第511話 会者定離

 黒田官兵衛は、4人を内通者として送ったのだが、簡単に大河に骨抜きにされ、逆に4人は、二重諜報員ダブル・エージェントになった。

 その為、官兵衛に忠誠心を見せつつも、実際には、彼の情報を大河に提供していた。

「……有難う御座います。これで居場所が掴めました」

「その……私は、大丈夫でしょうか?」

 早川殿が心配していた。

 二重諜報員になった事で、家族が官兵衛の逆恨みの標的になるのでは、と心配している様だ。

「大丈夫です。御家族には、身辺警戒員をつかせていますので」

 身辺警戒員は、現代日本で、所謂、『お礼参り』対策の為に保護対象者に付く警察官の事だ。

 ただ、日ノ本では、どちらかというと、証人保護プログラムWITSCEを模範にしている。

 対象者は、裁判期間中或いは、生涯に渡って、保護され、その間、特定されない場所に住み、国家機密級にその存在が、隠蔽される。

 生活費は、当然、政府から支給され、内通者からの情報漏洩対策の為に旅券等も別人の物に差し替えられ、書類上、別人として新たな人生を歩む事になる。

 当初、これは、マフィアのオメルタの掟から証言者を守る為に1960年代から部分的に開始し、1970年の組織犯罪対策法(アメリカ版暴力団対策法)により規定され、2020年で約1万9千人の対象者とその家族がその保護下だ(*1)。

 当然、保護対象者は、危険な橋を渡っていた過去がある為、制度の創設者によれば、2013年の段階で保護対象者の実に95%が「犯罪者と呼ぶべき存在」だという(*2)。

 保護下に入る者の中には、国益に貢献した時には、相当、裕福な経済的援助を受けられる場合がある、とされる為、一時、危険な目に遭ったとしても、対象者になれば、一発逆転の人生を送れる事になるだろう。

 日ノ本でもそれを模範に証人保護プログラムを作り、4人の様な二重諜報員を重宝している。

 アメリカが法的に導入したのが、1970年なのだが、時は16世紀。

 恐らく、日ノ本が世界で初めての国だ。

「……真田様」

「はい?」

「……夫の事は、どう思いますか?」

「今川氏真殿?」

「はい」

 世間的には、氏真は、暗君の心象が根付いている。

 あの今川家を滅亡させ、自分は、逃げ回り、生き長らえているのだから。

 反対に武田勝頼は、切腹して果てた。

 武将らしい、と言えば当然、後者だろう。

 後世の評価もすこぶる悪い。

 松平定信(1759~1829)は、随筆『閑かなるあまり』にて、

『日本治りたりとても、油断するは、

・東山義政(=足利義政)の茶湯

・大内義隆の学問

・今川氏真の歌道

 ぞ』

 と酷評。

 天保14(1844)年の『徳川実紀』でも、

『桶狭間の合戦後の氏真「父の讐とて信長に恨みを報ずべきてだてもなさず」 

 三河の国人達「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家(徳川家)に帰順」』

 と散々な言われ様だ。

 寛永9(1632)年に刊行された『甲陽軍鑑』でも。

『子息氏真公代になり、猶もって作法悪しくして、家に伝はる家老・朝比奈兵衛太夫その外よき者4、5人ありと雖も、氏真公その4、5人の衆を崇敬ましまさず、三浦右衛門と申す者のまゝになり給ひ、三浦右衛門が身よりの者、或いは三浦右衛門が気に合ふたる衆ばかり仕合わせよく、左道なる仕置故、三河国大形敵となる』(*3)

『氏真公心は剛にてましませど、ちと我がまゝに御座候故、目利なさるゝ衆みな不賢とははじめより見えつれども、後に全く知るゝなり』(*3)

 と、佞臣・三浦真明(?~1568)を重用し、反対に譜代の重臣を軽視した事が、批判されている。

 ここまで来れば、相当、武将としては問題ある人間性だったのだろう。

 ただ、文化人としては、才能があった様で、実際、『今川氏と観泉寺』(編:観泉寺史編纂刊行委員会 吉川弘文館 1974年)には1658首もの和歌が収められ、蹴鞠についても『信長公記』に、

『今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、3月10日、相国寺において御所望』

 とある様に、信長所望の下、彼の前で披露した逸話がある。

 文化人の家に生まれていさえすれば、相当、才能に溢れた人物であったのだろう。

 現代風に言えば、親ガチャに失敗した、と言えるかもしれない。

 大河もどちらかというと、会った事は無いが、氏真は武将よりも文化人としての心象イメージが強い。

「……失礼ですが、正直、文化人向き、と思っています」

「武将としての才能は無い、という事でしょうか?」

「伝え聞く限りでは、そう思います」

「……そうなのですね」

 夫を遠回しに非難されたにも関わらず、早川殿は、安心した様だ。

「えっと……今の御質問の意味は?」

「天下の近衛大将がその様に評価しているのが、分かって良かったです」

「……?」

 早川殿は、姿勢を正す。

「当家は、内府様に拾われた身ではありますが、私は、真田様に仕官出来て正解だった様です」

「……はぁ」

「私は8歳で夫の下に嫁入りしました」

「……お生まれは?」

「天文17(1548)年です。今年(1580年)で32歳になります」

 史実だと、早川殿の生年は、定かではない。

・天文15(1546)年以降説(*4)

