第1部 第2話

「……ね! ……おね! 汐音!」


「わあっ!」




 私は誰かに呼ばれた気がして跳ねるように上体を起こす。




「あれ、ここ……? お母さん、なんでここにいるの」


「あー、びっくりした。あんた、寝ぼけてんの? 寝すぎでしょ。今何時だと思ってんの?」




 そう言われてきょろきょろと辺りを見渡す。


 ……飽きるほど見慣れた個室。毎日私が寝て起きている部屋。つまり、ここは自分の家で、自分の部屋。私は自分のベッドで寝ていて、お母さんが私を起こしにきたみたい。


 壁に掛かっている時計を見ると今は十一時過ぎだった。


少しずつ記憶がよみがえってくる。あれ、昨日、私は……私は、こうちゃんと遊んで、それから、あの廃墟で……。




「もう、夏休みだからってだらけすぎ。もうすぐ学校始まるのに……」


「っ! お母さん! こうちゃん、こうちゃんは⁉」




 そうだ。私はあの廃墟で、昨日、こうちゃんがよく分からないモノに絡めとられて。そのまま意識を失って……。


 再び動悸が激しくなってくる。私は、私は、どうして、どうやってここに。




「こ、こうちゃん? こうちゃんがどうかしたの? あんた昨日一緒に遊んでたじゃない」


「昨日って……今日は何日⁉」


「二十四日よ。あんたまだ寝ぼけてんの?」




 ……間違いない。あれは昨日の出来事だ。




「お、お母さん! 変なこと聞くかもだけど、私昨日、どうやって家に帰ってきたの⁉」


「はぁ? 普通に夜に玄関から帰ってきたじゃない。気分が悪いって言ってそのまま寝ちゃったみたいだけど。あんた寝すぎよ」


「え……なに、それ……」


 そんなの、全然覚えてない。だけど、よく見れば私の今の格好は昨日遊んでた時のままだ。


「あんたまさか、お酒飲んでたんじゃないでしょうね。いくらこうちゃんと一緒だからって、お母さんそんなの許さないわよ!」


「ち、違う違う、そういうんじゃないよ!」




 お酒で記憶がないのだったら、どれほどよかったか。


 ……今も鮮明に思い出せる昨日の記憶。廃墟に居たあの禍々しいなにか。それに捕えられたこうちゃん。胸が張り裂けそうなほどに鼓動が早くなる。お母さんとこんな問答をしてる場合じゃない。


 お母さんは訝しんで私に何か小言を言っているようだが、そんなことは全く頭に入らなかった。私はベッドから跳ねるように飛び出すと、そのまま部屋を出る。




「ちょっと汐音! あんたどこ行くの!」


「こうちゃんの家に行ってくる!」


「ちょっとあんた、そのまま行く気⁉ 身支度くらい整えていきなさいよ!」




 ……そんな言葉が背中から聞こえて来たが、今の私の耳には入らない。確かに年ごろの女の子がお風呂にも入らず、昨日の服を二日連続で着て(しかも夏場です)、寝ぐせも直さず顔も洗わず歯も磨かずにノーメイクで外に出ようとしたら母親としてというより女性として止めるのは当然だと思う。


 でも今はそんなこと言ってるような状況じゃない。


 一刻も早く、こうちゃんがどうなったのかを確かめなければならない。私はもう一度あの廃墟に向かうため、飛び出すように靴を履いて玄関から外に出る。私は飛び出すように走ってあの廃墟に向かおうとした……けど。その前にこうちゃんの家に寄ってからにすることにした。いくらなんでも、また私一人であの廃墟に向かうほど馬鹿じゃない。人手が必要だ。まずはこうちゃんの家族に事情を話そう。


 幸い、こうちゃんの家は、はす向かいだからすぐそこだ。……こうちゃんは小学生の頃にお父さんを亡くして、今は少し情緒が不安定なお母さんと二人で暮らしている。……少しね。少しということにしておきます。


 昔はこうちゃんのお母さんは優しかったけど、今はちょっと苦手……。


 でも今はそんなことを言ってはいられない。まず間違いなくこうちゃんは家に帰ってきていないと思う。私はこうちゃんが今、どこに居るのかを知っている。まずはこうちゃんのお母さんに事情を話して、それから警察に行って……。ああもう、とりあえず動かないと!


