第89話「白い牡鹿」

「だんだん水場が多くなってきたわね」

「歩くだけでも一苦労ですよぉ」


 前を歩くエイミーとレティが浅い川辺に足を浸したまま言う。

 奥へ進むたび左右から集まるいくつもの支流が糸を紡ぐように絡まり、ゆるく流れる大河を形成している。

 陸地と言えるのは苔の張り付いた滑りやすい岩が僅かにあるだけで、ほとんどの場所を透き通った冷たい水が覆っていた。


「なあ、ラクト」

「なに?」


 ブーツに張り付いた水草を擦り取るエイミーたちを傍目に、俺はすぐ隣のラクトへ視線を下ろす。


「できれば裾を掴まないで欲しいんだが」

「なんで?」

「単純に歩きにくい」

「じゃあだめ」


 ぷいっとそっぽを向いて拒否するラクト。

 道幅が広がり、二人が並んで歩いても余裕が出てきたあたりから彼女は俺のジャケットの裾を掴んで放してくれなかった。

 いつものクールな様子もなりを潜め、どこか幼い彼女の行動は少し不可解だ。


「もう落ちるような段差もないだろ」

「足を滑らせるかもしれない」

「尻餅ついたってたかが知れてるって」

「レッジ怪我しちゃうじゃん」

「俺が転ぶ前提かよ!」


 てっきり杖にされているものだと思っていた俺は驚愕する。

 どうやら彼女は俺の胸ほどの背丈もないのに、俺を支えてくれていたらしい。


「そこのお二人さん、そろそろ先へ進みませんか」


 ドスの利いた低い声に思わず肩を跳ねる。

 振り向けば、ハンマーの柄に顎を置いたレティが目を三角にしてこちらを見ていた。


「くそう、ラクトは思っていた以上に強かですね。レッジさんもレッジさんですよ……」

「なんか言ったか?」

「何でもありません!」


 少し離れていることもあってレティの声が聞き取りづらい。

 しかし聞き直せば彼女もぷいっとそっぽを向いてしまった。

 何か悪いことでもしただろうか。


「はいはい、そこのお三方。いちゃつくのは結構だけど、周りもよく見て頂戴」

「い、いちゃついてなんて居ませんよ!」


 うんざりした様子でエイミーが手を叩き、注目を集める。

 彼女は耳を尖らせるレティを無視して、前方の薄く霧の掛かった奥を指さした。


「敵か?」

「エネミーね。魚じゃないけど」


 途端にパーティは臨戦態勢に変わる。

 レティがハンマーを構え、ラクトも袖を放して短弓に矢をつがえた。

 俺は写真を取ろうと腕を動かし、インベントリが空であることを思い出す。


「くそ、俺は役に立たないぞ」

「戦闘だといつも通りでは?」

「支援アーツも出せないんだよ!」


 レティの厳しい指摘に唇を噛みながら言う。

 それは彼女も予想外だったのか、はっとして難しい表情になった。


「そうでした。少し抑えないといけませんね……」


 彼女が開戦のプランを立て直している間に、向こうも俺たちの存在に気がついたようだった。

 ゆっくりと霧の中の影が濃く大きくなり、だんだんと輪郭が鮮明になる。

 そしてそれの姿が露わになったとき、俺たちは一様に目を開いて驚愕した。


「鹿……?」

「すごく綺麗だわ」


 前衛の二人が声を上げる。

 静かに波紋を流しながら現れたのは、透き通るような白い毛並みの牡鹿だった。

 大きさは現実のものよりも更に大きく、黒い瞳が俺たちを見下ろしている。


「水晶の、角……」


 ラクトが声を漏らす。

 その牡鹿の頭頂部から伸びる立派な角は、透明な結晶で構成されていた。


「……」


 張り詰めた空気が両者の間に流れる。

 神々しい牡鹿は静かに俺たちを見下ろし、俺たちもまた片時も視線を逸らさない。

 胸を押しつけるような圧迫感。

 川のせせらぎが清涼な風の中に溶け、一瞬で無限の時間が流れていく。


「……ッ」


 その瞬間、緊張していた糸がぷつりと切れた。

 突然に牡鹿は雰囲気を和らげ、空気はゆるく流動していく。

 足が石のように固く動かなかった。

 牡鹿は来たときと同じように、くるりと首を曲げて音もなく霧の中へ去って行った。

 弛緩する空気と共に、浅くなっていた呼吸に身体が酸素を求め始める。


「はぁっ、はぁっ」


 ファンが出力を上げ、背中の排気口から熱風が吹き出す。

 そんなことで今更ながらに機械の身体であることを実感し、思わず笑いがこみ上げた。


「なんだ、あれ」

「凄く神々しい鹿でしたね」

「一歩も動けなかったわ。悔しい!」


 エイミーが水面を踏みつけて歯がみする。

 身体が硬直してしまったのは俺だけじゃなかったようだ。


「ラピスみたいな石化を掛けられた訳でもなかったんですけどね」

「何かのイベントシーンだったとか? でもこのゲームそういうのないよね」


