第41話 佳穂と愉快な仲間たち

「じゃあ、今は上手くいってるのか」

「まあ、たぶん、それなりに」


 部活からの帰り道。すでに日は落ち冬の風が吹きつけるなか、私と袴田悠は吹きさらしのホームで電車を待っていた。黒いダッフルコートのフードをすっぽりとかぶり、紺と緑のチェックのマフラーに首をうずめる。両サイドのポケットに手を突っ込んでいるものの、指先はかじかんでいた。

 手を振って電車を降りていく他の部員を羨ましく眺めていると、いつも私たち二人だけが残される。乗り換えのためにこうして電車を待っていると、まるで二人で帰っているような気分になり、首のあたりが何となくこそばゆい。つい早口になってしまい、ちらりと左隣を盗み見る。学校指定の黒色のブレザーの上に何も羽織っていない悠は口元から白い息を吐いていた。ロゴも何もついていないグレーのネックウォーマーが首を覆ってはいるものの、凍てつく空気を遮断するにはやや心もとなさそうだ。



 桑島先生の一喝を受けてからというもの、私たちに充てられた二年五組の教室には練習の進行役を務める佳穂の澄んだ声とひたすら練習する五つの異なる音が混ざり合っていた。そして日によっては輪になって立った五人の歌声が響き渡ることもある。


「うん、ニュアンスはそんな感じ、かな。じゃあ同じところから楽器で」


 楽譜を楽器で演奏するのではなく口で歌う練習、いわゆるソルフェージュだ。一般的には耳で聴いた音を譜面におこす練習なども広く指す言葉だが、部活の練習中に行っているのはこの視唱が多い。実際桑島先生の合奏やフルートのパート練習でも行うことはあったが、佳穂はこの練習をよく取り入れる。正しい音程をイメージできるようにすること、フレーズの感じ方やアーティキュレーションを揃えること、楽譜を意識的に読み自分の役割を意識すること。そういったことを目的に行う練習だ。

 音感抜群の佳穂がチューナーの前で歌うとメーターがほぼ真ん中から動かないのはもちろんのこと、長年ピアノを続けている詩乃も美声を響かせる。初めは小声で恥ずかしがっていた菜々子も回数を重ねるにつれて口角を上げて歌うようになってきた。

 佳穂がソルフェージュをさらりと切り上げたので、あまり歌が得意ではない私はこっそりと安堵する。一般的に見て音痴な方ではないものの、一寸の狂いもなく合わせられるほどの技量は私にはない。自分の声のずれは認識しているため、矯正できると言えば聞こえはいいが、歌うたびに心にさざ波が立つことになる。

 クラリネットによるメロディーラインがくっきりと浮かび上がるよう、音量を抑えながら低く細かい音を丁寧に並べる。ファゴットの鼻の詰まったような素朴な音が朗々と響くと、アウフタクトからはフルートが主役だ。クラリネットが木管楽器らしい温かみのある音だとすれば、フルートは華やかで輝かしい音だと思う。光を反射する水面のようにきらめく音や伸びやかな旋律は吹いていてとても気持ちが良い。


「薫、さっき歌ったときと全然違う気がするんだけど」


 吹き終わってリードを口元から離すと、開口一番、佳穂がじっとりとした視線を向けてきた。同じ学年でそれなりに親密な関係であっても、こと演奏に関して佳穂は妥協を許さなかった。いや、むしろ同学年なのでより遠慮がないのかもしれない。吹けていないからといって佳穂が怒ったり高圧的な態度になったりすることはない。最適な練習方法を考えひたすら練習に付き合ってくれるのは本当にありがたい。ありがたいのだが。


「すみません」


 同学年なのに、とひたすら申し訳ない気持ちになるのだ。


「楽器になって、気ぃ抜いたんでしょ。フレーズ感甘かったし、吹き終わった後の処理が雑すぎだったから気をつけて。あと、クラリネット詩乃ちゃんからの流れがフルートに移った瞬間、そこで途切れちゃうから、そこは詩乃ちゃんにもっと寄せてほしい」


 同期とはいえ練習中だ。はっきりと返事をして、譜面台に置いた細身のシャープペンシルを手に取る。ファイルから取り出した楽譜は大きなト音記号のクリップで止められている。桑島先生や佳穂の指摘されたことだけでなく、個人練習の最中に気がついたことなども細かい字で書かれている。それらを一瞥し、自分が加わるアウフタクトの部分とフレーズの最後の部分に丸をつけた。


