この世界はラボラトリイ~世間からずれた感覚の後輩が幸せになって欲しい。

江戸川ばた散歩

1.コントラバスの奇妙な新入生

「おーい倉瀬、居るかあ」


 呼んでいる。呼ばれている。でかくて妙に情けないあの声は。

 彼は思わず眉を寄せる。そして弦を弾く手を止め、負けず劣らずの大声を張り上げた。

 階段の踊り場。ここなら響くはずだ。


「何ですかあ? 先輩~」

「何処だよぉ?」

「こっちですよぉ、部長でしょ?」


 返事無し。仕方ない。

 がたん。倉瀬は階段の踊り場に、楽器を横たえた。そのまま、部室のある三階へと下りて行く。

 だが狭い西校舎の三階の廊下には、その声の主は見あたらない。更に仕方ない。彼は廊下の端、「第二音楽室」と看板のついた部屋の扉を開けた。

 案の定、部長はそこに居た。入り口を塞ぐかの様に置かれたグランドピアノの椅子に座り、ぐったりと肘をついていた。


 何だよこのひとは。


 倉瀬はまた眉を寄せる。修学旅行から帰ってきたばかりでもうこうかよ。

 しかし相手は一応部長である。しかも「体育会系文化部」と呼ばれる吹奏楽部の。上下関係は決して無視してはいけない。


「田崎部長! 俺呼びました? 俺」


 失礼にならない程度に、それでもはっきりと彼は相手を呼ぶ。

 すると部長は彼の方をじんわりと向いた。


「呼・ん・だ! 何度も何度も。一体倉瀬、お前、何処行ってたんだあ?」

「何処って」


 倉瀬は詰まる。そして内心叫ぶ。そんなこと、あんたが一番知ってるでしょうに! しかし無論ここは体育会系文化部なので、そう口にはしない。


「ねえ部長、俺ずっと、いつもんとこで、鳴らしてましたよ。ロングトーンの時間だし。それに俺、あそこしか場所無いし。ほらあの踊り場」

「あー…… そうだったなあ」


 部長は当時の中学生特有の、五分刈りの頭をがりがりとひっかく。


「部長こそ、まだサックスの連中、皆ロングトーン、やってるじゃないですか」


 彼は言いながら、西側の高い窓を指さした。

 初夏五月。まだ日暮れには早い。開け放った窓からは、様々な音が飛び込んで来る。

 夕刻、終業と共に吹奏楽部の部員は、一階のプレファブ校舎前の通路でマウスピースだけの音出しを始める。ある程度の調子が整ったら、楽器を付けて、やはり音出し。

 しかしそんな時間でありながら、部長は自分の担当楽器のサクソフォンの、マウスピースすら手にしていない。


「それどこじゃないんだよ~」


 何がそれどこじゃないんだ、と倉瀬は言いたい衝動にかられる。だが無論……以下略。


「俺も早く練習に入りたいんだよ~ だけど副の奴が、いい加減何とかしてくれってうるさいし」

「真鍋先輩が?」

「副・部・長! いやともかく、あの新入部員を早く何処かに入れてくれないと困るって、……おい倉瀬、俺が一体何したってんだよぉ!!」


 ぱっと部長は急に顔を上げて、すがる様な目で倉瀬を見た。そう言われましても。

 本当にこのひとが部長で良かったのかあ? と彼は思わず考える。前年度の部長副部長が彼の目からして、非常にしっかりとしたコンビだったせいもあるかもしれない。

 もっとも新部長を弁護するならば、新一年生にとって、三年生というのは非常に大きく、大人に見えるものである。しかしその時点で二年生だった者は、彼等程のインパクトは無い。しかも「先輩」も初体験である。下級生に対する態度も極端になることも多い。

 その一方で、三年生は入ってきたばかりの一年生は可愛いので、つい二年に対してより甘くなる。

 結果、一年生と二年生の間、というのは必ずしも良い関係ばかりがあることはない。そしてそれは、彼等が二年と三年になってからも変わることは無く、部員間のトラブルの原因ともなることも多い―――のだが。