 私は『吉田』という表札のかかったこうちゃんの家の門の扉を開けて、玄関の横のインターホンを押す。ちなみにこうちゃんの本名は吉田浩平で、私の苗字は四条。本名は四条汐音です。




「……はい? どなた?」




 早速、不機嫌そうなこうちゃんのお母さんの声が聞こえる。


 うう、やっぱりこの人は苦手だ。いつも大体ダウナーな感じで私に接してくる。私だけにそうなのか他のみんなにもそうなのかは分からない。




「あ、あの、私、四条です。四条汐音。ちょっとこうちゃんのことで」


 お話したいことが、と言いかけたところで、こうちゃんのお母さんは叫んだ。


「こうへいー! 汐音ちゃんよー!」


「え?」




 思わず、間抜けな声が漏れてしまった。




「そこで待っててね。今呼んだから」


「ええ? ちょ、ちょっと待ってください! こうちゃん居るんですか⁉」


 何かの間違いじゃないですか? 昨日から家に帰ってきてないことに気づいてないんじゃ?


 そう言おうか迷ったところでお母さんが不機嫌そうに言葉を続ける。


「……なに? ここは浩平の家なんだからいるに決まってるじゃない。浩平に用があるんじゃないの?」


「あ、ええと、そ、そうです、こうちゃんにちょっと、ええと、聞きたいことがあって」




 予想と違う展開に少し戸惑って、どもってしまう。どうやらお母さんはこうちゃんが家にいることに確信を持っているみたいだ。


 ……本当にこうちゃんが家にいるんだろうか。


 と、未だに疑心暗鬼だったけれども、家の中からどたどたと階段を下りる音が聞こえてきて、玄関の扉が開く。




「や、汐音ちゃん。昨日は楽しかったね。どしたの?」


「…………!」




 居た。本当に居た。こうちゃんは陽気に手を挙げてにこにこしながら私に挨拶してきた。


私は目を丸くしてこうちゃんの姿を上から下までじっと眺める。


 ……どうやら傷一つないみたい。えっと、それになんだか、いつもよりも、よ、陽気? 明るい気がする。あのこうちゃんが??




「ん? どしたの汐音ちゃん。僕に何か用があったんじゃないの?」


「え……と、用……用っていうか、その」


 あまりにも普通なこうちゃんに思わずたじろいでしまう。


「用っていうか……だから、昨日のことだよ! こうちゃん、昨日あれからどうなったの⁉ どうやって戻ってきたの⁉」




 だって、昨日あんな奇妙で、おかしくて、不思議なことがあったんだよ? いつも通りに接することなんて普通できる?




「へ?」




 私が声を荒げて言うと、こうちゃんはきょとんとした顔をする。




「だから、あの廃墟でのことだよ!」




 なんで私はこんな説明をしなきゃならないんだろう。普通に考えてあんなことがあったんだからそんなこと説明しなくても分かるはずなのに。




「ああ、帰りにちょっと寄った廃墟ね。子供の頃は楽しかったけど、もうあの廃墟で遊ぼうって感じにはならないね、やっぱり」


「え? ええと、そういうことじゃなくて」


「???」




 こうちゃんは私が何を言っているのか分からないという表情をしている。それはとても演技には見えなくて。


覚えて、ない? あの廃墟で起こったことを?




「昨日、帰り道、二人で廃墟に行って、その、廃墟の二階で……」




 私はもう一度首をかしげているこうちゃんに確かめるように言う。ただ、おかしな何かに捕まって、とは言いにくくて言葉を途切れさせてしまった。




「二階? 二階って何もなかったよね?」




 こうちゃんは本気で私が何を言っているのか、何を言いたいのか分かっていないようだった。これはとても演技なんかじゃないし、そもそもそんなことをする必要性も多分ない。


 覚えて、ない? あの一生トラウマになりそうだった出来事を? 


 いや、こうちゃんは廃墟でのことを覚えてないわけじゃない。こうちゃんには私と一緒に廃墟から家に帰ってきたという確かな記憶がある。


覚えていない……のではなく。記憶が書き換わってる?




「ねえ汐音ちゃん。どうしたの? 顔色悪いよ? どこかおかしいの?」


「う、ううん、だい、じょぶ……」




 こうちゃんがおかしい。それとも、おかしいのは、私の方なのだろうか。


 私の記憶のほうがおかしい? 冷静に考えてみれば、あの私の思い付きで偶然寄り道した廃墟に偶然あんな理解不能のものが鎮座してるなんて、わけが分からない。本当に意味不明で荒唐無稽な話だ。そんな偶然ってある? 誰に言っても信じてもらえないだろう。客観的に見れば変なのはこうちゃんよりもきっと私のほうだ。


 じゃあ、あれは夢? 全部私の夢の中の出来事だった? 