「あ、でも、薫ちゃんののびのびした感じ、すごい好きだよ。だから私が薫ちゃんに寄せた方がいいかも」


 そう慌てて詩乃が言い、前髪を何度も左耳にかけながら私と佳穂を交互に見た。


「詩乃ちゃん、気使わなくていいからね」

「あ、いや、ほんとなんだってば。私、薫ちゃんがそこ吹いてるの好きなんだって」

「いやいや、こっちが腑抜けちゃっただけだから」

「私の吹き方がちょっと窮屈なんだって。私、面白みが足りないから」


 詩乃が案外強情に言い張ったことで硬直状態に陥った。いやいや、いやいやと二人で言い合っていると、「あんなぁ」と遠慮気味に菜々子が割って入った。

 佳穂と美月も含めた四人の視線が集中し、ややたじろぎながら菜々子が口を開く。


「薫はすごいよく響くし、楽器で歌うのはすごい上手いと思うねんけど、それはそれとして詩乃ちゃんは正統派って感じで安定しててそれはそれで心地よいっていうか。だからその、どっちがいいとかどっちが悪いとかじゃないと思うねんな。だから、あれ、結局どうしたらええんかなぁ」


 最後は困ったように曖昧に目尻を下げた菜々子にぽかんとしていると、一瞬あとにじわじわと心にあたたかいものが広がってきた。「今日は良い天気だね」とでも言うかのようにさらりと告げられた褒め言葉に顔が火照ってくるのを感じた。それまで考え込んでいた佳穂も口を開く。


「薫がよく鳴るのは前から思ってたけど、最近一緒に練習しててより一層それは感じるようになった。ほら、外で吹いても結構音飛ぶでしょ」

「私、褒められすぎて明日台風でも来るかもしれない」

「褒めたっていうか、正当な評価? 薫の得意なことの分析? 響きとか音量とかって一朝一夕に得られるものじゃないし、そこは自信持っていいと思う。もうちょっと合わせてほしいけど」


 佳穂の言う「評価」にさらに体温が上がり、その場で軽く足踏みをした。冬場だというのにこの部屋は暑すぎる。楽器を左手で持ち右手でひたすら顔を仰いでいると、にやにやとした美月が「佳穂ちゃんよ」と右手で楽譜ファイルを軽く叩いた。


「自分もさ、褒められて伸びるタイプだからさ、ちょっと褒めてくれよ」

「絶対いや」

「なんで」

「美月は褒めたら調子乗るし、褒めるところなんて欠片もないから」

「なーに言ってんだよ。連符できるようになっただろ。あと、美月って呼ぶな」

「たまに、でしょ。美月は音程悪いしタンギングできてないし音程悪いし音量足りないし連符たまにしか完璧にできないし全然ダメ」

「あ、佳穂、音程悪いって二回も言った」

「だって悪いから」

「あと美月って呼ぶな」


 美月は頑なに下の名前で呼ばれるのを嫌っている。まだ五人で練習を始めたばかりの頃、それまでほぼ話したことがなかった私も「美月ちゃん」と呼んだことがあった。可愛らしい名前が合わないと感じているらしく、「次そう呼んだら顔面にボールぶつけんぞ」とすごまれた手前、本人の前では口にしないことにしている。私だって齢十六で三途の川を渡りたくはない。


「っていうか、歌いながらゆっくり運指確認してって言ったでしょ。さっきももたついてた。昨日はできてたのに」

「昨日できたんだからまたそのうちできるだろ」

「宝くじじゃないんだから。常にできるようになってもらわないと困るの」

「機械じゃあるまいし」


 口では不平不満を言いながらも、美月も練習には真面目に取り組むのだ。音符で真っ黒な楽譜を渡されたときはそれはそれは悲壮な顔をしていたが、今では指定テンポの八割ほどの速さで吹けるようになっていた。美月が出すファゴットの音とそれに対する佳穂のスパルタ指導、そして二人の独特の掛け合いまでがもはや一連の流れになっている。

 正直なところ、木管五重奏は佳穂一人におんぶにだっこの状態だ。楽器もレベルも異なる私たち四人の個人の面倒を見つつも自分の練習をこなし、綿密かつ柔軟な練習計画を立てる姿を見ていると、自分ももっと練習しなければ、という思いが自然と湧いてくる。



