ズレた二人の物語

高橋 夏向

ズレた二人の物語

 この気持ちは最低なんだろうか。

 ずっと前から抱いていた。知らぬ間に育っていた、消しようにも消し切れない肥大したものは、恋という名前を持つらしい。

 噂話、思い出話、理想の話、空想話で耳にしたそれ。小説、漫画、アニメ、ドラマの創作話は勿論、ドキュメンタリーやニュースにまで取り上げられてしまうことすらもある、恋。

 もっと綺麗で鮮やかで、心が弾み、尊くかけがえの無い、誰もが幸福を感じるものだと思ったのに。

「気持ち悪い」

 彼が放つ声と、その口の動きとがズレて感じた。脳に染みるまでに数拍置いて、言葉が心を刺した。彼の嫌悪を示す表情が、半歩後ろへ引いたその身が。あまりに真実で。

 ざあと引いた血の気。手足は震えていて思考も止まり、力の入らない体でくたくたと逃げたのを覚えている。

 そうして逃げて。

 彼から、逃げて。

 想いから、逃げ出して。

 そして。

 それから。


 街路樹の足元に霜柱が立つ、冷える頃。淡々と続いてきた日々の中の一日。空は曇っている。

 つんと鼻が刺される空気を飲んで、温く白い息を吐いた。首に巻いた赤と黒のチェックマフラーが、その息を吸う。今日も寒い、代わり映えのない日だ。

 自分の吐いた息の一部が水として睫毛に掛かる。冷たさに顔を顰め、素手で拭えば視線もあがる。ふと見えた覚えのある背に声を掛けた。

「尚哉」

 僕の声に気づいたらしく、彼は低音量が流れているイヤホンを外した。交通事故対策だとか言って、そもそも着けなければ早い話なのに。彼は早々鞄にしまい、僕の顔を見て一言。

「ん。はよ、理樹」

「おはよう」

 いっそ無愛想なまでの挨拶だが、男友達に対してなんかこんなものだろう。これ以上のベタついた言葉だったほうが正気を疑う。は、さておき。

「今日も寒いね」

 彼の隣に並び当たり障りのない話題を出せば、彼も素知らぬ顔で歩き出す。

「冬だかんな」

 なんの知見もない言葉が返ってくる。濃い灰色のマフラーを巻く横顔をちらと見た。僕も何も考えない「コタツださなきゃね」なんて言葉を返す。

 寒い寒いと冬に文句を言いながら、二人で進む登校路。

 通りに覚えのある顔が増えてきて、学校前で彼は別の奴に絡まれる。

 僕は気にしない顔をして「先行くわ」と軽い調子で言い。彼も新たな会話相手の頭部に拳を当てながら「おう」と気楽に言った。

 どうせそんな仲なんだ。どうも、そんな仲だと思ってんだろ。

 気付かぬふりをして教室へ入り挨拶を交わし、自分の席へ一直線。尚哉の。幼馴染である彼の、右斜めより少し後ろの席。

 先程置いてきたから当たり前に空いている席を見、気にしないようにと誤魔化して、授業支度を始めた。


 いつものように授業をこなし、休憩時間には駄弁りつつ。今の時刻は朝と昼の合間。

 内容を聞き黒板を写しとしないと、あっという間に置いていかれる授業。そのことを十分理解していると言うのに。目線は左斜め前程の幼馴染の背を見つめ、耳は蓋をしたように一枚ほどの阻害を持って教えてくる。

 彼は当然ながら授業に集中し、時折面倒になってペンを回し。どうでもよさそうにシャープペンシルの芯を出す。

 一挙手一投足を観察するなんて、視姦趣味がある訳でも無かろうに。はたと自らを罵る言葉が浮かんだ。勿論そんな趣味なんかない。勿論、そんな。

 言い訳を考える自分が恥ずかしくなる。尚哉は変わらず前方を見て、僕の方など一別もしない。今学んでる授業内容ほど一時集中すべき対象でないのだから、当然のことなのだけど。