 ううん、あの質感、リアルさ、恐怖、焦燥感に無力感。あれが全部夢だったなんてとても信じられない……いや、信じられなかったけど、今は少し揺らいできている。


……何が起こっているのか理解できない不安で頭がくらくらしてくる。私は、こうちゃんの家の玄関のドアに寄りかかって深呼吸をして気持ちを落ち着ける。


 落ち着け。こうちゃんが今ここに居て無事なら、これから私があの廃墟に行く必要はなくなった。それはとっても喜ばしいことだ。もう二度とあんな場所に近寄りたくない。今すぐ何かする必要がなくなったなら、とりあえず家に帰ってゆっくり今後のことを考えられる。そうだ。とりあえずは気持ちを落ち着ける時間が必要だ。




「……それより、さ。汐音ちゃん。俺、汐音ちゃんに謝らなくちゃいけない」


「え?」


「俺、汐音ちゃんに拒絶されたこと認めたくなくってさ、今までしつこくしてたよね。今更ながらに気づいたけど、本当に馬鹿だったよ。迷惑かけてごめん」


「…………」




 え、どうしたんだろ、いきなり。


 なんか今日はちょっとこうちゃん、明るいなー、って思ってたけど、急にそんなことを言われて面食らってしまう。




「汐音ちゃん?」


「あ、え、う、うん、そっか、そう言ってくれるのはすごく嬉しいよ」




 ……嬉しいっていうのは嘘じゃない。こうちゃんは何て言うか、情緒がすごく不安定で、最近はいつもいつも死にたいって言っていて、私は対応するのにすごく疲れていた。死なせたくなくて付き添っていた。……私のせいで死にたいって言っている部分も、多分あるんだけど。


 だからそういうことを言ってくれるのは嬉しいことは嬉しい。嘘じゃない。




「いつまでも落ち込んでちゃいけないよね! 仕事も今日から探すよ! 生まれ変わったつもりで頑張る!」




 だけど、一抹の違和感は拭えない。


 どうして急にこうちゃんがこんなに明るくなったのか。いくらなんでも唐突すぎる。昨日の廃墟での記憶と無関係だとは思えない。




「う、うん、そうだね……。うん。これから、頑張ってね……」




 目の前の幼馴染の男の子が、得体の知れない何かに見えてきて、私は呼吸を荒くする。


 恐怖。人は理解できないことや理解できないものに本能的に恐怖を感じると聞いたことがある。一体こうちゃんに何が起こっているのか。




「……なんだか汐音ちゃん、元気ないね。大丈夫? 家の中でお話する?」




 今日のこうちゃんは昔のように積極的で社交的。普段だったら、クーラーの効いた部屋で冷たいものでも飲みながら少しお話していくのもよかったけれど。




「ごめん、ちょっと夏バテかな……頭がくらくらするんで、家に帰るね……」


「大丈夫? 無理しないようにね?」




 こうちゃんは私を心配する優しい言葉を掛けてくれる。昔からこうちゃんは優しい。明るくて社交的になった以外に変わった部分はない。いつものこうちゃんのままだ。


 私は無理に笑顔を作ってこうちゃんに向かって手を振ると、少しだけよろける足で道路に出て、自分の家に帰った。


 玄関の門を開けて、ドアの鍵を開き、ただいま、と小さく呟いて自分の部屋に戻る。そのままベッドに倒れこむと、お母さんがやってきてまた小言を言われ始めたけど、私の具合が本当に悪そうなことを悟ると急に優しくなって、静かに寝ていなさいと言ってくれた。


 ……正直、今は誰とも話したい気分じゃないので助かった。


 ベッドに横になりながらスマホをポケットから取り出すと、こうちゃんからLINEが来ていた。




『大丈夫? ゲームなんかしないでゆっくり休みなよ?』




 そんな、私の身体のことを心配してくれるメッセージ。最近は私が心配してばかりだったから、こういうのは新鮮に感じる。……ふと、思い立ったことがあって、私は指をせわしなく動かしてこうちゃんに返信を打つ。




『はーい。ゆっくり休みます。風邪なんて生まれて一度も引いたことないくらい頑丈なのに。不覚。』




 絵文字を交えて何気なさそうに昔の話をこうちゃんに振る。そのメッセージはすぐに既読になって、また新しいメッセージがスマホの液晶画面にポップアップされる。




『汐音ちゃん、子供の頃身体弱かったでしょ。強がらないの(笑)』




 …………。


 何気なくカマを掛けてみたけど、こうちゃんには子供の頃の記憶もちゃんとある。冷静に考えれば、こうちゃんはさっき、子供の頃二人で廃墟に行ったことも知ってたし、私が、その……こうちゃんを拒絶したことも知っていた。