 倉瀬はあいにく、その類のトラブルとは無縁だった。

 というのも。


「……そこで、だ」

「はあ」

「確か倉瀬、お前んとこ、新入部員、居なかったよなあ?」

「え? まあ」


 彼は三月にとあることを予想した。そして四月が終わった時点で予想が正しかったことを確信した。

 自分のパートに望んで来る奴など、まず居ないだろうと。

 倉瀬はこの時二年生で、たった一人のパートだった。

 担当はコントラバス。ウッドベースともいう。「吹奏楽」部において、唯一の弦楽器である。

 譜面的には最も低い音、チューバの部分を担当する。……が、正直、「ブラスバンド」のイメージとは遠いパートである。

 やはりブラスバンドの「花形」であるのは、音も姿も真っ直ぐでぴかぴかのトランペット、大柄な身体に斜めに持つと格好いいサクソフォーンあたりが当時は相場だった。

 また女子なら優しい音、優雅な姿の銀のフルートあたりに惹かれることが多かった。

 マーチング・バンドを見たことがある者なら、身体をその大きな楽器に通す、白い象を思わせるスーザフォーンを格好いいと思うかもしれない。ちなみにスーザフォーンは、マーチング仕様のチューバである。

 そんな訳で、コントラバスというものは、そんなブラスバンドにおける「格好いい」の定義には当てはまらない――― と、倉瀬は思っていた。

 もっとも彼は、最初からそんなコントラバスを選んでいた。

 物好きねえ、と当時の三年女子の先輩は言った。

 たっぷりした身体の彼女は、そうは言っても、彼に親切だった。自分が卒業すれば否応無しに大編成バンドの中でレギュラーにならざるを得ない彼に、熱心に教えてくれた。そして自分以上に上手くなる、と太鼓判を押してくれた。

 そりゃあそうだ、と彼はそのたび思った。上手くなりたくて、やっているんだから。コントラバスを。ウッドベースを。ベースという弦楽器を。

 そう、彼の目的は吹奏楽部のコントラバスではなかった。「ベースという弦楽器を弾ける様になること」だったのだ。


 と言うのも。


 彼の音楽的衝撃は小学校の高学年まで遡る。当時世はバンドブーム。何度か繰り返されるこの波の、とある時期に、彼もまた乗ってしまったのだ。

 しかも彼が「格好いい」と思ったのは、シンプルなバンドだった。3ピースバンド。楽器もシンプル、音もシンプル、だけど何か! 

 音がどう、とか考えるより前に彼は思った。

 ああ俺もあんな風に、何か楽器弾きてえ!

 だがあいにく、彼はまだ小学生だった。無論、その望みは簡単に叶えられるものではない。

 実際当時、「俺もバンドやりてーなー」とつぶやいた彼に、四つ上の姉曰く「駄目駄目! 楽器って高いんだから!」とのたもうたものである。その言葉は彼の頭に「楽器は高いもの」とインプットしてしまった。少なくとも、高校あたりでバイトができる様にならねば駄目だ、と。

 実際、彼の家庭は決して裕福ではなかった。姉は頭が良かったが、結局進学したのは公立の商業高校だった。彼自身もまた、進学は高校までだろう、その後は就職だろな、と漠然と考えていた。小学校高学年の彼でも、だ。

 だからと言って、音楽、いや「バンドの楽器」をやってみたい、という気持ちを止めることはできなかった。たとえ普段の彼が、友人達とサッカーグラウンドを走り回ったり、友人の家で相手のゲームを制覇するのも気持ちよかったとしても、だ。

 なのに、だ。ああ困った、と彼は中学校に入った時思った。

 姉情報によると、中学に入ると勉強も部活もきつくなるという。だけど今までの様な普段の友人付き合いもしたい。


 ああバンドバンドバンド。さてどうしよう。


 生まれて初めて彼はぐるぐると回る思考を持て余した。そしてそのぐるぐるをひきずりながら、彼は入学式の会場へと歩いて行った。

 会場に足を踏み入れると、ぱーっぱっぱっぱぱぱ、と明るい調子の行進曲が勢い良く流れていた。生音だった。周囲の同級生達の中にも、間近に轟く強烈な音に視線と意識を奪われている者は少なくなかった。

 彼もまた同様だった。ただ、勇ましい調子の行進曲にはあまり彼は興味が持てなかった。


 ……それよりは。


 そう思った時だった。あ? と思わず彼は声を立てそうになった。


 この楽器はっ!


