京都安寧

第695話 宇津長成

 山城真田家一行が出羽国観光を楽しんでいる頃、山城国(現・京都府南部)の隣に位置する丹波国(現・京都府中部、兵庫県北東部、大阪府高槻市の一部・大阪府豊能郡豊能町の一部)では、きな臭い動きが見受けられていた。

(時は今、か?)

 前年に築城されたばかりの周山城しゅうざんじょう(現・京都府京都市右京区京北周山町)にて、宇津長成うつながなりは思案にふけっていた。

 宇津氏は代々、

・反権威

御洒落おしゃれ

 が特徴の所謂いわゆる婆娑羅ばさら大名である。

 その証拠に宇津氏の先祖(*1)である土岐頼遠とき よりとお(? ~1342)は典型的な婆娑羅大名であり、大事件を起こした。

 ―――

 康永元(1342)年9月6日。

 1336年に室町幕府が成立して間もないこの日、泥酔していた頼遠は偶然出会った光厳上皇の牛車に対し、

いんと言うか。いぬというか。犬ならば射ておけ」

 と罵って牛車を蹴倒した(矢を射たとも)。

 この狼藉に足利直義は激怒し、頼遠は逃亡先で謀反の計画を練るも失敗し、捕らえられ、遂には斬首刑となった。

 もっとも頼遠は狼藉を行ったものの、足利尊氏の忠臣であり、武勇に秀でた武将だった為、除名嘆願が相次いだ。

 最終的に室町幕府は子孫は許し、頼遠のみを死罪にすることで死罪反対派を抑え込んでいる。

 ―――(*2)

 もし、ここで頼遠の刑罰が軽かった場合、「室町幕府は朝廷を軽視している」と捉えられ、幕府対朝廷の対立構造が生まれていた事だろう。

 室町幕府は非常に難しい決断を迫られた、と言わざるを得ない。

 その子孫である長成も又、その血を受け継いでいた。

 その証拠に長成自身も問題ある人物で、丹波国桑田郡(現・京都府京都市右京区北部)に禁裏御料きんりごりょう(現・皇室財産)である山国荘やまぐにのしょう押領おうりょうし、違乱停止を命じられている(*3)。

 それでも反省せずに永禄7(1564)年、長成は子供を山国荘荘官の娘と結婚させ、山国荘への支配を強めた(*4)。

 織田政権成立後はその権限を剥奪され、周山城に押し込まれている形である。

 事実上、丹波国から出れないのは、長成が戦国時代、足利義昭方につき、信長と敵対したのも関係していた。

 金色の長髪をなびかせ顔面にはまんじの刺青を入れた相当、衝撃インパクトのある外見は、婆娑羅大名の代表例であろう。

 先祖代々守っていた宇津城も、織田政権によって破城はじょうになった。

 現在の住所である周山城は、明智光秀が築城したものであり気に食わない。

 織田政権が敵に塩を送るような真似をしたののは、「政権の寛容さを示す」為である。

 信長包囲網を表すように、敵が多かった信長は、敵対者を徹底的に叩いた。

 しかし、叩けば叩くほど反発心を煽る場合もある為、均衡バランスをとる為には、寛容さも必要なのだ。

 それに利用されたのは、長成なのである。

 不良が時々良い事をすると、「良い人感」が人々の深層心理に植えつけられる、あの類だ。

 家臣が告げる。

「どうも宣伝を裏で操っているのは、真田のようです」

「あいつが軍師?」

「は」

 大河と信長は、義兄弟の契りを結んでいるように、非常に繋がりが深い。

 織田政権が何度失策を犯しても、その度に尻拭いし、政権が羽柴秀吉に継承された後も織田家に尽力している。

 反織田派の一角を担っていた長成には、それすらも腹立たしい。

「……八幡神社の御御籤おもくじの結果は?」

「は。10回引いて全て大吉でした」

 宮司としては、「御御籤は神様からのお告げなので、何度も引いてよいものではない。引くならば1か月など期間を開けるのが良い」というのが意見だ。

 それすらも破って何度も試すのが、長成の人間性を表しているだろう。

「どのくらいの兵を出せる?」

「500ほど」

「……手厳しいな」

 京都新城は皇居も兼ねている為、警備が非常に厳しい。

 総理官邸である二条城も、釣天井つりてんじょう事件以来、白亜館ホワイトハウス並の厳戒態勢だ。

 そもそも京自体も、要塞だ。

 碁盤の目のように区画された街並みは、兵を大きく展開するのは難しい。

 川を下って攻めることも可能だが、琵琶湖から大坂湾を繋ぐ淀川は勿論のこと、桂川や鴨川なども水軍が日々、警備に励んでいる。

 川に毒を流しても、随時行われている水質検査で判明しやすい。

 陸も川も駄目なら最後は空路しかないが、そもそも死に体の宇津氏に軍用機を買える予算は無い。

 手に入れた場合でも、京はアドバルーンに偽装したカメラやドローンが飛び交い、規則に反した飛行機が見つかれば、即通報される。

 また、最悪、対空砲火に遭う可能性も無きにしも非ずだ。

 京のような大都会で撃墜後、破片が都民を襲うだろうが、『だいの虫を生かしてしょうの虫を殺す』大河のことだ。

 都民に被害が出ても首都を守る為には、問答無用で撃墜命令を下すだろう。

「……」

 それでも長成の不満は、払拭出来ない。

「……起つか」

 扇子を閉じたその目は、弱体化した宇津氏の最期を世間に知らしめる一世一代の決意をした武士のそれであった。


[参考文献・出典]

*1:京都府北桑田郡 編 『京都府北桑田郡誌』京都府北桑田郡 1923年

*2:ウィキペディア

*3:谷口克広 『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館 2010年

*4:高橋成計「丹波宇津氏の動向と城郭遺構―城郭から考察する宇津氏―」『中世城郭研究』第31号 2017年

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