 内心恥ずかしくって自分が愚かで喚きたくなった。君がここまで僕を馬鹿にしたのだ、愚か者にしたのだと、八つ当たりのように怒りちらしたかった。

 けどそんなことをしたところで、彼は訳がわからないと呆れ蔑み距離を置くだけ、だと思う。少なくとも僕なら一方的に感情をぶつけてくる相手は遠ざける。なんて無意味だろう。

 僕らは単なる友人だ、知人だ。親友とは称せるのかも知れないが、気恥ずかしいその言葉を持って形容するのは何かが違う。

 僕らは友人である筈なのだから、僕が馬鹿に愚かになどなる理由は無かった筈なのに。

 彼に無意識に目が行ってしまうなどと。彼の行動言動を誰よりも理解したいなどと。彼にちりつくような想いを抱いているなどと。

 なんて、馬鹿なんだろうか。

 彼がシャープペンシルの芯を仕舞った。

 現実に帰すように、チャイムが鳴る。


 他愛も無い時間を過ごし、気付けば放課後だ。自主参加を募る部活は今日も欠席、僕は友人と雑談を続けていた。話題なんて実がなくて当然、ひたすらにソーシャルゲームの攻略についてを語る。

 あのキャラ云々このストーリー云々、待てそれはフラグだ云々。くだらない話は何より楽しい。それは事実だ。

 少なくとも明らかにしたくない真実や事実を語るより余程、楽しいのだ。

「そういやぁさ」

 友人の一人がふと。思い返すかのように言う。

「理樹って授業中、やけにぼうっとしてね?」

 突然振られた話題に瞬き数度。のち。

「や、突然何?」

 当たり前に困惑しながら友人たちを伺う。誰もが急な話題に不思議がりながらも思考し始めた。

「まあ眠いし」

「俺も眠ぃ」

「それでもお前ら、頑張って起きてるよ」

「そんな、頑張って生きてるみたいなノリで」

 交わされる会話は14度ほど傾き始めている。そのうち別の話題へ転換されそうだと思っていれば「まあそれはさておき」なんて軌道修正の言葉。

「お前なんか、熱心に見てんじゃん?」

 と。嫌な、言葉が。気のせいだろうか、見透かされているような。いや、まさか。事の発端の友人を見る。僕は心理学者でもないから、その目からは何も悟れない。

「幼馴染なんだっけ? あいつ」

 確信に迫る言葉が静かに重ねられた。ストーブや人の体温で暖められた空気が、感じられないほど冷えきった。ばくりと心臓が跳ねる。

「あ。っ、と。尚哉のこと?」

 寒いのにじわと頭に汗がわく。

「ん? なに、小学校とか一緒だったん?」

「一応、幼稚園からの仲かな」

 何も知らない他の友人の言葉にはそのままを語る。親しくなったのは中三の夏、なんて事細かに語る必要はない。

「んじゃ俺らも幼馴染ー」

「うぇーい」

 何も知らない友人二人が肩を組みよくわからないリズムで揺れた。仲がいいことで何よりと二人を見、一人静かにこちらを窺う、発端の友人に視線を戻す。

 余りに静かな様子に、今も仲良し仲良しと揺れる二人に癒やされた心地が、地を這う。落ち着いていた心音が今では痛いほどだ。

 彼は、何が言いたい。

「お前さ」

 いま扉を開けて誰かが出入りしてくれたら、この空気は壊れるのに、なんて。そんなお優しいことは叶わなかったわけで。

「アイツのこと、好きなんじゃねーの」

 寧ろ、最悪な時に、扉は開いて。

 ガラリと扉は開かれて。最悪を悟った。


 その後。その後、何が起きたんだっけ。

 尚哉が中に入ってきて。発端の友人は本当に驚いた顔をしてて。暢気に肩組んでた二人も空気を読んで、静かになってて。

 尚哉が、彼が、幼馴染が、僕を見てて。

 さて僕はどんな顔をしてたんだろうか。

 尚哉はただ僕を見て、穏やかに笑った。

「何言ってんだよ、んなわけねーだろ」

 ただの冗句。あ、良かった。そうして受け止めてくれるのかと何事もないかのように、笑おうとして。そうそう、なんて同意する前に。

「マジだったら、気持ち悪いわ」

 彼があっけらかんと言い放った言葉。戯れに選んだ言葉。偶然選ばれた言葉。ただそれだけの、言葉。

 気持ち悪い。

 きもちわるい。

 きもち、わるい。

 反芻、繰り返し、脳内。繰り返され。

 気持ち悪い、なんて。



 そんなこと。

 ぼくが、いちばんしってる。



 ざあと引いた血の気。手足は震えていて思考も止まり、力の入らない体でくたくたと逃げたのを覚えている。

 そうして逃げて。

 彼から、逃げて。

 想いから、逃げ出して。

 そして。

 それから。

 なんてことはなく。

 馬鹿な僕は。

 赤信号にすら、気付けなかったと。

 ただ、それだけの話。




 俺には幼馴染が居る。と言っても、幼稚園の頃はただ存在を認識していた程度。おもちゃの貸し借りや同じ手遊びをして過ごすくらいしかなく、他に埋もれきってしまうような、特筆することもない仲。

 小中を進み途切れるかと思っていた縁は、偶然にも同じ高校を進学先としていることから中三にて強固になった。県では上から数えたほうが早い偏差値のそこを選んだのは、俺と幼馴染だけで。

 進路についての話が深まるたびに、知人が友人に。友人が親友と呼べる仲へ。真面目な話、くだらない雑談、どうしようもない愚痴、色んな言葉を交わした。

 共にいる時間はさほど多くも無かったし、何なら親しい友人の中では一番遊んだ回数も少ないだろう。けれど、それでも。

 幼馴染の側は確かに、居心地が良かったんだ。

 

 後ろから聞き慣れた声がした気がして振り向く。俺よりも少し低い背をした幼馴染が、僅かな距離を駆けてくる。その間に垂れ流していた洋楽を止め、鞄へイヤホンやスマホやらを仕舞った。