 音楽系番組で演奏する彼のお気に入りの3ピースのバンド。ああ確か、あれはベーシストが時々持っていた……

「ウッドベース」だ。

 ……ちなみにその時「コントラバス」という名前は彼の中にはなかった。あくまで彼が通り過ぎるその一瞬目に入ったのは、「ウッドベース」なのだ。

 さてそこで、彼の頭は急激にそれまでぐるぐるとネガティブな方向に回していた思考のスピードをポジティブ方面に変更させた。


 あの楽器を弾きたい→あの部に入ればいい


 明確かつ、完璧な結論だった。

 彼はすぐさま行動に移した。部活訪問が解禁された放課後、真っ先に吹奏楽部の部室である「第二音楽室」に飛び込んだ。


「すみません入部希望ですっ! ウッドベースをやらせて下さい!」


 飛び込んできた新入生のその勢いに思わずその場に居た部長副部長コンビは圧倒された。しかしそれでも彼等は決まり通り、「志望楽器を三つまで」と問いかけた。

 そして判らないなら、見学してから、と付け足そうとした時。


「第一も第二も第三も、俺、ウッドベースをやりたいんです」


 気合いの入った声だった。

 だがウッドベース、と部長と副部長は顔を見合わせた。ウッドベースウッドベース。

 ああ、と数秒後、彼等は納得した様にうなづいた。


「弦バスのことか」


 彼等にとっては、「ウッドベース」ではなく「コントラバス」もしくは「弦バス」と呼ばれるものだったのだ。

 しかし名前が違ったとは言え、同じ楽器には違いない。他に志望者も無く、彼はそのパートに快く迎え入れられた。

 先輩にみっちり仕込まれたこともあり、二年に進級する頃には、弦を押さえる彼の左手の指も堅くなり、譜面を見ればそれなりに弾ける様になっていた。

 そうなるとこっちのものだった。

 三年の先輩が受験体制で来なくなる二学期あたりから既に彼は、ぱっと聞きでは判らないだろう、と好きなバンドのベース譜を持ち込んでは「練習」していた。

 何せ一人なのだ。しかもベース音だけで何の曲か聞き分ける者はそうそう居ない。ロングトーンや個人練習の時間は、彼にとって、至福の時だった。

 なのに、だ。彼は何となく嫌な予感がした。


「確かに、俺のとこは新入部員は居ませんでしたが……」

「そ。だ・か・ら・入れてやって」


 部長は彼を指さしながら言った。


「は?」

「聞こえなかった? お前のパートに、一人入れてやって、っての。今度の新入部員一人。女子ね、女子。別にいいだろ? 前の長野先輩だって女子だった訳だし」

「は……」

「はい、じゃあ、決定、と……」


 ちょっと待て、と呼び止める間も無かった。部長はピアノの蓋を両手でぱん、とはたき、立ち上がると「第二音楽室」から飛び出して行った。倉瀬は慌ててその後を追った。

 西校舎の廊下を走り抜け、二年生の教室の一つの扉ががらがらと開く音が耳に飛び込む。と同時に副部長の名を呼ぶ弾んだ声が、廊下に響いた。その時ようやく彼は、部長の言葉の意味に思い当たった。もしかして。


