第110話 哀哀父母
平成13(2001)年9月11日、午前0時。
世界貿易センター内にある病院にて、3千gの男児が産まれた。
3千と言えば、正常出生体重児の範囲内の為、健康と言えるだろう(*1)。
父親は、防衛駐在官。
母親は、第442連隊戦闘団で活躍した先祖を持つ日系人。
然し、父親は、我が子の誕生の現場には、居なかった。
―――不倫であったから。
昭和22(1947)年に姦通罪が廃止された為、不倫は犯罪ではない。
だが、『出る杭は打たれる』という諺がある様に、
然し、人間は、どんなに白眼視や反対され様が、禁断の恋に燃え上がり易い事がある。
在米邦人と日系人の交流会で出逢った2人は、ロミオとジュリエットの様に燃え上がり、愛し合った。
その恋と愛は、7日間。
悲恋と同じ時間である。
その後、不倫の情報を知った防衛省が週刊誌に素っ破抜かれるよりも早く、父親を異動という名の左遷させ、2人の事実婚は終わった。
にも関わらず、母親が世界貿易センターの病院で産める事が出来たのは、彼女が名家の御令嬢であったからだ。
母親の実家は権力でその事実を揉み消し、架空の父親を用意し、こちらも醜聞を揉み消した。
その結果、ここに「愛妾の子供」が名実共に誕生したのだった。
「奥様、お名前は、如何します?」
「そうね……」
午前8時。
我が子を抱いた母親は、考える。
和名か、英名か。
日本人とアメリカ人が国際結婚した際、和名でありながら英名でもある名前を付ける場合がある。
それに国籍の事も将来的には、考えなくてはならない。
制度上、男児は日本とアメリカの二重国籍となった。
然し、日本は二重国籍を認めていない為、22歳になるまでに米国籍を放棄しなければならない。
平和な日本で生活させたい一方、生まれ故郷のこの国で日本以上の専門的且つ高等な教育を受けて欲しい気持ちもある。
贅沢な悩みだ。
「……1時間程考えさせて」
「は」
侍従は、会釈して去って行く。
白人の看護婦が、興味津々にその様を見ているが、直ぐに仕事に戻った。
人種の
(もしかすると、新人なのかな)
微笑ましくなる母親であった。
然し、平和は長くが続かない。
最初の悲劇まで46分後。
この日、こことその周辺だけで2千人以上が亡くなり、更には歴史の変わり目になる転換点なのだから。
アメリカでは我が子に名付けする際、気を付ける場合がある。
・ナイジェル
・ラティーシャ
と言ったアフリカ系の名前は、時に面接の際、書類審査で不合格になる、という話があるからだ。
その為、一部のアフリカ系は、我が子に白人風の名前を命名する場合もあるとされる。
ある調査によれば、カリフォルニアで生まれたアフリカ系の女の子の30%が、同年に生まれた数10万人の女児に同名が一つもない「オンリーワンネーム」だった。
アフリカ系名前のトップ20には、
・Precious
・Asia
・Tiara
等が並ぶ。
これは、1960年代のブラック・パワー・ムーブメントで、「アフリカ系は、アフリカ系らしい名前をつけよう!」という事になってからだ。
アフリカ系が自ら「アフリカ系らしい名前」を揶揄した分類によれば、
・なんちゃってスワヒリ語系
・ブランド系
・自信過剰系
・想像を絶する変なの系
があるらしい。
この手の名前は、名前を見ただけでアフリカ系だと推測されてしまう名前でもある。
そして、その調査によれば、そういう変わった名前であっても経済的な裕福さは下がらない、という(*2)(*3)。
公民権運動により、公での人種差別は廃止されたが、建国以来、人種差別が続く国内を法律如きで変える事は難しい。
インドでも憲法でカースト制度を廃止したが、2千年以上続く悪習を近代の概念で覆す事は困難で今尚、差別が続いている。
だからこそ、母親は我が子の為に苦労しない様な名前を検討する。
―――
『候補
・ノア (平和)
・リアム (勇敢な守護者)
・イライジャ(主なる神)
・オリバー (
・ジェームズ (イエスの弟子)
・メイソン (石工職人)
・ローガン (小さな空洞)
