第771話「甘い甘い夢」

 ラクトは広場の片隅に置かれたベンチに腰掛け、露店で買ったハニーミントレモンスカッシュを飲んでいた。洋上に浮かぶ巨大なプラントである海洋資源収集拠点シード02-ワダツミだが、優秀な消波装置のおかげで揺れる気配も感じない。空に漂う雲を眺め、彼女はぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。


「どうしようかなぁ……」


 彼女はレモンスカッシュの透明なプラカップをベンチの座面に置き、ぽつりと呟く。周囲のプレイヤーは彼女の存在すら気付いていない様子で、楽しげに談笑しながら、または焦り顔で足早に流れていく。ラクトは悶々とした気持ちをため息に乗せて、ゆっくりと吐き出した。


「後回しにしていいよとは言ったけど、まさかここまで時間が空くなんて」


 ラクトはカレンダーアプリを開き、そこに書きこまれた予定を確認する。彼女自身のものではない。レッジが先の一件で拘束されている時間が記されたものだ。惑星イザナミの時間に準拠しているとはいえ、間断なくびっしりと詰まっている。

 アイから始まり、〈七人の賢者セブンスセージ〉の面々、そして彼女たちと起こした通称“火の鳥事件”の対応、レティたちとも半日ずつ過ごしている。ラクトが遠慮しているうちに次々と予定が詰め込まれ、ずるずると先延ばしにされてきた。

 その結果、彼女は今更どうすればいいのかと悩んでいるのだった。


「一日って、結構長いよね」


 ボスの猪を倒し、結果を知った時には喜んだ。けれど、十分な時間が空いて冷静さを取り戻してくると、その長い時間をレッジと二人きりで過ごして平気でいられる自信がなくなってきた。

 同じバンドの仲間として、これまで幾度となく共に遊んできた。けれど、それとこれとはまた別問題なのだ。

 ラクトも気合いを入れてお洒落な洋服を選んでみたり、町の観光スポットを調べてみたり、色々と思索を巡らせた。けれど、どれもいまいちしっくりとこない。自分が何をしたいのか、レッジと何がしたいのか、それが彼女自身分からなくなっていた。


「うーん、やっぱり棄権しちゃおうかなぁ」


 思考が詰まり、何も考えられない。ラクトは眉間に深い皺を寄せて唸り、そしてはたと気がついた。


「――そっか。別にレッジじゃなくてもいいのか」





「――それで、レティが選ばれたと」

「ごめんね。わざわざ予定開けて貰っちゃって」


 〈ミズハノメ〉商業区画の一角、女性に人気のパンケーキ専門店〈フラワーサン〉のテーブル席に、ラクトとレティが対面して座っていた。

 ラクトはバナナとチョコソースがトッピングされた二枚のパンケーキを、レティはベリーとバナナとリンゴとホイップクリームと漉し餡と抹茶アイスと白玉がトッピングされた十枚のパンケーキを食べている。

 ラクトが一日拘束権を使って指名したのは、レッジではなくレティだった。その話を伝えた時、レティは驚いたものの快くそれを了承した。


「いいですよ。どうせ、バリテン打ち上げか猪狩りに出掛けるつもりでしたから」

「まだバリテン打ち上げやってたんだ……」


 軽い調子で言うレティにラクトは苦笑する。

 〈奇竜の霧森〉のボスエネミーである“饑渇のヴァーリテイン”も、もはや調査開拓員たちのおもちゃである。特定のコンボでテクニックを連打することで、加速度が爆発的に上昇し、宇宙の果てにまで飛んでいくバグは修正されたものの、未だに根強い人気がある。


「遺跡島はレティたちが行くにはまだ早い感じがしますからね。……それよりも、どうしてレッジさんじゃなくてレティを?」


 レティは分厚いふわふわのパンケーキにたっぷりのクリームを乗せて、大きな口で丸呑みにする。もぐもぐと咀嚼し、幸せそうな顔をしていた。


「その、今更レッジと二人で何をしたらいいのか分かんなくて」


 ラクトがもじもじとしながら答える。


「贅沢な悩みですねぇ。さすが、指輪を贈られるだけありますよ」

「そ、それは違うじゃん! 指輪じゃなくてネックレスだし……」


 じっとりと湿った目を向けるレティに、ラクトは慌てて返す。彼女の首元には、ネヴァに修理してもらった指輪のネックレスが輝いている。レティはいじけた様子で唇を尖らせた後、ふっと表情を緩めた。


「ま、分からない訳じゃないですよ。レティもそう言う経験はありますから」

「そうなの!?」


 ラクトは目を丸くして驚く。

 彼女のレティに対する印象は、活発ながらも動きの端々に育ちの良さが垣間見える少女だ。まさか、そんなレティが恋愛経験も豊富だったとは知らなかった。


「今まで何人くらいと付き合ってきたの?」

「え゛っ。……そ、そうですねぇ。数えたこともありませんよ」


 純真な瞳を向けてくるラクトに顔を引きながらレティは答える。彼女の赤い瞳が揺れていることに、ラクトは気付かない。


「……恋愛小説って、カウントしてもいいんでしょうか」

「レティ?」

「何でもないですよ!」


 ぼそりと呟くレティの口元は、高いパンケーキの塔が重なって隠れてしまう。レティは勢いに任せて首を振り、じんわりとした後悔に泣きそうになった。


「知らなかったなぁ。てっきり、レティは今までそういうの経験してないと思ってたよ」

「あ、あはは……」

「わたし、リアルだともっさりしててそういうのとは全然縁がなかったんだよね。男の人と話すこともほとんどなくて」

「そうですかぁ」


 同じである。

 レティも財界の社交パーティや清麗院グループの集まりで男性と話す機会は度々あるが、相手は父親よりも年上の者がほとんどであるうえ、外向きの仮面を着けた上での談笑ばかりだ。学校も最初から最後まで清麗院系列の女子校だった。彼女が本来の意味で異性と接した経験は皆無と言って良い。


