23.「それでも先輩、ワタシは、」

 ざあああああああ。雨は強く降り続ける。


「俺は死んだんだ。これは確かだ」

「事故だね、自殺じゃないんだ、ね」

「誰かがそんなことを言ったか?」

「ナナさんは自殺じゃないか、って言っていた。自分のせいじゃないか、とも言ってた」


 ああ、彼女ならそうだろう。倉瀬は思う。あの時最後に自分と話したのは彼女だ。しかもやや微妙な三角関係の相談を。

 でもそれは事故だ。倉瀬は思う。誰のせいでもない。逃げ出したかったのは確かだが、彼女を置いて逃げる気は、全く無かった。


「自殺じゃあない。事故だったんだ」

「事故で先輩は死んだんだ。でもじゃあどうしてワタシが先輩に触れることができるの」


 彼女はぺたぺた、と彼の頬を、肩を、胸を手のひらで触れて行く。あの頃にこんなことをしてくれる様だったら。もしもそうだったら、彼女は「妹」ではなかったかもしれない。誰よりも、大切な相手だったのだから。

 今なら判る。自分は気持ちをセーブしていたのだ。「妹」だから触れてはいけない、のではない。「触れてはいけない」から、妹だったのだ。でもそれはもう遅い。

 何よりも、彼女にとって自分は「同族」ではあり得なかったのだ。あの少年の様な存在ではなかったのだ。だからもういい。

 彼女は倉瀬の二の腕を両手で強く掴んだ。力がついたな。背も伸びたし。そこに居るのは、自分の知っている、自分が居なくては何もできない少女ではない。


「先輩はここに、居るじゃない」

「違うよ」


 彼は首を横に振った。そして大きく手を広げて、空を見上げた。


「ほら、雨は当たらない」


 あ、と彼女は自分の手を見た。落ちて行く水は、彼女の手をすり抜けて行く。


「雨は当たらないんだよ、トモミ」

「だって、雨は当たらなくたって、ワタシが、先輩に」

「そうだよ。だから」


 彼は目を伏せる。


「お前も死ぬんだ」

「死ぬ?」

「今度は、皆が、お前に会えなくなるんだ」

「ワタシに」

「そう、お前に」


 ワタシに。再びつぶやくと、彼女はゆっくりと倉瀬から手を離した。両腕で、自分自身をぎゅっと抱きしめ、こう言った。


「―――やだ」

「何で? 向こうの世界は、暮らしにくかっただろう?」


 もうやめよう、と彼は言った。


「確かに暮らしにくかった。先輩が居なくなってからずっとワタシは戦ってた。ワタシを無くそうとするものから、ワタシを守ってた」

「戦ってた?」

「そう、戦ってた。それが先輩達の世界の『親切』で、あのひと達は『いいひと』。この世界の文化と感情パタンを計算すれば判る。感謝はする。でもそのたびに、ワタシはいつも、同時に、それと戦ってた。本当のワタシを無くさないために。殺さないために」

「知ってる。見てきたよ」


 ざああああああ。


「お前はこの雨の音が好きで」


 彼女は黙ってうなづいた。


「……同じ音が好きな、あの彼が、とても好きなんだろう?」

「彼」

「マキノとお前が呼ぶ、彼」

「好き」


 彼女はその言葉を何度か、口の中で転がしてみる。


「ずっと一緒に居たい、と思うんだろ?」

「だとしたら、『好き』。とても。すごく。……ワタシは彼のことが判るし、彼はワタシのことも判る。ワタシ達は、やっとワタシ達を見付けたんだ。……だから、ワタシは彼に、彼の欲しがっているものをあげようとしたんだ」

「うん、それは何?」

「先輩のベースを。先輩はワタシにとって一番大切なひとだったから」


 過去形だな、と彼は思った。


「だから何か、先輩が持ってたものをあげたかった。マキノがそれを欲しがっているのがワタシには判ったから。ワタシもそれで通じると思った。ライヴの時に傷を付けてしまったアレが戻ってきたら、あの子にあげようと思った。だから、あの時、急いだ。急いではいけない、とナナさんに、あれだけ、言われていたのに―――」