・ルーカス (光を運ぶ者)
・マテオ (神からの贈り物)
・イーサン (堅固、長寿)』(*4)
―――
一生背負う名前だから、熟考が必要だ。
本当は、産む前に適当な名前を考えていたのだが、いざ、本人を目前とすると如何しても躊躇いがある。
だからこその白紙化だ。
8時20分。
35分。
40分。
45分と時間は、過ぎていく。
46分になった時、侍従が慌てて入って来た。
「御嬢様!」
「? 如何したの?」
「飛行機が突っ込んできます! 御逃げ下さい!」
「は?」
意味が分からない。
然し、論より証拠とばかりに侍従は焦った顔でカーテンを開けた。
「!」
アメリカン航空11便が、こちらに向かって突っ込んでくる。
まるでパニック映画を観ている様な感覚に陥り、母親は一歩も動けない。
「失礼します!」
侍従が母親の手を取り、寝台からは降ろす。
その際、我が子が寝台に落ちた。
「あ!」
「御嬢様!」
母親が、手を伸ばす。
直後、11便が窓硝子を突き破って来た。
『彰さんが、迷子になってるの。早く見付けてあげて―――』
『えー、番組の途中ですが、ニューヨークで大きな航空機事件がありましたので、緊急の
報道センターから御伝えします。
ニューヨークの超高層ビル、世界貿易センタービルのツインタワーに日本時間の今夜11時5分頃、2機の航空機が突っ込み、ビルは現在も炎上しています。
CNNテレビによりますと、2機が18分の間隔をおいて突入した、という事です。
えー、一部メディアによりますと、イスラム過激派が犯行声明を出した、との情報もあります。
保守系メディアが伝えている所によりますと、6人が死亡、約1千人が負傷した、との事です。
この世界貿易センタービルは、ニューヨーク市マンハッタン島最南端にありまして、アメリカの金融街を支える象徴とするビルです。
金融業界の企業も沢山入っておりまして、約1200の企業が入っている、と言われています。
1日約5万人もの人々が出入りし、働いています。
現在、ニューヨーク市は、午前9時を回った所で事件発生時、企業が開店前という事もあり、
丁度、通勤時間にも当たっていた筈です。ニューヨークと電話が繋がっていますでしょうか?
……ちょっと音信不通で……』
日本でも放送中のドラマが中断され、報道特別番組が各局で行われていた。
伝えられる情報は、誤報や虚報が混ざり合い、どれが真実か分からない。
アメリカでは激突した瞬間が、何度も放送され、アメリカ人の心を何度も殺す。
「F〇CK(糞)!」
「Oh my God(何て事だ)!」
燃え盛る火から逃げ、飛び降りる者も相次ぐ。
どれだけ地上の人々が、
「飛び降りるな!」
「助けが来るから待ってろ!」
と叫んでも、彼等には通じない。
焼死するよりも、
当然、空中で均衡を崩し、頭から落ちていく者が多い。
固い
世界貿易センタービルの路上には、無数の血の海が出来た。
それでも、飛び降りは相次ぐ。
自分だけは死なない。
自分だけは、大丈夫。
正常性バイアスが働いているのかもしれない。
午前9時59分。
炎上後、約56分保っていた南棟が崩れていく。
多くの人々を圧殺し、灰が霧の如く街の大部分を襲う。
崩壊した理由は、航空機の衝突による構造的ダメージに加え、ジェット燃料が引き起こした火災の熱が構造部材の強度を著しく低下させた事であった。
午前10時28分、南棟に続き、北棟が約1時間42分炎上後に崩壊する。
テロ攻撃による死者は合計で2763人だった。
その内訳は、
民間人 :2192人
消防士 :343人
警察官 :71人
乗員・乗客:147人
テロリスト:10人
となっていた。
死者の民間人の90%以上は、ジェット機が直撃した階以上の階層に居た人々だった。
北棟では、直撃を受けた階以上の階層に1355人が閉じ込められ、煙の吸引・塔からの落下・最終的な塔の崩壊等の理由によってその全員が死亡した。
北棟の三つの非常階段全てがアメリカン航空11便の衝突の際に破壊されており、上層階から人々が脱出することは不可能だった。
