第2章 春へ

第37話 冬の始まり

 秋というのは何をするにも良い季節だ。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋。そして、芸術の秋。

 一介の高校生である私、水谷みずたにかおるもそのご多分に漏れず秋を満喫していた。というか、怒涛のように押し寄せる行事に流されていたという方が正しいだろう。

 九月の文化祭で三年生は引退したものの、喪失感に浸る間もなく、一・二年だけで新たなスタートを切っていた。十月には体育祭。十一月は県内の高校生が集まる総合文化祭。他校や社会人バンドとの合同コンサート。近隣の店などからの依頼演奏なども含めると、ほぼ毎週何かしらの本番をこなしていた。


「薫は文理選択どうするん?」


 私たちはパートでの基礎練習を終え、音楽室に所狭しと並べられた椅子に腰かけていた。時間になるのを待っていると、隣に座った三浦みうら菜々子ななこが話しかけてきた。彼女から手渡されたプリントを一枚だけ手に取り、一瞥して後ろに回す。


「うーん、まだ何も考えてない。菜々子は?」

「私もまだ何も。どうしよかな」


 菜々子の垂れ気味の目が困ったように細くなる。

 二学期になると、各教科の担当教師もしっかり勉強するようにと口を酸っぱくしていた。進度の速い授業についていくためには勉強しなければいけないとは思いつつも、忙しさを理由に後回しになっているので耳が痛い。実際、この間行われた模試の結果も惨憺さんさんたるものだった。下を見れば、テストのたびに補習を受けている富田とみた亮太りょうた圭太けいたたちのような部員もいるが、桜木さくらぎ佳穂かほのように部活に全力を注ぎながらも高い成績を維持している者もいる。結局は各々の問題なのだ。

 法蓮高校では二年から文理別のクラス分けになるため、今年度中に希望を出す必要がある。今日の六限には進路選択のための学年集会が開かれ、生徒間ではその話題で持ちきりだった。


 ため息をつき、黒いブレザーの下からのぞく紺色のカーディガンの袖を指先で引っ張った。結露して白みがかった窓の外をぼんやりと眺めていると、秋が終わり冬がすぐそこまで近づいていることを感じる。

 手を叩く乾いた音が響き、慌てて意識を音楽室の前へ向ける。新しく部長になった二年生の川崎かわさき遥香はるか先輩だ。二年生のホルン奏者でもある彼女が音楽室の黒板の前に立つ姿ももう見慣れつつあった。二年生の中で最も小柄な彼女は、よく通る声を響かせながらいつもつま先立ちをしている。黒い靴下に覆われたふくらはぎが震えていることを話のネタにされていた。なかなかにお洒落らしく、下ろした前髪とおくれ毛を軽く巻き、毎日異なる色のカチューシャをつけている。今日はシックな深緑だ。


「ミーティング始めます」


 ざわついていた空気は一瞬にして消え去り、それまで曲がっていた背中が自然と伸びる。彼女には威圧感は全くないものの、この人についていくんだと思わせる何かがあった。だからこそ二年生による話し合いで部長に選ばれたのだろう。


「まずは昨日の県総文けんそうぶん、お疲れさまでした。他校の人との交流もできて、いい経験になったと思います。学指揮からはどう?」


 川崎先輩は、私たちから見て右手に並んで立っていた日下部くさかべ千秋ちあき先輩と海堂かいどう弘樹ひろき先輩の方に顔を向ける。


「まあ、良かったと思うよ、俺は」


 陽だまりの猫のように目を細くし、長い腕を折りたたんで頭をかいているのは海堂先輩だ。


「オープニングの『アフリカン・シンフォニー』も盛り上がったし、『春の猟犬』もカッコよかったって他校の友達が」


 海堂先輩は千秋先輩に同意を求めるも、千秋先輩は視線を合わすことなくつれない返事をする。

 ショートカットの千秋先輩は細い首を寒々しくさらしている。右手に持った白い手帳には今後のスケジュールがびっしりと書き込まれているのだろう。几帳面で面倒見の良い彼女は、有能な学生指揮者としてすでに部員から信頼を集めていた。