 つまり、あのこうちゃんが偽物ということはなさそうだ。


 ……………………。


 偽物て。こうちゃんが明るくなるのはそんな疑いを持つほどの大事件か! そんなことを疑ってしまうのは、ひょっとして私の情緒の方が不安定になっているのでは。




「あー、もうっ、寝よ寝よ……」




 きっと、私は少し疲れてるのだ。しっかりと睡眠をとって、頭がすっきりしているときに考えれば考えもまとまるはず……。


 昨日何時に寝たのかは自分でも覚えてないけれど。妙に疲れていた私は、タオルケットを被ると微睡みの中に落ちていった。








 八月三十一日。


 あれから特に何か変わったことは起きていない。こうちゃんは相変わらず明るくなったままで(仕事はまだ見つかってないけど)、私の身にも特別なことは起きていない。いつもと変わらない日常が戻ってきた。


 きっとあれは夢だったんだろう……そういう風に思えてきた。ひょっとしてカラオケでお酒でも飲んじゃったのかな? お酒なんて一度も飲んだことないので自分が飲んだ時にどうなるのかは分からないけれど、ひょっとしたらお酒の力で意識が半分飛んじゃって夢見心地だったのかもしれない。フロイト先生に私が見た夢のお話をしたら、とてつもなくえっちな深層心理について熱弁してきそう。あれ、ユング先生だっけ? どっちだろう。


 それに、仮にあれが現実だったとしても、それがどうしたの? っていう気にもなってきた。結局変わったことと言えば、こうちゃんが明るくなったことだけだ。それってすごくいいことじゃない。何一つ、私の身に悪いことは起きていない。だったらあのことは夢だろうと現実だろうと気にしないでこれから普段通りに生きていけばいいだけの話。


 ……なんだけど。


 それはただの理屈であって、実際のところそんな風に割り切れるものじゃない。


 私はここ三日、気になって気になって仕方がないのだ、あの廃墟が。


 あーもう、行ったところでどうにもならないって分かってるのに!


 私は夏休み最後の一日をベッドの上で物理的にゴロゴロと左右に転がりながら悶えていた。自分でもあほくさいと思う。




「こんなに悩むんだったら行っちゃおうかなぁ……でも怖いしなぁ……」




 私はまるで、夜中の寝てる時にトイレに行きたくなったけれどもやっぱり面倒くさくて行くかどうか迷っているような状態を昨日からずっと続けています。おかげで少し寝不足。本当に馬鹿らしい。




「もー、本当に私ってば! うん、行こ! 行っちゃおう!」




 これから何日間、こうやって悩み続けるのか、それによって生じる時間的及び精神的な損失から生まれるマイナスの文化活動及び経済活動効果を考慮した結果……というわけでもないのだけれど、とにかく私はもう一度廃墟に行くことにした。もう夏休みも最後だし、すっきりと夏休み中のことは片付けてから学校に行きたい、というのも私に踏ん切りをつけさせた理由の一つかもしれない。


 昼過ぎになってもなおパジャマだった私はそう一念発起すると、ベッドから起き上がって着替えを始める。おしゃれではないけれど動きやすいTシャツとジーンズを選んで手早く着替えると、部屋を飛び出して最低限の身支度を整える。誰かに会うわけじゃないから、最低限ね。……この前こうちゃんと会ったときは何もしなかったけれど、私だって女の子だから普段はこのくらいはします。


 よし、寝ぐせもないし前髪も整ってる。肌も荒れてないし歯も磨いた。誰かに会っても恥ずかしくない格好になったところで、玄関でスニーカーを履くと家を出て廃墟に向かう。


 もう、さっさと済ませて明日からの学校を楽しく過ごせるようにしよう。いえ、この問題が解消されても学校は普通に憂鬱だけどね? 私は速足であの廃墟へと向かう。家からちょっとだけ遠い林の中、この間と同じように、道なき道を草を掻き分け、軽い坂道を登って軽快に歩いていく……あった。あの廃墟だ。この間来たときと同じようにぼろぼろで壁は剥がれていて、人気は全くない。