 彼女は自分のベスパが転がったはずの場所を見る。そこには当然、車体は無い。


「あの辺だった。だからベースはあの辺に飛んでいたはずなのに」


 倉瀬はそれを聞いて、首を横に振る。


「ここには無いよ」

「嘘」

「俺はお前に嘘はつかない」


 そして彼はおいで、と手を差し出した。彼女はその手を取った。


「……ワタシ……?」


 病院の、集中治療室の中に、彼等は居た。トモミは初めてみる自分自身の眠る姿に目を瞬かせる。


「ワタシは死んだの?」

「今は、生きてる。でもそれはお前次第だ」


 彼は大きなガラス窓の方へ顔を向ける。何かあるの、とトモミは問いかけた。外には面会客用のベンチが置かれているだけである。


 ただ――― 制服姿の少年が、汚れたベースのケースを抱いて眠っていた。


「マキノ」


 トモミはするり、と倉瀬の横をすりぬける。自分の身体を越え、ガラス窓を突き抜けた。

 濡れている。それはベースのケースのせいだけではない。彼の髪も、制服のシャツも、ズボンも、ぐっしょりと濡れている。

 彼女はそんな彼に触れようとする。


「触れたい?」


 ガラス窓を越え、倉瀬もまた廊下へ現れる。


「触れたい。このままではまた風邪をひく」

「また?」

「前もそういうことがあったんだ。台風の時、ワタシ達、外で遊び回ったんだ。そうしたら彼だけ熱が出た。彼は夏なのに寒いと言った。だからワタシは彼と一緒に眠った」

「うん」

「だからあの時約束した。そんなことがまたあったら、熱が出た方の側にずっと居る、暖まるまでずっと居る、と。だけどこれじゃ」


 頬に触れようとする手は、するりと抜けて行く。


「この世界は生きにくいよ」


 だめ押しの様に、倉瀬は問いかけた。トモミは即座に答えた。


「構わない」

「この世界には、嘘をつく奴ばかりだ。記憶と計算だけは凄いけど単純なお前を騙そうとする奴も多い。お前はこれから先、今までよりずっと、自分自身の感覚を守るために、戦い続けて、傷ついていくだけかもしれない」

「それでも」


 トモミはマキノの身体を、ベースごと抱え込もうとする。


「それでも先輩、ワタシは、ここに居たい。彼と、居たいんだ」


 そうか、と倉瀬はうなづいた。

 そして不意に、彼女の身体を横抱きにすると、再びガラスの中へと飛び込んだ。


「先輩、何、ああああああ」


 心が、突然のことに悲鳴を上げる。だけどその悲鳴をもう彼は聞かなかった。

 そのまま彼は彼女を、眠る彼女の身体の上に押し込んだ。


***


「……君、牧野君」


 ゆさゆさ、と肩を揺さぶられ、牧野は目を覚ました。


「トモさ…… あ……」

「残念ながら、私でごめんね」


 いい夢を見ていた、と彼は思った。トモミが自分を抱きしめている、夢。

 だけど目を覚ませば現実がそこにある。そこに居たのはトモミではなく、看護士だった。

 さすがに毎日毎日、学校帰りにやって来ている彼はお馴染みになっていた。


「心配もいいけど、そんなびしょ濡れで寝てたら、風邪ひくわよ」


 彼は黙ってうなづいた。すると看護士はガラス窓の向こう側を示す。


「ほら、彼女ががんばってるのに、あなたまで倒れたら、困るでしょう?」


 眠っている彼女の姿。包帯をぐるぐるに巻かれた頭、点滴のために右だけ出された腕。見えるのはそれだけだ。


「うん、……トモさんに、怒られるね」

「だったら上だけでも着替えなさいな。貸してあげるから」


 うん、と彼はうなづいた。

 もう十日だった。毎日毎日、学校が退けたらこの病院へと飛んで来る。本当は、学校だって休んで、ずっと見ていたかった。だけどそれには、「B・F」のメンバーからストップがかかった。ナナからは「意識が戻ったら連絡する」とも言われた。

 そして十日。雨が外では降っている。ひどい降りだった。朝方はやはり降る気配など見せなかったので、傘を持たずに学校へ行った。だから病院に走る途中で空の色が変わったのでやばい、と思った。そして案の定降られた。


 でもこの音は、やっぱり心地よいよ、トモさん。


 ガラス窓の向こうの彼女に、牧野は内心つぶやく。


 あなたと一緒に、雨の音を、ずっとずっと、聞いていたいよ。


「牧野君! ほらこっちにシャツがあるわ」


 あ、はい、と彼はその場を離れようとした。


 と。


 ん? と彼はふともう一度、ガラス窓の方を向く。違和感。


「どうしたの? 牧野君」


 看護師はシャツを手にしたまま、彼の方へと近づいて行く。


「ねえ…… 点滴って、両腕だった?」

「え?」


 二人で目を凝らす。左腕が、胸の上に乗せられていた。


「牧野君……」

「看護師さん……」


 二人は思わず顔を見合わせた。

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