「そういえば、美月ちゃん——あ、久世くぜね。なんで吹部に入ったか知ってる?」


 ホームに設置された電光掲示板の時計はなかなか進まない。練習時間はあっという間に感じられるのに、こういうときの時間の歩みは本当に遅い。若干苛立ちながら左へ顔を向けると、細められていた目が億劫そうに少し開いた。


「俺が久世と関わりあるように見えるか」

「坊主が好きで、野球応援に行きたかったからなんだって」


 この間の日曜日の練習のことだった。木五のメンバーで昼食をとっているときに、佳穂の口から明かされた。


「お前! それは死んでも言わない約束だったろ!」

「美月が私の初恋をばらしたからでしょ!」


 耳まで真っ赤になった二人の応酬を私たちは呆気に取られて眺めるよりほかなかった。

 うら若き乙女が弁当を囲んで五人。恋多き舞香でなくとも、自然と浮いた話にもなる——はずだったが、浮いた話が全くないのかはたまた隠しているのか。とりあえず現在進行形の話は全くされず、過去の初々しい恋愛へと話題は移る。その段になり、小学校の頃、佳穂が一生懸命ラブレターを書いたことを美月がばらしたのだった。

 美月は中学ではハンドボール部に所属していたそうだが、佳穂とは幼稚園の頃からの付き合いらしい。一見優等生な佳穂と不良に見える美月。神経質で孤高のオーボエと、どこかとぼけたファゴット。ちぐはぐのようでいて、どこかしっくりとくる組み合わせだと思う。

 腐れ縁の美月といるときにしか見せない、子供じみた佳穂の表情は年相応でいて、計算高く聡明な仮面が剝がれたように見える。


「そんな物好きなやついるのか」

「見た目あんなだけど、すごいいい子だよ?」

「でもファゴットって、応援で吹かないんじゃ」

「いや、ほんとそれ」


 私も吹奏楽部に入るまでは、部員たるもの全員野球応援に演奏で参加するものだと思っていたので、美月もそのことを知らなかったのだろう。本人が希望していたのかはともかく、ファゴットの適性を認められた美月は今となっては木管五重奏に無くてはならない一人だ。


「そっちは? アンサンブル、どう?」

「人権を剝奪された」

「はあ?」


 悠はわずかに顔をしかめ、力なく首を横に振った。

 彼は舞香たちと同じ木管七重奏に参加していた。彼らが演奏する曲はクロード・ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』より『プレリュード』。元々はピアノの曲で、全四曲からなる組曲だ。単体で演奏されることも多い有名な『月の光』はこの組曲の三番目の曲にあたる——という知識は夏のコンクールでもピアノを担当した詩乃からの受け売りだ。

 フルート、クラリネット、サックスといったバリエーションに富んだ楽器と個性豊かで一癖も二癖もある面々——。


「あ、何となくわかった気がする」


 悠がさらに眉間のしわを深めたのを見て、いけないとは思いつつもくすりとしてしまう。


「仕方ないだろ。女子六人だ、勝てるわけない」

「男子が迫害されるのは今に始まったことじゃないでしょ」

「迫害って言い草はひどいだろ。この間なんて俺の目の前で」

「あんた、一体何したの?」

「俺は何もしてない。この間なんて俺の目の前で」

「だから何したの?」

「俺は絶対に悪くない」

「男子ってたいへんなんだ」


 細められた目は恨めしそうだが、電灯に照らされた横顔に覇気は感じられなかった。考えてみれば、朝も私と同じかそれより早いこともある。連日五時過ぎには起きているだろうし、授業後の練習を終えた今は寒さだけでなく眠気が絶頂なのかもしれない。


「こうなることは、まあ予想できた」

「わかってたんなら、なんで七重奏に入ったのよ」

「先輩命令。行け! の一言。……うわ」

「どうしたの」

「木村先輩が面白がってる顔が浮かんだ」


 両手をブレザーのポケットに入れたまま、悠が大きく息を吐き出す。白い息がホームの電灯に照らし出され、瞬く間に消え失せた。


「ため息ついてたら幸せ逃げるんだって」

「世知辛いな」


 ようやくやってきた電車は幸いにも座る余裕があった。並んでシートに深く身を預けると、隣から聞こえてきた寝息に驚く間もなく、私もそっと意識を手放した。

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