一方で、(北棟において)直撃を受けた階より下の階層で死亡した民間人は107人とされている。
南棟で死亡した民間人は計630人であり、北棟の半分以下の数字だった。
南棟では、北棟へのジェット機突入の直後から多くの人々が自主的に避難を開始していた為、死者数は大幅に抑えられた。
一方で、『USAトゥデイ』は最初のジェット機突入後に南棟に居た全員を避難させる事が出来なかった事を「事件当日に起きた大きな悲劇の一つ」と評している。
南棟では、ユナイテッド航空175便の衝突後も非常階段の一つ(A階段)が崩壊を免れており、このA階段を利用する事で18人(直撃を受けた階から14人、それより上の階から4人)が生還した。
ジェット機の衝突によって北棟・南棟では昇降機が停止し、多くの人が閉じ込められた。
『USAトゥデイ』の推定では、最小で200人、最大で400人がツインタワーの昇降機に閉じ込められた状態で死亡したとされている。
昇降機に閉じ込められたものの、そこから自力で脱出した生還者は21人のみだった。
昇降機における死者は、ケーブルの破断による昇降機の急落下や、昇降機への火炎の侵入によって死亡しており、それらを免れた者も棟の崩落時に死亡した。
ツインタワーからの転落もしくは飛び降りによる死者は最低でも200人と推定されている。
その殆どが北棟で発生したものであり、南棟からの転落・飛び降りによる死者は12人に満たなかった。
北棟から落下した人々の多くは、塔に隣接する道路や広場及びビルの屋上に叩きつけられて死亡した。
消防士の1人は落下してきた人の巻き添えとなり死亡した。
北棟の101~105階を占めていた投資銀行では、他の雇用主を大きく上回る658人もの従業員が犠牲となった。
その直下、北棟の93~100階を占めていた企業では358人の従業員が犠牲となった。
南棟の企業では175人の従業員が犠牲となった。
米国立標準技術研究所は、事件発生当時のワールドトレードセンター・コンプレックスには約1万7400人の民間人が存在したと推定している。
港湾公社のターンスタイルによる記録では、午前8時45分には(通常は)1万4154人がツインタワー内に存在したことが示唆されている。
ジェット機が直撃した階よりも下の階層に居た人々は、その大半が安全に塔から避難する事が出来た。
ツインタワー南棟の崩壊時、当時南棟に居た民間人、消防士並びに警察官は全員死亡し、塔周辺の道路やビルでも多数の死者が生じた。
北棟の崩壊時には、12人の消防士、1人の警察官及び3人の民間人が崩壊を免れた非常階段に守られる形で生き残ったが、それ以外に生存者は居なかった(*5)。
―――
崩壊後、救助隊が生存者を探していると、
「……何て事だ」
消防士は、思わず、マスクを外す。
灰が降り積もる中、危険な行為だが、それでもそうせざるを得ない程、感銘を受けたのである。
彼の目前に居るのは、事切れた母親とその胸に抱かれて眠る新生児。
母親は最後の力を振り絞り、我が子を抱き締めていた。
母は強し。
まさにその言葉通りだ。
「「「……」」」
消防士達は、
一部は、泣いていた。
泣き顔の隊長が、十字を切って言葉を掛ける。
「聖母様と出会えた事を神に感謝致します。どうぞ安らかな旅立ちであります様、心よりお祈り申し上げます」
その瞬間、灰の世界に光が差した。
[参考文献・出典]
*1:https://michill.jp/author/articles/1043
*2:『ヤバい経済学: 悪ガキ教授が世の裏側を探検する』スティーヴン・レヴィット スティーヴン・ダブナー 東洋経済新報社 2007
*3:https://chikawatanabe.com/2013/06/25/names/
*4:https://ny-benricho.com/life/american-name/
*5:ウィキペディア
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