「ん。はよ、理樹」

「おはよう」

 隣に並んでから幼馴染の名を呼べば、低い地声で挨拶を返される。やっぱり俺よりも声低いんじゃなかろうか。いや、間違いなく同年代で一番低いだろう。

「今日も寒いね」

 話されることは気温のことで、お前の声並みに低いと口から出かけて堰き止めた。

 少し言葉を探して「冬だかんな」なんて中身のない返答をする。

「もうコタツださなきゃね。あ、そういえば。猫、元気?」

 以前話題に出した飼い猫の健康を聞かれる。よく覚えてんなと感心した。

「おー。家はもうコタツ稼働してるから、よく潜ってるぞ。ただみかんの匂いで逃げる」

「柑橘系苦手だもんね」

 その様でも浮かんだか、理樹は静かに笑った。漏れた息が白くなり、彼の赤と黒のマフラーに被さる。

「尚哉?」

 何も言わず白が溶けていく様を眺めるのを訝しんだか、名前を呼ばれた。

「あ、いや」

 ぼうっとしていたと言えば、それだけの話なのだろう。ぼんやりと吐息が冬に溶ける様をただ、眺めていただけだ。

「なんでも。ただ、さみぃなって」

「冬だしね」

 まるで冒頭に交わした内容の繰り返しだ。ただ、違うのは。

「早く春、来ないかなぁ」

 穏やかに春を望む声はあまりに柔らかくて。春を象ったら理樹になるのでは無いかなんて、なんとなく考えた。

 毒気を抜くと定評のある語り口を耳に入れながら通学路を行く。ちらほらと友人の顔も見えてきて挨拶を交わしながらも、理樹の暢気な発言を聞く。

 穏やか、暢気、平和。纏う空気が理樹の無害さを語っている。拍車を掛けるような発言に軽く言葉を返していると、寒い現実を思い出させるように後ろ襟を引かれる。

「っぐ」

「おっはよう尚哉、今日も背が高ぇな! 縮め!」

「朝っぱらからうっせぇなあおい」

 襟を掴んできた手を叩き落とし、何すんだと頭を腕で捕えた。「何をするー、やめるんだー!」と更に騒ぐ友人に拳を突きつけていると。

「尚哉、僕先行くわ。また後で」

 理樹がひらりと手を振り、早々昇降口へ向かってしまった。その背に「おう」と述べ、捕らえている頭に拳を。

 ところが抱えている友人の様子がおかしい。変なものでも見たとでも言うように、俺の顔をまじまじ見上げていた。

「なんだよ」

「いや。あいつと仲いいんだなぁって」

「まあ、中学同じだしな」

 更に言えばそれ以前も。けどそこまでを話す必要性を感じずにいると、友人は面白そうに笑う。

「あいつ、声すっげー低いよな。顔あっさりしてんのに」

「顔関係ないだろ」

「いやいや。ギャップ? がすげぇなって」

 ギャップ。ギャップ? ふと理樹の顔を思い浮かべる。女子のようとまではいかないものの、たしかに顔立ちに男っぽさもない。

「化粧したら女子じゃん、あの顔。声が高けりゃなー、女装させてデート出来んのに」

「理樹をお前に付き合わせんなよ」

 呆れて抱えた頭を放る。友人は姿勢は崩れたものの、倒れはせずに俺の方を向き直る。

「いーじゃん、考えるだけならタダだろ」