・天文16(1547)~天文17(1548)年頃説(*5)

 この他、今川氏真(1538~1615)よりも年上説(*6)もあり、それが本当だった場合、早川殿は、30代半ばで、

 長男・範以 元亀元(1570)年

 次男・高久 天正4(1576)年 

 三男・西尾安信

 末子・澄存

 と、実に4人もの子供を産んだ(*7)パワフルな女性である事が分かる。

 この異世界では、32歳の時点で、4男1女を儲けているので、育児は侍女に任せて、一段落しても良い時機だろう。

「……8歳、ですか」

 現代の価値観だと、小学2年生で嫁入りだ。

 芳春院も同じ位の年齢で嫁ぎ、小学校高学年で出産しているのだから、凄い時代だ。

「はい。今年で、結婚生活24年、干支2回分になります」

「……」

 32歳の時点で、人生の半分以上が夫婦生活なのは、現代では、まず有り得ない事であろう。

 否、令和4(2022)年の法改正前ならば、女性の婚姻年齢は、16歳なのだから、32歳だと丁度、半分になる。

 理論上、無くは無い。

 但し、令和4(2022)年4月以降は、男女共に18歳以上になる為、改正以降は、法律上、出来なくなる。

 現代と16世紀の価値観は当然、違うが、難産の危険性を考慮したら、現代の方が、より安全なのは明白である。

 大河も現代の価値観を導入したい所だが、明治時代、改革中に士族による反乱が起きた様に、押し付けは反発を生み易い。

 郷に入っては郷に従えの諺通り、16世紀の価値観に合わせなければ、大河は、今の様な地位を構築出来なかっただろう。

「真田様に御願いがあります」

「はい?」

「私を側室にさせて下さいませんか?」

「……人妻ですよね?」

 予想はしていたが、まさか人妻から求婚されるとは思いもしなかった。

「はい。離縁します」

「……氏真殿は大丈夫なのでしょうか?」

「5人もの子供を産んで夫も一安心し、娯楽に耽っています。私も務めは果たした、と考えています」

「……建前ですよね? 本心は?」

「無論、北条家の為です」

「……小太郎、ナチュラが居ますが?」

「ですが、本家は居ないでしょう? 私が嫁げば、北条家と山城真田家は、結びつきが強くなり、より、強固な関係になるかと」

「……」

「これは、と今川家も承知済みです。円満離縁ですから、その辺の所は、御心配に及ばないかと」

「……はぁ」

 氏真の事を「あの人」と表現した。

 夫ですらない所を見ると、文化に没頭する夫に愛想を尽かした、というのが真相かもしれない。

 現代でも、周囲には、鴛鴦おしどり夫婦に見えていても、突如、離婚してしまう例がある。

 氏真、早川殿の夫婦仲は、余りよく知らないが、問題点は見られず、史実でも最期まで添い遂げていたのだから、てっきり大河はそうなるもの、と思っていたが、実際には、そうはいかないらしい。

 これも時間の逆説タイムパラドックスの悪影響かもしれない。

 早川殿が急遽、再婚に動いたのは、32歳、という年齢も理由と思われる。

 お市の時もそうだった様に、35歳で女性の妊娠率は急激に下がっていく。

 その為、駆け込みトレードの様に、ギリギリの所で動くのだろう。

 氏真も5人も子供が出来、後は、文化人として過ごす様なので、早川殿に対して、余り、拘った想いが無いのかもしれない。

 冷酷か、再婚の好機を与えたかの解釈は、人それぞれだろう。

 少なくとも、早川殿は、後者の様に受け取り、夫に三行半を出したいのかもしれない。

「……」

 大河は、考える。

 家に尽くした後、夫が遊んでいたら、愛情は下がっていくだろう。

 極論、殺意が湧くかもしれない。

 夫婦の事は夫婦にしか分からないが、氏真、早川殿の2人が合意の上ならば、離縁は、避けられないだろう。

「分かりました。婦人会に御報告しておきます」

「有難う御座います」

「正式な再婚は、離縁が成立後にして下さい。不倫は流石に受け入れられませんので」

「分かっています」

 早川殿は、深々と頭を下げつつ、ガッツポーズ。

(パワフルだなぁ)

 童顔に似合わず、その態度に大河は、ギャップを感じられずにはいられなかった。


[参考文献・出典]

 *1:U.S. Marshals Service  2020年5月18日

 *2:CNN 2013年2月16日

 *3:『甲陽軍鑑』 訳・佐藤正英 ちくま学芸文庫 2006年 一部改定

 *4:長谷川幸一 「早川殿―今川氏真の室―」

    編・黒田基樹 浅倉直美 『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社 2015年

 *5:黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』 平凡社 2017年

 *6:『寛政重修諸家譜』 『小田原編年録』所収系図にて、早川殿が北条氏政

   (氏真と同年生まれ)よりも先に掲げられ、『校訂松平記』(江戸時代初期)

   には「氏真の御前は氏政の姉にて御座候」という記述がある事から。

   但し、氏政も天文8(1539)年生まれ説(*5)もある為、未確定である。

 *7:編・観泉寺史編纂刊行委員会 『今川氏と観泉寺』 吉川弘文館 1974年

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