7.「お前何で、俺の部屋の荷物を勝手に運んだんだ?」

 ちょっと待て。

 がたん。倉瀬はベースのケースを思わず取り落としていた。


「先輩?」


 背後で扉を閉めた後輩は、不思議そうに問いかけた。

 春三月も終わる頃。彼は自分の現在の状況を何とか理解しようと努力する。部屋に帰ってみたら、荷物が全て消えていた、なんて。


「クラセ先輩、驚いてる?」


 そして後輩は、いつもの様に、まず彼の感情の状態を訊ねるのだ。


「……驚いてる」


 そして倉瀬も、いつもの様に、その質問にのみ対する答えを返した。


「あ、荷物、運んじゃった」

「運んだ? トモミお前、が?」


 振り向くと、違う、と後輩はとぶるんぶるんと大きく首を横に振った。


「ワタシじゃない。業者」


 思わず彼はその場にしゃがみ込んだ。


「先輩?」


 彼は忍耐力を思い切り発揮し、問いかけた。


「お前何で、俺の部屋の荷物を勝手に運んだんだ?」

「その方がいいと思って」

「もう少し具体的に言えよ……」


 行き場所もだんだん予想がついてきた。


「だって先輩、バイトが忙しいって言ってたよね。ってことは、生活費とか学費とかバンドの費用がずっと苦しいってことだよね」

「確かにそうだが」


 あまり言われたいことでもない。


「だから、東京は家賃高いし、ワタシの所に住んだ方がいいと思って」

「お前なあ…… トモミ……」


 確かに彼女の部屋は、都心に通う一人暮らしの学生が暮らすには広い、2LDKのマンションだった。だがその時、「変? これって常識じゃあない?」といつもの様に問いかけてきた彼女に、こう答えたのが悪かった。


「そりゃ広い」

「本当?」

「一人じゃ広いよ。ルームメイトとか居るならともかく、お前一人には広いよ」


 あれは失言だった。……彼女がルームメイトにできる人間なんて、一人しかいないのだ。


「クラセ先輩、怒ってる?」

「怒ってない。呆れてる…… いや、25%くらい、怒ってる。あとの75%、呆れてる」


 そう、いちいち彼女の行動に怒っていては、付き合っていられないのだ。だが。


「25%」


 それが多いのか少ないのか、彼女は十数秒、考え込んだ。その様子を見て、正面に向き直り、彼は付け加える。


「俺以外の奴がこんなことされたら、100%怒ってる」

「じゃあ非常識」

「絶対に非常識」


 途端、彼女の表情が曇った。しかしいくら唐突とは言え、彼女がそう考えるのも、ある程度は仕方がなかった。確かに倉瀬はいつも金に困っていた。高校入学から、ずっと今の今まで、バイトとバンドに忙しかったのだ。



 中学を卒業し、工業に入った倉瀬がまず始めたのは、部活動でも勉強でもなく、アルバイトだった。

 ウッドベースではなく、エレキベース、それも自前のものを手に入れるために。手に入れたら今度は、本格的に活動するために。

 受験を前提としない彼等の学校では同志はすぐに見つかった。忙しくも充実した日々の始まりだった。

 その一年後、トモミが入学してきた。


「何でそんなに、皆、驚くのかなあ。ねえ先輩、変?」


 その頃には、彼女の口調もずいぶんと彼に対してぞんざいになっていた。

 それはそれでいい変化ですよ、というのが彼女の父親の言だった。

 だがその父親も今は亡い。


 彼女の父親は確かに物書きだった。

 しかも、正体を知ってみて驚いた。有名なエンタテイメント系の小説家だったのだ。

 複数のペンネームと出版社を使い分け、ジャンルも客層も多岐に渡った。その中の数冊は、倉瀬の本棚にもあった。

 正体が知れてからは、出たばかりの本を必ず手渡してくれた。それは必ず彼が食事に呼ばれた時だった。

 外食の時もあったが、彼女の家にも何度か招かれた。そこは3DKの中古の賃貸マンションだった。売れっ子作家がどうかな、と彼は思ったが、父娘二人には充分らしかった。

 彼はそこで、父親の手料理をごちそうになったこともあった。トモミが家事をしている様子を、彼は見たことがなかった。料理だけではない。掃除も洗濯も同様だった。

 締め切りが重なるとさすがにハウスキーパーを雇う、ということだったが、トモミが他人を部屋に入れるのを嫌うので、それも滅多にしないのだと。


 しかしその家事全般もしていたはずの父親は、半年前に亡くなった。

 事故だった。原稿の打ち合わせに入った店がガス爆発を起こし、巻き込まれたのだと。

 消火後の現場からは、判別のつかない遺体が複数発見された。彼女の父親は、燃え残った時計や手帳といったものから確認された。

 彼女は一人になった。進学する大学も決まり、父親と一緒に上京直前のことだった。父娘はそれまで借りていた部屋を引き払い、マンションに移ることになっていた。新築のその部屋には彼女一人が残された。

 幸い父親は、それまでの稼ぎを彼女名義にしていた。不慮の事故死ということで、生命保険も下りていた。即金で買ったマンションにはローンも無い。

 彼女は学費だけでなく、この先就職しなくてもある程度暮らせる蓄えを遺されたのだ。


 ただ。



「何かあった時にはあなたを頼みにしたい、ということでした」


 フリーターをしながらのバンド生活も板につき、バストイレ共同・日当たりの良くない六畳一間(格安)に住んでいた倉瀬のもとに、とある日やってきた弁護士はそう言った。


「頼みにって……」


 倉瀬は眉を思い切り寄せ、こたつテーブル越しの相手に向かって、両手を広げてみせた。

 六畳一間。扉を開ければ部屋の全てが丸見え。こたつテーブル以外、家具らしい家具も無い。部屋の壁には、ベースとギターが置かれ、その近くにはミニコンポとカセットとCD、五線譜やボールペンが散乱している。


「ほら俺はこの通り、ビンボーなフリーターですよ? しかも就職予備軍でもない。先の見えないミュージシャン志望」

「ええ、それは良く判っています」


 む、と倉瀬は軽く頬を膨らめた。

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