 わざとらしく頬をふくらませる友人に、一言「きもい」を献上した。


 眠たい授業を何とか越え、親の作った弁当を掻っ込んで午後の授業。午後一番の体育はその後を考えると億劫になる。確実に後の授業は更に眠い。

 よりにもよって体育の内容が持久走だ。寒い中走らせることの意味はなんなのか、体力づくりかなるほど。不満を持つものの、けれども別に運動は嫌いじゃない。足も速い方だし持久力だってある。

 指示通りに準備運動を終えれば、大凡4kmの持久走が始まる。グラウンド二周、のち市街地の決められた場所をぐるぐるぐるりと三周し、学校へ戻れば4kmほど。

 最初は友人と駄弁り走っていたけれど、途中で別れて一番前を走る。教師の激励を軽く聞き流し市街地の最後の一周に入れば、とたとた走る理樹の姿があった。

「大丈夫かー?」

 ぽんと背を叩くと肩を跳ねさせ、俺を見て瞬き。「っ、む、り」と血行が良くなり真っ赤になった頬を動かした。

「っはは、しんどいけど、まだ行けそうだな」

「むちゃ、いわん、でよっ」

「頑張ってるぞー、お前めっちゃ頑張ってる! 残りも頑張れるだろ?」

 もう一度背を叩き問えば、理樹は顰めっ面で二度頷いて、俺に先に行くよう手で促した。

「んじゃ、またゴールでな」

 手を軽く振り自分のペースに戻し走る。途中で話をしていたものの、後続者はまだ来ていない。体力はまだ残っている。無理しない程度に自分のペースで走れば良いだろう。

 最後まで無理しない程度に走り抜け、教師から測定タイムを聞く。途中で話したにも関わらず、今までには真剣に走ったことだってあったっていうのに。

 何度か走ってきた中の、ベスト記録だった。


 教師からの褒め言葉を受け流し、その後の授業もそれなりを過ごして放課後。部活中、水筒を教室に忘れたことに気がついた。

「ちょっと取ってくるわ」

「おー。あ、1on1やろうぜー」

「ダンクやれよダンク」

 休憩時間、軽く受け流されたためさっさと教室に向かう。1on1始めた二人は後ほどバテるだろう。容易に想像がついて、笑いそうになるのを噛み殺した。

 階段を登りさてもうすぐ教室だ、というところで。

「あ。っ、と。尚哉のこと?」

 理樹に名前を挙げられた。教室の廊下側の窓が開いているからか、特徴的なその声はよく聞こえてきた。一体なんの話をしてるだろうと悪い好奇心が湧き、聞き耳を立てた。

「ん? なに、小学校とか一緒だったん?」

 同じクラス、理樹と仲がいいやつの声。

「一応、幼稚園からの仲かな」

「んじゃ俺らも幼馴染ー」

「うぇーい」

 隣のクラスの悪目立ちする二人組の声。今も尚仲良し仲良しと騒ぎ合っている。幼馴染について話しているのだろうか。それにしては、やけに理樹の声は固かったような。

「お前さ」

 同じクラスのやつが、何かを言おうとしている。何をだろうか。きっと、ろくな話じゃないのだ。理樹の態度からそうと分かっているのに。知らぬふりをして、体育館へと戻ればいいのに。