「あら~良かった良かった。ねー一年生、あの子は?」


 副部長は、部長に負けず劣らずの声を廊下に響かせた。

 どうやらことは自分の居ない所で既に決定していたらしい。

 拒否権は自分には無い。だが拒否する理由も無い。ただ何となく、ここまで部長副部長が大騒ぎする「女子の新入部員」には嫌な予感がした。


「一応、居る様には言ったよね?」

「言いましたけど」


 うん、ね、とまだマウスピースだけを与えられているクラリネットの一年生達は顔を見合わせる。


「……たぶん、図書室じゃないですかあ?」


 一人がおずおずと口を開いた。


「図書室? 何でまた」


 部長は問い返した。


「だってねえ……」

「あのひとだし……」


 一年女子達は曖昧な言葉を発するだけだった。


「……連れてきてくれる?」


 仕方ないわねえ、と副部長は一年生の一人に連れて来る様にやんわりと命じた。


「あの~ その新入生が?」


 自分のパートに? と倉瀬が言葉を言う前に、当然、とばかりに部長副部長はうなづいた。そして「だって、ねえ」「……だし」と意味ありげに二人はうなづく。

 それから数分。


「連れてきましたあ」


 先程の女子の新入生の声が廊下に響いた。その左手はもう少し大柄で、髪をベリーショートにした女子の右手につながれていた。

 副部長はベリーショートの女子に近づくと、やや厳しい声で問いかけた。


「ヨシエさん…… どうして図書室に居たの? 今は、部活の時間でしょ」

「え?」


 ヨシエ? 名か姓か、倉瀬にはすぐには判らなかった。そういう名はそこらにある。だがまず中学生にもなれば、部員同士は名字で呼び合うものだ。

 一方、呼ばれた方は、副部長の質問には答えず、大きく目を広げている。その状態が二分くらい経った頃だろうか。先程の一年生が、おずおずと口をはさんだ。


「先輩方…… あの、トモちゃんにそう聞いても、駄目ですよ」

「って?」


 彼女は「トモちゃん」/ヨシエの方を向くと、ゆっくりとした口調で問いかけた。


「ねえトモちゃん、今って部活の時間だよね」

「うん」

「トモちゃんはさっき、図書室で本を読んでいたね」

「うん」

「どうして?」

「だって、待ってるのに時間がもったいなかったから」


 それを聞くと、副部長は長い自分の髪をくしゃくしゃとかき回した。


「……ね、倉瀬君、いつもこの子、こう、なのよ」


 はあ、と倉瀬はうなづいた。いつもこう。それは一体。具体的なことはやはり判らなかった。だが副部長の困った様子と、部長の「どうしようもない」というつぶやきは彼の目と耳をかすめて行った。


「……あちこちのパート、四月中、たらい回しになってんの。木管のグループも、サックスも……パーカッションにも一応入れてもみたんだけど」


 そんなことがあったのか、と自分の楽器に夢中になるあまり、周囲に目が行ってなかった彼は改めて驚いた。


「で、はっきり言って、女子入れてもいいだろうってパートは、もうお前んとこしか無いんだよなあ」


 部長はわざとらしく大きくため息をついた。


「という訳で」


 部長と副部長ははい、と彼女を倉瀬の前に押し出した。途端、「あ、駄目」と一年女子の声が飛んだ。え? と倉瀬はよろけた彼女を支えようとした。その時―――


「やぁぁっ!」


 彼女は彼の手から飛び退き、脇の壁にと張り付いた。

 目を大きく開き、息も荒い。明らかに怯えていた。

 さすがに部長副部長もその反応には驚き、慌てて一年女子の方を見た。


「トモちゃん、触るよ、と言わないで触ると、こうなんです」


 いつも、と彼女は付け足した。部長副部長は、肩をすくめ、顔を見合わせ、うなづき合う。


「と言う訳で、倉瀬、頼むな」

「お願いね~ほら、クラの皆、のぞいてないで、続き!」


 廊下に残されたのは、倉瀬と渡された女子だけだった。さてどうしよう、と倉瀬は思った。

 ともかく自分に任された後輩なら、……練習場所へと連れていかなくてはなるまい。しかし先程の様子では……

 だが。


「先輩、行かないんですか」


 あっさりとした声が耳に飛び込んできた。穏やかな声だった。


「ワタシ、今度先輩のパートに入ることにされました。ヨシエトモミです。よろしくお願いします」


 そしてヨシエは吉衛と書き、トモミはカタカナだと付け足す。そしてぺこんと頭を下げた。


「あ、それはどうも」


 倉瀬もつられて頭を下げた。何なんだ一体。彼は先程の様子と、現在の彼女の静けさのギャップに戸惑った。


「えーと、じゃあ、練習場所に、行こうか」

「ついていけば、いいんですね?」

「あ? うん」


 触らなければ……大丈夫、なんだろうなあ。倉瀬は何となくそう自分を納得させることにした。斜め後ろからついて来る彼女は、少し前のあの悲鳴を上げた少女とは別人の様に、落ち着いていた。もっとも、その時彼女はさりげなく彼との間に距離を取っていた。それを彼が知るのはずいぶんと後のこととなる。


「ところで、ワタシは先輩をどう呼べばいいですか?」

「俺? 俺は倉瀬義高って名だから…… 好きに呼べばいいよ」

「そういうのは、困ります」


 ぴしゃりと彼女は言った。


「困るんです。決めて欲しいです」

「決めてって」


 そんなのいちいち、と言おうと彼は振り向いた。

 だが言えなかった。彼女の表情は、本気で困っているものだったのだ。

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