センセイ

迎ラミン

センセイ

「Vai !!」「Concentrar !」「Mais !」


 畳に向かって叫ぶ私を、近くに座る日本人が驚いて見つめる。そのうちの何人かは、「ああ」という顔で納得してくれてもいる。

 なんにせよ、私は気にしない。私もConcentrar=集中しているから。


「Incrivel !」


 素晴らしい! 

 なんて見事な足さばき! 外にステップを踏むと見せかけて、急角度に方向転換して内股狙い。私の得意技を、彼はもう私以上に使いこなす。


 ――ああ! Pedaladaみたいにすればいいんだね!


 そう笑ってコツを掴んだら、すぐに上手くなったっけ。今でも大好きで、でもプロにはなれなかったというサッカーのフェイントに似ているとのことだった。


「OK ! Bom !」


 私が頷いたところで、審判の向こう側に見え隠れするモニターの数字が、残り一分を切った。場内のビジョンにも表示されているけれど、畳から目を切るわけにはいかないのでありがたい。目を切るな。Concentrar. そして技をかけたあとも「Zanshin」=残心。私自身が、いつも彼らに教えていることだ。


 ああ、でももう少し! 一番いい色のメダルまで、あと少し! Calma,Calma,Calma !


 落ち着いて、と胸の内で連呼する相手は自分だろうか。目の前で戦う六十六キロ級の教え子だろうか。


「Vai ! Robert ! Ao fim !」


 いけ、ロベルト! 最後まで! 


「キヨセンセイ、Last 30second !!」


 隣に座るナタリーが英語で叫んだ。彼女も興奮している。普段は私ともポルトガル語で話すことの方が多いくらいなのに。


 ロベルトの足がふたたび、Pedalada=ペダラーダのステップを踏む。疲れ切っているだろうに。ここまでの連戦と緊張で、ふくらはぎなんて攣りそうになっているだろうに。相手に何度も蹴られて痛いだろうに。


 いつしか、私は涙を流していた。




 選手は皆、私を「センセイ」と呼ぶ。

 今はもちろん、かつてナタリーたちを指導したイギリスでもそうだった。最初は不思議な感じがしたけれど、すぐに慣れた。


 だって、たしかに私はセンセイだから。

 彼らに柔道を教え、より高みへと導く指導者だから。監督だから。


 私とナタリーが今着ているポロシャツは、日本のメーカー製だ。指導者になる以前、選手だったときも愛用していた。道着もすべて同じメーカーだが、丈夫だし格好いいと選手たちにも評判である。さすがメイド・イン・ジャパン。

 けれどもポロシャツの胸には「金色と緑色」の愛称で知られる、ロベルトたちと同じ国旗がプリントされている。豊かな森林を表す緑の地に、鉱物資源を象徴する菱形の黄色。そしてリオデジャネイロの空を映した、星座入りのブルーの円。ナショナルチームコーチングスタッフとしてのチームウェア。


 私、じようきよは日本人だ。ついでに言うと夫のみつるも日本人で、三歳になる一人息子のたけふみもいる。職業は柔道指導者。二十代の頃、語学留学したはずのイギリスで「柔道界への恩返し」のつもりでコーチを始めたら、あれよあれよという間にイギリスの女子代表チームから声がかかり、幸運なことに教え子のナタリーがオリンピックの銀メダリストにまでなってくれた。その実績を買われて現在の国からオファーがあり、前回の五輪には女子代表チームのコーチ、そして今回、二〇二〇年はなんと男子の代表監督として、前回大会で現役を退いたナタリーをコーチに招聘しつつともに参加させてもらっている。


 柔道の母国出身とはいえ、選手から見ればアジアの小さな島国から来た外国人、しかも今は男子選手を指導する女子監督という立場に関して、注目はもちろん、いらぬ心配までしてくれる人たちもいる。そしてそれは、なぜか日本のメディアに多い。


 けど、関係ない。Nada a ver. イギリス時代もIt doesn't matter.だといつも言っていた。言い聞かせてもいた。


 男だから? 女だから? 農耕民族と狩猟民族だから? 島国と大陸だから? 柔道とJUDOは似て非なるものだから? 文化が違うから?


