第1561話「恵みの慈雨」

 小さな体が水槽に叩きつけられ、大波が立ち上がる。冷たい飛沫が周囲に広がり、水槽を囲むウェイドたちの髪を濡らした。


『ミート!? 何をやっているんですか! エンジェルの言葉を理解しろと言ったはずです!』


 突如殴り合いを始めたミートとエンジェルに、ウェイドが目を丸くする。彼女のプランは早々に破綻していた。

 鋭いヒレの一打で水槽の強化アクリルガラスに打ち付けられたミートは、即座に動いて追撃を避ける。強靭な尻尾の一撃は華麗に躱し、肉薄して拳を叩き込んだ。エンジェルの鱗が細かく剥がれ落ち、甲高い悲鳴が上がる。

 水槽の中では水が渦巻き、盛大にこぼれ始めていた。


「まずい! このままだと水槽が保たない!」


 強化アクリルガラスは数十トンの衝撃にさえ耐えるように設計されている。だが、アストラは即座にそれが風前の灯であることを察した。分厚いアクリルガラスに白い亀裂が入り始めていたのだ。

 彼の声でウェイドもハッとして、慌てて土木建築用NPCを呼び寄せる。


『みなさん、丸太を持ってきてください! まずは水槽の補強を――』

「全員、制御区画から退避しろ!」

『は? え?』


 ウェイドの指示が全体に通達されるよりも一足早く、アストラの堂々とした号令が下る。調査開拓員たちはすでに待ち構えており、早速スタコラサッサと逃げ出している。

 取り残されているのは、自身も手近なところに積まれていた建材の丸太を抱えようとしていたウェイドだ。


『ちょ、ちょっと待ってください! このままだと水槽が壊れちゃいますよ!』

「だから逃げるんですよ。ウェイドさんは制御区域の隔壁を起動してください」

『はああっ!?』


 都市は非常時に備え、区画ごとに隔壁が用意されている。それは展開すれば高さが五メートルほどにもなる頑丈な装甲壁であり、普段は地中に隠されているものだ。展開には多少の時間がかかるため、もはや一刻の猶予もないとアストラが急かす。


『いや、だから、水槽の補強をですね……』

「それじゃ間に合わないんですよ。見てください」


 アストラが、激闘の渦中を指で指し示す。ミートとエンジェルの格闘は熾烈を極め、ざぶんざぶんと大きな波が立っている。そのたびに水が水槽の外に飛び出し、地面を濡らしている。

 気がつけば、水嵩は大きく減っていた。


『てやあああいっ! うわわっ!?』


 ミートが拳を叩きつける。それはエンジェルの懐を抉る猛烈なパワーを秘めていた。

 だが、彼女は逆に吹き飛ばされ、エンジェルは無傷で立つ。

 ミートの拳が水から出てしまったことで、障壁が復活したのだ。


「エンジェルは水中でなければ攻撃が入らないんです。ミートが自由に戦えるように、戦場を広げないと」

『そ、そんなこと言われてもですね……』


 ――ウィイイイイイイイイイ


『うわーーーっ!? な、なんで隔壁が勝手に上がってるんですか!?』


 なおも渋るウェイドを他所に、都市の隔壁が起動しはじめる。その上、中枢制御区域内の排水システムは全て閉栓されてしまう。指示した覚えのない挙動に目を丸くさせるウェイドは、すぐに都市システムへのアクセスログから名前を見つけた。


『レエエエエエエエエエエッジ!!!!??? あなた、何を勝手に、ていうかどうやっって、あああああっ!?』


 隔壁起動の命令者はウェイドである。だが、彼女自身がそれを否定している。ならばどうか。精査するとシステム内に巧妙に偽装された異常なプログラムが見つかった。ニックネーム〈眠る男〉、それが誰を表すのかウェイドはよく知っていた。


「とにかく、隔壁が上がりきると俺たちも脱出できなくなります。さあ、行きましょう」

『待って、待って! これはちょっとあんまりですよ! 私の町が!』

『ほらウェイド。早くするのじゃ!』


 おろおろと狼狽えるウェイドに向けて、すでに脱出を果たして隔壁の上に登ったT-1たちが手招きをする。悩んでいる間にも隔壁は上がり続ける。ウェイドは逡巡ののち、意を決してアストラの手を取った。


「総員、退避! レティさん、バルブ全開で水を供給してください!」

「お任せあれ!」


 ぴょこんと飛び上がるレティ。彼女はひとっ飛びに送水管の元へと向かい、大量の水を堰き止めていた止水栓をハンマーでぶっ飛ばした。

 消防車が水を吐き出すように、白い飛沫をあげて滂沱の水が流れ出す。隔壁に区切られた中枢制御区域に、浅く水が溜まり始めた。


「まだ水位が低すぎる……」

『ああ、私の町が……』


 隔壁の上に避難したアストラは、憔悴するウェイドを降ろして戦況を見つめる。

 ミートとエンジェルの戦いは激しく、水槽の崩壊は間もなくだろう。だが、水の供給量が容積に見合っていない。このままでは浅瀬で相手することになる。


「『止めどなく、雨粒絶えず降り頻る、篠突く音の激しき驟雨』」


 その時、突如制御塔の周囲に黒雲が立ち込めたかと思うと、バケツをひっくり返したかのような激しい雨が降り始める。視界が曇るほどの強烈な雨に、周囲からどよめく声がする。

 アストラが見つけたのは、隔壁の上で水色のエフェクトを放つ少女だった。


「水ならなんでもいいのかは分からないけど、ウチもちょっとは役に立ちたいからね」


 ニコニコと笑うメル。彼女の隣で、〈七人の賢者セブンスセージ〉の水属性担当であるミオが凄まじい機術を解き放っていた。

 おそらくGB級の大規模機術である。とうてい一人では維持できるはずもない。よくよく見てみれば、薄く瞳を閉じて集中するミオの背後には、彼女の仲間たちが立っていた。


「仲間のLPを共有しての機術発動ですか。それにしても凄まじい……」


 アストラが見ている間にも水位が急激に増していく。機術由来の雨水がどれほど効力を発揮するのかは不明だが、とにかく水は増えている。


「これなら――」


 アストラが拳を握りしめたその時。

 鋼鉄を捻じ曲げる凄まじい暴力の音が響き、アクリルガラスが粉々に砕け散る。吹き飛んだのは、エンジェルだった。


『キィイアアアアアッッ!!』

『負けないからね! どんどんかかって来い!』


 ついに崩壊した水槽。荒波が広がり、やがて水嵩を増して落ち着く。

 激音と共に水面を叩く豪雨のなかで、エンジェルとミートが対峙する。両者は軽く息を整えたのち、体に絡みつく雨すら意に介さず、機敏な動きで激突した。


『ほぎゃああああっ!』


 ウェイドが凄まじい悲鳴をあげるなか、第二ラウンドが始まる。


━━━━━

Tips

◇区画閉鎖隔壁

 地上前衛拠点スサノオをはじめ各都市に標準的に配備されている都市防衛設備。都市内部を区画ごとに隔離し、敵の侵攻を抑える役目を持つ。都市防衛における最終防衛ラインともなる重要な存在。

 そのため常に最新の技術を用いた堅牢性の高いものへと更新されており、その防御力は非常に高い。

“予算度外視の防御力ですからね。たとえマシラが思い切り殴ったって傷ひとつ付きませんよ!”――管理者ウェイド


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