 ……冷静に考えると、家なき子さんがここに住んでてもおかしくないよね。ただでさえちょっとトラウマ気味の場所なのに、どうして一人で来ちゃったんだろ……誰か誘えばよかった。今になってちょっと怖くなってきて、自分のあまりの軽率さが嫌になってくる。


 いや、こんな場所に来るのに誰か友達を誘うなんてちょっと厳しい。こうちゃんだってどういう理由をつけて誘えばいいのやらわからない。




「さっさと中を確認して帰ろ……」




 ここまで来てまた家に戻ったら本当に馬鹿みたい。私は意を決して廃墟の扉のノブを捻る。ドアを後ろに引っ張ると錆びた扉の鉄が地面と擦れて軋む音を立てながら開いていく。


 ……部屋の中には何もない。先日来た時と一緒だ。私は何もなくてほっとする。




「…………?」




 いや、何もない、というのは間違いないのだけれど。何か……おかしな音が聞こえる。




ぱき……ぽり、ぽり、ぽり……ぱき……ぽり、ぽり……




なにか、硬いものを折っているような音と、砕くような音。規則的に、ゆっくりと、しかし確実に響いている。この前はこんな音はしなかった。


 一階のどこを見回しても音の発生源はない。つまり……二階?


 そのことを考えた瞬間、背中がぞわぞわした。二階。この音は二階から聞こえてくる。あれが……あれが居るのだろうか。


 このまま帰ってしまおうという気持ちと、確かめなければならないという相反する気持ちがぶつかりあう。


 私の中で恐怖と勇気が戦っている間も、無機質な音が私の耳から脳髄に侵入してくる。ぱき、ぼり、ぼり、ぼり、ぼり、ぱき、ぼり、ぼり……。一体何の音? 気になって気になって仕方がない。


 恐怖が勝つでもなく、勇気が勝つでもなく、私は猫を殺してしまう心に惹かれて一階奥の通路から震える足で階段を上っていく。……やはり二階からその謎の音は聞こえてくる。どんどんとその音が大きくなってきて、私は必死に震える足を抑えて、乱れそうな呼吸を鎮めながら一歩一歩、音を立てずに階段を上る。もしもその先に何かがいるとして、それに決して見つからないように、息と足音を殺す。


 階段を上がり終えて、二階にたどり着く。幸い……幸い? 今日は二階のドアが開いている。そのおかげで……それともせいで? 二階の部屋から音が漏れ聞こえて来ていたのだろう。




 ぱき……ぽり、ぽり、ぽり……ぱき……ぽり、ぽり、ぽり……




 ……間違いなく、二階の部屋から、音は、聞こえて、くる。


 私はそろりそろりと二階の開いているドアの横まで歩いていくと……一度音を立てずに深呼吸をしてから、ちらりと中を覗き込む。




「ひっ……!」




 中を覗いた瞬間、思わず息を飲む音を立ててしまった。私は、自分の口を両手で抑えて、ドアから顔を離して隠れる。


 ……中には、あの物体が居た。あの日と変わらずに鎮座していた。




 しかし、それだけではなかった。その物体と一緒にこうちゃんもそこに居た。




 混乱と恐怖で頭がおかしくなったかと思った。私は自分の身にあの触手が迫ってこないことを確認してから、もう一度部屋の中をそっと覗き込む。


 部屋の中央には、この前と変わらずあの謎の物体が。


 そして、その触手に全身を絡めとられているこうちゃんがそこにはいた。




「う……ああ……うう……」




 ……これは私の声じゃない。こうちゃんが呻いている声。


 こうちゃんは、あの触手を身体中に巻き付けられていて。


 左手が、あの物体の中央にぽっかりと穿たれている小さな穴に差し込まれていて、そこから、ぱり、ぽりという音が聞こえてくる……。


 私は息切れを隠し切れない。ひょっとしたら大きなネズミか何かがコンクリートを齧っているのかもしれない……なんていう淡い希望は当然のように崩れ去った。


 こうちゃんは……こうちゃんはきっと、左手をあの物体に少しずつ、食べられている。


 身動きできずに拘束されている状態のまま、爪切りで肉と骨をぱちんぱちんと削ぎ取っていく拷問を、絶え間なく受けているかのように。


 ほんの少しずつ、少しずつ。


 ぱり、ぽりと、齧られていっている。




 私はその場にぺたりと座り込んでしまう。


 頭がどうにかなりそうだった。だって……だって、こうちゃんは、家に居たじゃない。昨日だって連絡を取った。なのに今はあそこにいる。


 何がなんだか分からなかった。頭を掻きむしる。私の頭はどうにかなってしまったのだろうか。分かったのは、数日前のあれがやっぱり夢じゃなかったことだけ。


 とにかく……いつまでもこうしているわけにはいかない。


私は不安緊張恐怖絶望に逸られた心をなんとか落ち着かせて立ち上がると、無我夢中で走った。……目の前にいるこうちゃんを助けに走ったわけじゃない。一刻も早く確かめるべきことを確かめるために走った。