 関係ないです。そんなことありません。私自身はまったく感じません。


 薄っぺらな、答えありきのテレビ番組や雑誌に取り上げられるたび、ときにさらりと、ときにズバッと私は答え続けた。今もそうだし、このオリンピック前などは特に似たような取材の依頼が多くて、協会を通じて何件も断ったくらいだ。正直、いい加減にしてくれという思いもある。


 ――キヨさんが勉強不足のインタビュアーに答えるときって、ほんと内股ばりの切れ味だよなあ。


 オンエア動画のなか、タレント上がりの若い女性アナウンサーからの質問を、「関係ありません」と被せ気味に否定する私を見て、三歳年下の夫がこのあいだも苦笑していた。自覚もしている男前(という言葉もあまり好きではないけど)な性格の私をふわりとした笑顔で受け止めて、主夫としてどんな国へも付いてきてくれる彼。「俺は世界を股にかけるヒモだから」と冗談めかして語り、私よりも健文のおむつを変えるのが上手だった彼。この人じゃなければ私は結婚しようとは思わなかったし、そもそも好きにならなかっただろう。練習場にもよく顔を出し、選手ともすぐに仲良くなってくれる彼もまた、私から少し離れた席で健文とともにロベルトに声援を送っている。


 ああ、と私は思い出した。

 いつだったか、ロベルトもインタビューされてたっけ。あれも日本の女性誌だった。女性誌という時点でちょっと嫌な予感もしたけど、大学時代の恩師からの紹介もあったし、わざわざ地球の裏側まで足を運んでもくれるということだったので、練習後に三十分ちょっとだけ取材を受けたのだった。


 ――Nao, nao! キヨセンセイハ、キヨセンセイ。Simplesmente センセイ!


 私のインタビューが終わったあと、代表候補選手たちの話も聞きたいと言ってそのライターはロベルトを掴まえていた。少し遠くでのやり取りをなんとはなしに見つめていた私の耳に、めずらしく強い口調でそう答える彼の声が聞こえたのだ。かつて、やはりナタリーが「No. キヨセンセイ is キヨセンセイ。Just a coach. Our great coach.」と、きっぱり答えてくれたものと似たような質問をされたのだろう。


 ――Obrigada.


 ありがとう、と口の動きだけで伝えた私の反応もまた、まったく同じだった。


 そうだ。私はどこへ行っても、どこまで行っても単なる「センセイ」だ。やわらの道は、どんな地でも柔の道。百四十年ほど前、講道館ができたときからそれはずっと変わらない。その柔道を通じて技と、体と、そして心を教え、逆に彼らからも教わることのできる素晴らしい職業。柔道のセンセイ。




 ちょっぴり滲んだ視界の向こう側で、ロベルトが動き続ける。一瞬過去へと飛びかけた私の意識を引き戻すように、相手の襟を、袖を、握り続ける。何度もステップを刻み続ける。天然パーマの髪からは汗がしたたり、大きくはだけた青い胴着の胸元からは、相手に引っかかれたであろう赤い傷も見える。


「ああ……」


 私は手で鼻から下を覆った。

 いいよ、ロベルト。君がBemならもうそれでいいよ。メダルは確定してるんだよ。ナタリーと同じ色のメダルでもじゅうぶんだよ。生まれ育った貧民街に道場を建てたいっていう夢も、世界で二番の肩書きがあれば間違いなく叶うよ。


 ぐすんと鼻をすすりながら、監督なのにこれじゃいけない、とそれでも頭の片隅で思ったとき。


 畳から、声がした。


「サイゴマデッ!!」


 ロベルトの口が動いただけ。でも、はっきりと私の耳には届いた。言葉が。ポルトガル語ではなく、なぜか日本語で出てしまう口癖が。

 四分間、最後まで。ブザーが鳴り終わるその瞬間まで、Concentrar.


 そして。


「キヨセンセイッ!」

「キヨさん!」

「ロベルトー!」


 息子の健文だけが、いつも自分を肩車してくれるお兄さんの名前をきちんと呼んでいた。監督が主役じゃない。アスリート・ファーストなのだと本当の意味で理解していたのは彼だけだったと笑えたのは、あとになってからのことだ。


 小さなサポーターに応えて、青い道着が舞う。

 私の教えたステップで。私よりも上手なステップで。


 コンマ数秒後、「金色と緑色」の国旗を胸に抱いた教え子が、私の母国を、日の丸がプリントされた白い柔道着を、見事に跳ね上げた。




 国旗の一部と同じ色のメダルを首にかけて、ロベルトが観客席によじ登ってくる。


 ちょっと、危ないってば。ロベルト、あんたこれ世界中に中継されてるってわかってる? 汗と涙でびちょびちょだし。彼女に嫌われるよ? サッカー女子代表のあの子と、付き合ってるんでしょう? まあ、お似合いだけどさ。


 人のことは言えない顔で照れ笑いをする私に、金メダリストが抱きついてくる。いつもの言葉とともに。


「センセイ!」




Fin.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

センセイ 迎ラミン @lamine_mukae

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