第二章 始まる逃走

第10話 二人は容疑者

 夢とも現実ともつかない中で、声がしていた。


『……側にいれば、また殺してしまうかもしれない……』


 大好きな声なのに、その声は常日頃姉妹に向ける優しいものとは違い、強張り、緊張し、今にも泣きそうだった。


『折角、母から取り戻したのに……』


 目を合わせる度に、顔を歪め、悔いるように目を逸らす。眉根は寄せられ、栗色の瞳は細められ、その美しい顔はまるで睨んでいるようで。


『少しも上手くできない……。きっと、生まれた時からそうなのよ。わたくしが、ジオになれないから』


 待って、と願う。けれど声にならない。

 夢なのか現実なのか、少しもはっきりしない。

 声だけが降りかかる。


『わたくし、この子のことが……』


 離れないで。

 もう置いて行かないで。

 いい子になるから。

 だから、お願いだから、


『怖くて仕方ないわ』


 愛して――




       ◆




 朝の柔らかな日差しが部屋を満たす頃、レイはもぞもぞと目を覚ました。


(……なんか、嫌な夢見た……)


 内容は覚えていないが、いつも見る夢だった気がする。ことのほか寝覚めが悪い。

 ということで、レイは寝直すことにした。

 だが、瞼を透かして降り注ぐ陽光がどうにも明るい。


(カーテン、閉め忘れた……)


 半覚醒の頭でそんなことを考える。

 それから十数秒。

 違う、と思い出す。


(聖砦じゃなかった!)


 がばりと上半身を起こす。

 慣れない舞踏会の気疲れから泥のように眠ってしまったが、ここはまだレテ宮殿だ。

 そして問題は何も解決していない。


(はぁ~。またあの男女と話さなきゃ……)


 肝心にして最大の難事が寝起きの頭に舞い戻り、早速頭痛がした。どうしたら最小限の会話で目的を達成できるだろうかと、こめかみを押さえた時、


「お目覚めかい。僕のム・可愛いピレインお嬢さん・コリツィ


 爽やかすぎて目を背けたくなるほどの微笑を浮かべて、ハルウが当たり前のようにお茶の用意をしていた。

 プレブラント聖国で主流の黄赤色が特徴的なこうちゃではなく、エングレンデル帝国特有のせいちゃらしい。香りが違う。


(それにしても……)


 現在では使わないような古語が、相変わらず過不足なく似合う。


「……おはよう」


 なんだか聖砦の時と変わらないなと思いながら、レイは挨拶を返した。子供の頃は古語の意味が分からず聞き流し、分かった今は無難に聞き流している。


「もうご飯食べる? 昨日は舞踏会の間にあんまり食べられなかったから、お腹空いたでしょ」


「…………」


 ハルウは、執事ではない。ただの食客だと、祖母からは聞いている。

 そもそも、聖砦では食事をはじめとする家政も、テオスナポス大神殿の修練士から料理人や下女の名目で毎日派遣されていた。何より自分で出来ることは自分でするというのが、聖砦では大前提であった。

 その為、レイは王女でありながらお茶も程々には淹れられるし、掃除や洗濯もある程度は出来る。上手いかどうかは別として。


(っていうのに、毎回淹れてくれるんだよねぇ)


 婦女子の部屋に無断侵入している事実を指摘するのも、最早今更である。

 そして、


 ぐぅぅー。


 腹の虫はいつも正直であった。


「いただきます」


 レイは本能に従った。





 食事の用意が整うと同時にもそりと起きだしたヴァルとともに食事を終えると、レイは早速皇族が起居する上階に足を向けた。

 扉の各所に立つ近衛に一々説明して、第三皇子の私室を訪れる。

 結論から言えば、部屋にはいなかった。廊下で行き会った女官に聞くと、玉妃宮によくいると教えてもらった。


「マザコンなの?」


「マザコンかもな」


「マザコンのようだね」


 北の列柱廊に向かって歩きながら、三人で合意に至る。と、すれ違う女官や近衛兵が何やら小声で囁き合っている様子が目に付いた。


(しまった。もしかして禁句だった?)


