自分では気付いていなかったのか、驚くイザナギ。悲壮な決意を秘めた目でこちらを見られたら、そりゃあ心配するだろう。泣きそうになりながら、それでも唇を噛み締めて涙を堪えているような顔をしていたら、助けになりたくなる。

 彼女が何をしていて、何をしようとしているのかはこの際関係ない。

 俺たちにできるのは、彼女と一緒の方向へ歩むことだけだ。


「なんでも言ってくれよ。可能な限り、なんでもやるから」


 彼女の瞳が揺れる。赤く染まっていたそれが、わずかに元の色を取り戻した。

 けれど、すぐにかぶりを振り、槍を握り直す。


『……ごめんなさい、パパ。――もう、ここにはこないで』


 直後、漆黒の影が俺たちを、二隻の船ごと俺たちを包み込む。


「お?」


 それがなんなのか理解する間もなく。――俺たちは裏世界から消えることとなった。


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Tips

◇██████

 食べる。飲み込む。噛む。砕く。舐める。味わう。喫す。啄む。齧る。頬張る。嚥下する。漁る。含む。たいらげる。

 ぜんぶのこさず。いただきます。いただきます。


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