第40話 五つの楽器

 いざ練習を始めてみると、佳穂の言っていた「合いにくさ」を身をもって知ることとなった。音程、音の入り、音の処理等々、どういうわけかまるで合わないのだ。高校から吹奏楽を始めた美月を除き、全員アンサンブルの経験自体はあったし、いつものパート練習のように進めてみても全く上手くいかない。

 もちろん、個人練習が十分かと問われれば、その答えは否だ。管楽器は息を吹き込み指さえ動かせばその音が鳴るというものではない。指回しと息の使い方、そしてタンギング等がうまくかみ合ってはじめて鳴らしたい音になる。それらを上手く連動させるためテンポを落として練習し、少しずつメトロノームの重りを下げていく。

 一人一人が完全に吹けるようになってから全員で合わせるのが理想的な形だが、いかんせん時間は限られている。室内で練習できる放課後の時間はなるべく音を合わせる練習に費やしたいため、身も凍るような朝、楽器庫の周囲は鬼気迫る表情で練習する吹奏楽部員であふれかえっていた。かく言う私も眠い目をこすって早朝の電車に乗り込んでいるため、他人のことは言えない。

 基本的にアンサンブルの練習は生徒たちだけで進めていくが、希望すれば一度だけ桑島先生の指導を受けることができる。早速壁にぶち当たった私たちは、先生に演奏を聴いてもらうことにした。



 教室の後ろ半分の椅子や机を前に寄せ、空いたスペースに私たち五人は半円型になるように立つ。上手からクラリネット、ファゴット、ホルン、オーボエ、そしてフルート。いつも練習をしている何の変哲もない教室であっても、桑島先生が半円の中心に置いた椅子に座っているだけで緊張感が高まる。先生は左手でスコアを抱え、最後のページから一ページずつ丁寧にめくっていき、最初のページを広げた。


「それじゃ、最初から通しで」


 私以外の四人が楽器を構え、その視線は合図を出す佳穂に集中する。黒光りするオーボエのベルが少し下がり、跳ね上がったところで一斉に和音が咲く——はずだった。

 おそらく、誰かが音を間違えたわけではない。はまるべきところに音が収まらず、うまくハモらなかったのだ。濁った音に驚いたのか、ホルンの音が浮き上がる。佳穂が力でねじ伏せようとするとさらに乖離は広がる。

 フルートが入ってものその状況は変わらない。

 一つの楽譜を演奏しているはずなのに、てんでバラバラだ。どうして? オーボエやクラリネットとの掛け合いも、繋がりが見えず平行線を辿る一方で、呼びかけても誰もバトンを受け取ってはくれない。誰も応えてはくれない。同じ音を奏でるユニゾンも一人一人が違う場所で吹いているようだ。合わそうと探れば探るほど悪い意味で浮いてしまう自分の音に苛立ち、ぼんやりとした他の楽器の立ち上がりに苛立ちを覚える。

 佳穂に貸してもらったベルリン・フィルのCDのように、なぜ上手くいかないのだろう。異なる楽器の音が溶け合った甘美な音はどこにあるのだろう。

 合わせてくれたらいいのに。ほら、今もずれた。

 いけないとはわかっていても、そう思わずにはいられない。

 ファゴットの美月が速いスケールについていけなくなったのか、一瞬ファゴットの音が途切れた。ほんの一瞬だ。それでも時間は流れる。複数人が同時に演奏している以上、CDプレイヤーの一時停止ボタンを押すように演奏を止めることはできない。

 焦った私はリズムを乱し、何とか前に進めようとしたオーボエとかみ合わなくなる。混乱したホルンはどちらに合わせればよいのかわからず、一人虚しく間抜けに響いた。クラリネットは加わるタイミングを逃し。完結するはずだったフレーズが途切れてしまう。

 ぼろ雑巾のように最後まで吹き終わっても、楽器を手にしたまま顔を上げることができなかった。

 恥ずかしい。合っていない音楽なんて、騒音以外の何物でもない。消えてしまいたいほど恥ずかしい。

 演奏が終わってからというもの、沈黙を保っていた桑島先生が口を開く。


「音程、リズム、アーティキュレーション。全体にも個人にも言いたいことは山ほどあるけど、一番言っておきたいことから」


 起伏に乏しい低めの声は冷たく響く。当然だ。あれだけ酷い演奏をしたのだから。


「あなたたち、いつまでパート練習をしているつもり?」


 鞭に打たれたように顔を上げると、桑島先生はすでに閉じられたスコアの裏表紙を右手の人差し指でとんとんと軽く叩いていた。呆気にとられる私たちをよそに、先生は続ける。


「五人それぞれが違う楽器を演奏しているの。ちゃんとそのことわかってる?」

「はい」

「桜木さんだけがわかっていても不十分。そこのところ、全員が理解していないと」

「すみません」


 佳穂だけは先生の言っている意味を理解しているようで、練習中に見せるのと同じ、触れれば切れてしまいそうなほど真剣で落ち着いた横顔だった。


「楽器それぞれに特徴がある。今は音の高さとか音色とかそういうことを言っているんじゃない。例えば、フルートやオーボエ、ファゴットは音の立ち上がりがはっきりしてるけど、クラやホルンだとそれは難しい。そういうことをわかった上で、じゃあオーボエは、クラは、と初めて合わせられるようになる。金管のホルンは——まあ三浦さんはわかっていそうだったけど、やっぱり大きくなりすぎてしまう。それに対してファゴットの音は飛びにくい。音程もそう。オーボエにとっては高くなりやすい音も他の楽器にとっては逆かもしれない」


 桑島先生は詩乃、美月、菜々子、佳穂と順に視線を移動させ、最後に私を見て言った。


「口には出さなくても、他の人が合わせてくれたらって思ったこと、あるんじゃない?」


 胸の内を見透かされたような指摘に目を見開き、いたたまれない気持ちで譜面台にのった楽譜に視線を落とす。白い紙に印刷された黒い音符の列は何も言わずに、でも不満げに並んでいる。このオタマジャクシたちを躍らせ、この曲を心から楽しめるようになりたいのに。


「当然のことだけど、それは口に出さなければ他の四人には伝わらない。同じ楽器同士ならそういう都合も自然と共有されるし、だからこそ合わせやすい。でも今はそうじゃない。その楽器のことはその楽器を吹いている人しかわからないことなんだから、きちんと共有するように」

「はい!」


 桑島先生は快活な五人分の返事に僅かに目を細め、閉じていたスコアをもう一度開く。楽譜に書かれた曲名をそっと指でなぞった一瞬あとには、いつものような涼やかな表情を浮かべていた。


「五人それぞれが違って、それぞれにしかできない役割が与えられているの。スコアを読み込めば自ずと役割はわかってくる。その違いを認識していない限り、一つのアンサンブルにはならない。そのことを忘れないで」

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