 などと考えながら進むと、次第に近衛兵の数が増え、どこか緊迫している雰囲気さえ感じ始めた。

 最も身近な容疑者に事情聴取する。


「……ヴァル、何かしたの?」


「夜中のつまみ食いがバレたみたいだぞ」


 勝手に容疑を確定された。


「失礼な! こんな所でしないよ!」


「聖砦ではしょっちゅうしてるくせに」


「しし、してないよ!?」


 思わず声が裏返った。図星だったからでは、決してない。

 その横で、終始笑みを絶やさないハルウが不意に情報をくれた。


「……どうやら、皇太子の身に何かあったみたいだね」


「え」


「行方不明らしいな」


 驚いて振り仰ぐと、ヴァルもさも当然のように同意する。ヴァルの聴覚が鋭いことは知っていたが、ハルウも同類だったらしい。


(お祖母様も地獄耳だし、聖砦あそこにいるとそうなるのかな?)


 あんまり羨ましくないなぁと思いながら、周囲に聞こえないように先を促す。

 レテ宮を出て外回廊に至る頃には、玉妃宮に十数名の近衛兵が集まっているのが見えた。その分、二人の耳も情報を次々に拾う。


「部屋に血痕があったらしいな。入口付近と、ソファの手摺」


「どうも、昨日最後に会っていた人物が最も疑わしいらしいね」


「……ちょっと待って。それって」


 嫌な予感がした。皇太子があの後舞踏会に戻っていなければ、容疑者は絞られる。


「フェルゼリォンを探してる所のようだな」


「やっぱり!?」


「彼がそのあと女性と会っていたという証言もあるらしいね」


「…………」


 それまで列柱の陰に立っていたレイは、最速で外壁沿いに植えられた生垣の隙間に滑り込んだ。ヴァルもぴょんと足下に続く。

 失踪した皇太子。

 現時点で最重要容疑者である第三皇子。

 その第三皇子と夜な夜な会っていた女――多分、自分レイ


(怪しさ爆発じゃん!)


 サーッと蒼褪めた。

 赤や紫のアザレアの花が咲き誇る生垣の足下から、忙しく行き交う近衛兵の靴を盗み見る。気付かれてはいないようだが、こんな場所に隠れていてもどうにもならない。

 だからと言って、部屋に戻るのも早計だろう。フェルゼリォンに続いてレイが舞踏会を抜け出したことは多くの者が見ているし、あらぬ憶測と相まってすぐに確認は寄越されるはずだ。

 それですぐさま共犯などと疑われたりはしないだろうが、それでも身動きを制限されることは間違いない。

 加えて、レイは玉妃宮で盗み聞きの神法を使った。宮殿には神法を感知する法術があるから、そんな怪しい神法を使った者が誰か分かれば逃げ道はまずないと言っていい。


「どっどどういうこと!? まさかあいつ、私と別れた後、またお兄さんの所に戻って、それで揉めて……刺」


 した、という言葉はけれど、眼前に突き出された白刃によって喉の奥に引っ込んだ。

 首に鋼の冷気が届き、と同時に背後に人の気配を感じる。


(ま、まさか、もう近衛が……?)


 真っ先に過ったのは、最良の言い訳は何か、であった。母と祖母へどうやったら迷惑をかけないか。その次がハルウとヴァルを逃がすことで、最後に自分の進退。


(……母なる女神よ。恵みの御業のうちに私をお導きください。この道行きが正しきものとなるようにお見守りください)