 海堂先輩はというと、その人懐っこい人柄でやはり上手く進めていた。ただ、抜けているところや大雑把なところがあるらしく、フルートのパート部屋で千秋先輩が愚痴をぶちまけるのが恒例になりつつあった。海堂先輩の所属するユーフォニアムパートや男子部員の間でも、同じような愚痴は披露されているのかもしれない。


 その様子を向かって左側から微妙な面持ちで眺めているのは、副部長の佐々木ささき志帆しほ先輩だ。川崎先輩の隣に並ぶと同じくらい小柄だが、背比べをしてはいつも数センチ差でガッツポーズをしていた。笑いの沸点がとても低いため、今の微妙な顔は笑いをかみ殺している表情なのだろう。笑うとできる右頬のえくぼが可愛らしい。彼女の笑顔が今の幹部の潤滑剤となっている、というのは袴田はかまだゆうの分析だ。

 すましたような憎らしい顔が頭に浮かんだので慌てて打ち消す。


「演奏面・行動面共に各々反省点はあるかもしれませんが、それを今後に活かしていってください」

「はい!」

「では今後のスケジュールについて説明します」


 整った字で書かれたスケジュール表は副部長の佐々木先輩が毎回作っているらしく、トランペットを持ったクマのイラストが右下に描かれていた。ある一点に目が釘づけになり、一瞬息が止まる。


「まず、外部のイベントについて。十二月の二十三・二十四日には保育園と老人ホームでクリスマス演奏会をします。どちらもあまり大きい音は出せないので、演奏するメンバーはいつもの半分くらいになると思います。二年生メインで、足りないパートには一年生にも入ってもらう予定です。メンバーの決定は学指揮にお願いしているので、また追って連絡します。で、みんなが気になっているであろう件について」


 ついにこの季節がやってきたという不安と焦燥。プレゼントを目の前にしたような興奮と喜び。それらが混じりあった緊張が音楽室に走る。


「十二月十四日の土曜日に、部内アンサンブル発表会を行います。編成についてはパートリーダーを通して後ほど詳しく連絡します。簡単に言うと、三人から八人のグループを組み、自分たちで曲を決めて練習してもらって、発表するという流れです。また、発表会で一番いい演奏をしたグループには、一月に行われる県のアンサンブルコンテストに出てもらいます。二番目・三番目だったグループは老人ホームで演奏してもらう予定です。いわば、部内発表会はそのための校内予選でもあるわけです」


 そこまで一気に言うと、川崎先輩は少し息を吐き出した。


「もちろん、代表として選ばれることだけがすべてではないと個人的には思っています。普段とは違ったメンバーで練習することで得られるものもたくさんあるだろうし、実際、アンサンブルを機に飛躍的に伸びる子もとても多いです。いつもと違うことで戸惑うことも多いと思いますが、せっかくの機会なので大切にしてください」


 部内で直接競い合う機会というのはそれほど多くはない。夏のコンクールのオーディションと、アンサンブルの校内予選くらいだろう。夏コンのオーディションでは、全体のバランスも考慮するとはいえ、結局のところ個人戦なので各々が努力すればいい。それに対し、アンサンブルは団体戦だ。個が集まれば、それぞれの考えも違えば演奏技術も違う。

 私はどうしたいのだろう。ただ穏やかにアンサンブルの期間を過ごしたいのか、演奏技術を高めたいのか、それとも代表の枠を狙いたいのか。

 音楽室を後にしながら思索にふけっていると、ブレザーの左袖が引っ張られた。


「ねえ」


 我に返って首を横に向けると、やや上気した白い顔に肩の下まで伸ばされたまっすぐの黒い髪が目に入った。佳穂は挑戦的に口元を持ち上げる。


木管五重奏もくごしない?」

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