 廃墟から外に出て、林を抜けて家への道を走る。普段、運動を全然しない私だから、林の中では何度か転びそうになったし、そんなにすごいスピードを出せたわけじゃないけれど。


 私の中では信じられないような速さで、家の前まで戻ってきた……自分の家ではなく、こうちゃんの家。


 私は呼吸を荒くしすぎて痛くなっている肺と乾燥した喉のことを気にする余裕もなく、こうちゃんの玄関のインターホンを連打する。


 ほどなくして、誰かが階段を下りて玄関にやってくるのが分かる。


……誰か。




「はいはーい……って、汐音ちゃん⁉」




 ……誰かが、私の目の前に顔を出した。その誰かは、私の尋常じゃない疲れ方と乱れた髪の毛を見て心配そうにそう言っている。




「……誰」


「え?」


「誰なの、あなた」




 私の声は震えていた。疲れて震えていたんじゃない。目の前にいる得体の知れない何かに対して震えた声でしか話せなかった。




「ご、ごめん、どういう意味?」


「あなたがこうちゃんをあんな目に合わせてるの?」




 何かが困惑の色を見せる。それはとても演技には見えなくて。カマをかけた私の方が少しうろたえてしまう。




「えっと、こうちゃん? こうちゃんって俺のこと? 汐音ちゃん、どうしたの?」


「…………」


「……汐音ちゃん? ひどい目ってどういうこと?」


「ううん、ごめん。忘れて」




 そう言って私は震えた声で告げて身を翻すと、目の前の誰かの顔を見ずにその場から立ち去って家に戻った。


 ……情緒不安定で精神不安定なメンヘラだと思われたかもしれない。もしこうちゃんにそう思われたなら屈辱だけど……でもいい。あれはこうちゃんじゃないんだから。


 すぐ近くにある自分の家、自分の部屋に戻ると、疲れが噴き出して私はベッドに突っ伏す。


 考えなければならないことが二つあった。


 一つは廃墟の謎の物体と、それに囚われたままのこうちゃん。


 ……普通、人は飲まず食わずで何日生きられるんだろう。この夏場にもう一週間以上、水も飲まずに物も食べずにいたら、普通は生きていられないんじゃないだろうか。でもこうちゃんはうめき声をあげていた。


 一刻も早く助けなきゃ。でも怖いし、私一人の力じゃどうにもできない。誰かに相談して一緒に来てもらうしかないけど、誰にどうやって説明すればいいんだろう。


 もう一つは、もう一人現れたこうちゃん……もどき。


 あれは一体なんなんだろう。


 この前も、こうちゃんが偽物なんじゃないかと疑った。思い返せば、あの何かは、こうちゃんの昔の記憶を持っている。単純にまったく別の存在がこうちゃんのフリをしているというわけではない。


 この二つの問題がバラバラにおこった無関係の問題だとは到底思えなかった。


 おそらくは、あの謎の物体がこうちゃんを捕まえて……その代わりに、こうちゃんの偽物を作り出したんだと思う。




「偽物……ってなんだろう」




 仮に、あの何かがこうちゃんと全く同じ記憶、全く同じ遺伝子を持っていたとしたら、それは果たして偽物と言えるのだろうか。性格は元のこうちゃんから少し変わっているけれど……人の性格なんて少しずつ変わっていくものだ。


 あれが、元のこうちゃんと同じように行動して、同じように人間関係を気づいて、同じように老いていったとしたら、それは最早偽物と言えるのだろうか。


 哲学的な寓話でそんな思考実験があった気がする……なんていったっけ……。


 考えなきゃならないことはこの二つだけど、あの謎の物体ともう一人現れたこうちゃんが無関係なんてことはないだろう。ともあれ、仮にあの謎の物体からこうちゃんを助け出したとして……こうちゃんが二人になってしまったら、一体どうすればいいのだろうか。




「もー、どうすればいいんだろ……」




 分からない。何も分からない。


 ただ一つ分かるのは。


 この問題は私一人で抱えるには大きすぎる問題ということだけだ。

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