「どうりで最初からレッジとも仲が良かったんだね」

「ははは……」


 距離感が掴めなかっただけである。

 そもそも、レティとレッジの邂逅からして、彼女が空から降ってきたというものだ。あの時も内心では焦りすぎて、強制ログアウトしてしまうところだった。


「ねえ、レティ。レッジのリアルってどんな感じなのかな」


 ラクトは少し固い表情で切り出す。仮想世界で現実の話題はあまりマナーが良いとは言えないが、二人の関係だからこそ彼女も話したのだろう。

 レティは驚き、少し硬直する。そして、すぐに笑みを取り戻して口を開いた。


「きっと素敵な人ですよ」

「だ、だよね。わたしもそう思うんだ」


 そんなことは、〈白鹿庵〉のみならず、彼を知る者全てが確信していることだ。

 ラクトはレティの表情を窺い、温めていたことを口にする。


「いつか、オフ会を開いてみたいんだよね」

「オフ会、ですか?」


 レティが言葉を繰り返し、きょとんとする。

 彼女はその単語にあまり馴染みがないようだった。ラクトは頷き、続ける。


「リアルでね、皆と会ってみたいなって。あ、まだ全然、何も考えてないんだけどね。ぼんやりとだけ」

「……そうですね。レティも、ラクトやトーカたちに会ってみたいです」


 レティは少し儚げに笑み、頷く。

 まだ1年には満たないが、それなりの時間、苦楽を共にしてきた仲間だ。彼女もより彼女たちのことが知りたいと思うことはある。しかし――。


「リアル、ですか」


 レティの素顔を知って、皆はそれまでと同様に接してくれるだろうか。そんな不安が、拭いきれない。

 彼女は知っている。社交界で大人達が自身に向ける笑みの目的を。自分ではなく、清麗院家に向けられる顔の意味を。

 だからこそ、彼女はあらゆるしがらみから解放されたこの新天地へやってきたのだ。


「ごめんね、変なこと言っちゃって」


 黙ってしまったレティに、ラクトは申し訳なさそうに俯いて謝罪する。レティは慌てて手を振り、嫌だという訳ではないと言った。


「その、ウチの家庭が少し特殊でして……」

「そっか。まあ、そうだよね。トーカたちもまだ未成年っぽいし、ネットの知り合いと気軽には会えないよね」


 ラクトは頷き、この話は忘れて欲しいと言った。そして、湿った空気を振り払うように頭を揺らし、立ち上がる。


「ねえ、レティ。買い物に付き合ってくれない?」

「買い物ですか? 別にいいですけど」


 レティは首を傾げながら、残っていたカフェオレを飲み乾す。あれほどの存在感を放っていたパンケーキは、綺麗さっぱりなくなっている。

 相変わらず彼女の胃袋はどうなっているのだと呆れながら、ラクトは〈フラワーサン〉を出た。屋外に一歩踏み出すと、容赦のない陽光が降り注ぐ。彼女は目を細め、手で庇を作りながらレティを待った。


「それで、何を買うんですか?」

「ふふん。実は近々レッジの誕生日らしくてね。そのプレゼントを買おうかと」

「なっ!? そ、そうなんですか!? レティは全然知らないんですけど!」


 目を見開くレティ。ラクトは優越感に浸りながら、彼女を見上げる。


「やっぱり知ってたのはわたしだけか。ま、仕方ないよね。ふふん」

「なんか凄く煽りますね? レティ、予定を開けて今日一日付き合ってあげてるんですよ?」


 レティはぴくぴくとこめかみを痙攣させながら、笑顔を浮かべる。


「どっちがよりレッジに喜ばれる物を選べるか、競争しようか?」

「良いでしょう、受けて立ちますよ」


 不敵な笑みを崩さないラクト。レティは拳を硬く握りしめながら頷いた。


「そうと決まれば、トーカたちにも連絡しますか」

「レティ、そう言うところは律儀だよねぇ」


 早速フレンドリストを開き始めるレティに、ラクトは腰に手を当てて笑う。彼女にとってトーカたちもライバルであるはずだが、出し抜こうという発想はないらしい。


「フェアじゃないのは嫌いですから。それに、既にレティは秘策を思いついていますからね!」

「……一応言っとくけど、“プレゼントは私♡”みたいなのはナシだよ」

「なっ!? なんで分かったんですか!?」


 顎が外れそうなほど口を開いて驚愕するレティ。


「ほんとに恋愛経験豊富なのかなぁ」


 そんな彼女を見て、ラクトの胸に一抹の不安が過るのだった。


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Tips

◇〈フラワーサン〉

 海洋資源採集拠点シード02-ワダツミ商業区画にあるカフェ。ふわふわで分厚いボリュームたっぷりなパンケーキが看板商品。様々なトッピングを自由に選び、オリジナルのカスタマイズを作ることができる。


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