 堰を切ったようにレティとエイミーが言葉を重ねる。

 俺は傍に立つラクトが今だ一言も発していないことに気がついて、視線を下げた。


「ラクト、どうかしたか?」

「……すごく……綺麗だった」

「うん? ああ、そうだな」


 唇を微かに震わせ、ラクトは勢いよく顔を上げて詰め寄る。

 俺のジャケットをむんずと掴み、若草色の瞳を星のように輝かせ、白い頬を上気させる。

 彼女は大切な宝物を見つけた子供のように爛漫として、浮ついた声で捲し立てた。


「すごく、綺麗な角だった! 雰囲気もすごくすごく格好良かったよ! あれはただの原生生物じゃないよ。きっとボス的なアレだよ!」

「ぼ、ボス的な……。ラクト、なんか知能指数下がってないか?」


 本格的に彼女のテンションがおかしくなってしまった。

 俺は彼女を引き剥がし、しゃがみ込んで視線を合わせる。


「とりあえず落ち着け。まあ、多分ボスじゃないだろうけど、特別なエネミーだろうな」


 今までの流れを汲めば、ボスは鎧魚と称される何かであるはずだ。

 さっきの白い牡鹿がそれである可能性はあまり高くない。

 しかし、だからといってあれを普通のモブエネミーだと切り捨てることもできなかった。


「どうします? あの鹿、今度出会ったら倒します?」

「レティ、動けるのか?」

「レッジさんに言われれば意地でも動きますよ!」


 レティがよく分からない意気込みを見せて気炎を上げる。

 しかし俺はあまり気が進まず、見ればエイミーも同じような表情をしていた。


「なんとなく、アレは討伐するような存在じゃないと思うのよね」

「エイミーもそう思うか? なんか、今までのエネミーとは色々違う点が多すぎるんだよな」


 相対した時の押しつぶされるような存在感は、ボスでもない普通のエネミーが纏っていていいものではないはずだ。

 好戦的ではなく、その割に俺たちに興味を示す好奇心を持っているエネミーというのも初めて目にする。


「ラクトはどうおもう?」

「わたしは……。わたしも、あれは傷つけちゃいけないと思う」


 彼女は少し逡巡し、しかし確信を持って言う。

 しかしそのあとで彼女は更に言葉を付け足した。


「でもまた会いたい。会えば何か変わるような気がするんだ」

「何か変わる、か……」


 タイプ-フェアリーは身体機能を大幅に制限する代わりに、高度な知性を得た機械人形だ。

 もしかしたら、第六感や第三の目なんていう神秘の領域にさえ指先を触れているのかもしれない。

 彼女のはっきりとした言葉はそう思わせるだけの力を持っていた。


「とりあえず、何をするにしてもレッジの身体を捜してからだけどね」


 そこへエイミーが言葉を挟む。

 俺ははっとして苦笑する。

 そう言えば、最初の目的はそれだった。


「レッジさん忘れてました?」

「そ、そんなわけ無いだろ」


 レティの胡乱な目を避けつつ汗を拭う。

 機械のくせに汗をかくなんて、不要な機能なのでは。


「ほら、行きますよ」


 レティが前へ進みながら振り返って言う。

 くいくいとジャケットの裾を引っ張られ、ラクトが急かす。

 俺は慌てて彼女たちの背中を追って歩き出した。


「とりあえずは川に沿って、ですけど」

「川も随分広がったわねぇ」


 細かい砂の堆積した浅瀬を歩きながらエイミーが周囲を眺める。

 ごろごろと転がる巨岩の他には、すでにフィールド全てが川の中だ。

 心なしか霧も深まり、進路の先では微かに水の流れ落ちる音が響いている。


「れ、レッジさん!」


 先を歩いていたレティが大きな声を上げる。

 彼女の元へ追いつくと、水の音は更に大きくなった。


「この先、もしかして……」


 川の流れはだんだんと早くなっている。

 もはや水の中に足を置けば瞬時に絡め取られ流されてしまう。

 硬い岩の上によじ登り、滑らないように気をつけつつ進む。

 濃霧は飛沫に変わり、轟音が頭を揺らす。

 川を下った俺たちが見たのは、左右に大きく開けた雄大な景色。

 遙か下方には濃緑の森が広がり、激流となった大河は瀑布となって白いカーテンを広げていた。


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Tips

◇鎧魚の瀑布

 北方の山嶺から流れ出した湧水が束なり巨大な川となって集まる場所。高台の下へと勢いよく落ちる大瀑布は絶景で、豊富な清水により多種多様な魚が棲む。水蛇の湖沼と同様に、常に薄い霧が掛かっており視界は悪い。


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