 服の上から首飾りを握り、祖王ユノーシェルに加護を願うことで、跳ね回る心拍を無理やり落ち着ける。

 今日はいつもの旅装束で、腰には短剣もある。いざとなればと、物騒な思考が脳裏を掠めた時、


「お前、何でこんな所に隠れてる」


「!」


 聞き知った声がすぐ耳裏で囁いた。

 レイは声もなく橄欖石ペリドットの瞳を見開いた。その前でヴァルが威嚇の唸り声を上げ、ハルウが目を細める。

 その二人をどうにか目で制して、レイは背後で剣を構えたままの第三皇子に、目だけを向けた。


「あんたこそ、殺したの?」


 意図的に冷たく、挑発的に問う。

 フェルゼリォンが犯人であれば、このまま拉致されるか、笑って誤魔化すか。発作的であったなら、微かにでも動揺するかもしれない。

 だがレイの予想に反し、応えたのは首筋を狙っていた剣の方だった。つ、と刃が肌に触れる。


「ッ」


 ぞっと、初めての感覚に皮膚が粟立った。けれど必死で押し殺す。


「誰から聞いた」


「……ここの近衛、ちょっと騒ぎすぎよ」


 どうにか声の震えを堪えて、何でもないように返す。

 実際、背後から伝わるのは予想したような動揺ではなく、完全に敵と認識する寸前の声であった。刃も声も震えていない。慣れない挑発は失敗したようだ。

 一時、窺うような沈黙が二人の間に流れる。

 だがすぐにチッと舌打ちが上がり、疲れたような溜息があとに続いた。


「んなことするか」


 幾分棘の消えた声とともに、剣が離れる。

 そのわだかまりのない反応で、レイもフェルゼリォンの置かれた状況を何となく察した。

 皇太子が自主的に消えたのか誰かの手が加わったのかは分からないが、どちらにしろフェルゼリォンは利用されただけなのだろう。事前に打ち合わせがあれば、こんな所に隠れてなどいない。


「だと思った。どう見てもお兄様に頭が上がらないみたいだったしね」


「は? 何のことだ」


「あ」


 緊張が切れたせいで、思わず余計な本音が零れてしまった。

 誤魔化すように首の出血を確認しながら、けれどすぐに諦める。腹を探り合うような駆け引きなど、そもそもレイに出来るはずもない。

 仕方なく、くるりと振り向くと、フェルゼリォンに膝立ちで向かい合った。


「昨日。夜、玉妃宮あそこでお説教されてたでしょ」


「まさか……盗み見てたのか?」


「王証を探しにここまで来たんだから、仕方ないでしょ?」


 小声で会話を続けながら、ぶすりと言い訳する。舞踏会場から先に逃げたのはフェルゼリォンだ。これは不可抗力なのだ。

 というつもりの文句だったのだが、話は予想外の方に飛んだ。


「だったら、証言しろ」


「……は? 嫌よ」


 即答した。

 これでも一応れっきとしたプレブラント聖国の王女が、外壁に張り付いて盗聴していたという事実を公表するなど、とんでもない。母に知られようものなら、二度と会ってもらえなくなるかもしれないではないか。

 大体、このタイミングで名乗り出ても、協力者と見られるのがオチだ。根も葉もない疑いのために無駄に拘束されるなど、たまったものではない。


「私は、王証を貰えればそれでいいの」


「証言しないってんなら、俺は交渉もしない」


「なっ! 証言したって二人して捕まるだけでしょ!? あんたのせいで、私まで目を付けられそうなんだから!」


「不審な動きをするからだろ」


「失礼ね! それもあんたのせいでしょ!?」


 生垣に隠れたまま、藍晶石カイヤナイトの瞳と睨み合う。見事な平行線であった。

 レイを守るように威嚇していたヴァルも、すっかり警戒を解いて毛繕いを始めている。

 残るハルウはというと、何故か身を隠すでもなく列柱に背を預けて、フェルゼリォンを睨み付けているが。

 果たして。


「……くそ。関わりたくなかったのに」


 先に折れたのは、フェルゼリォンの方だった。

 くしゃりと前髪を掻き上げ、はぁーと長い息を吐く。

 そして。


「分かった」


 そう言って、渋々剣を鞘に収めた。


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