 何故か手は、扉にのびていて。

「アイツのこと、好きなんじゃねーの」

 その一言を理解し切る前に、開けて。

 真っ先に顔から血の気を引かせた理樹が見えた。俺は教室に入って、彼の目の前に立つ。顔色が良くない。

 何も考えずに、ただ体が動くまま、彼を見下す。幼馴染はただ血色の悪い顔で、断罪されるのを待っているように見えた。

「何言ってんだよ、んなわけねーだろ」

 笑いまじりで誤魔化そうとして、気付かぬうちにひくりと頬が引き攣った。

「マジだったら、気持ち悪いわ」

 ただの冗句にするつもりの言葉が、何より鋭い刃になったことを。俺は予想もできていなかったのだ。

 理樹は両の手で口を塞ぐと、無言でぶるぶると震えた。腰掛けている椅子の脚が地面と擦れてがろと音を立てている。震えて、無言で。血が下がりきっていたと思った顔色は最早、白すらも通り越していて。

「理樹?」

 名前を呼べば、彼は椅子から転げ落ちて。

「おい、」

 声を掛けても、聞こえぬように這い立ち上がり。

「理樹っ」

 引き留めようと伸ばした手は、払い除けられた。

「くんなぁ!」

 怯えた様子で逃げ出した理樹に、呆然と立ち尽くした。遠ざかるどたどたと、ばたと言う拙い足音。追えば追いつけるだろうに、動けない。

 まちがえた?

 冷めた思考は、疑問で埋まった。


 停止していた俺を動かしたのは、先程まで仲良し仲良しと肩を組んで騒いでいた二人組だった。

「大丈夫か、なおやん」

「冬だからって凍るんじゃない、動け動け」

 両腕をそれぞれに揺すられれば意識も戻る。今まで呼ばれた事もない渾名に触れることもなく「わりぃ」と口にした。

「気持ち悪いは、まずったよな」

 一番すぐに思い浮かんだのはこれだった。

「つか、お前、いつから?」

 理樹を追い詰めるかのように話していた奴が、俺に聞いてきた。

「丁度俺の名前が聞こえたんだよ、何話してんのかなって」

「盗み聞きー」

「趣味わるー」

「うっせえ」

 隣のクラスの二人組が茶化してくる。適当に返して、手の震えを気にしないように努めた。払い除けられたのは、存外衝撃だったらしい。

「理樹、行っちまったけど」

 同じクラスのやつが、幼馴染が消えた扉の先を見やった。開き放しの扉からは冷ややかな風が入ってきている。ただでさえ廊下側の窓を閉めていなかった教室だ。すぐに温度は同化してしまうだろう。

「明日、謝るよ。俺部活途中だし」

 明日の朝一番にでも、声を掛ければいい。一晩空けば理樹も落ち着くだろうと、身勝手にも計算をした。

「そういやそうじゃん、なおっちどしたー? バスケ部クビになった?」

「お前今までろくに会話なかったのに容赦ねーな、スタメンだよ舐めんな」

 さっさと自分の席から水筒を抜く。たぽんと中身が揺れるので、取りに来たことは間違いじゃなかっただろう。ただ、時が悪かっただけで。

「んで、高宮。お前なんで、あんなに強く理樹に聞いてたんだ?」

 同じクラスのやつに聞く。そればかりは解せないままだった。表情はろくに変えないまま、ただ何事もないように。

「気になったから」

 と、それだけを返される。

 追求の仕様もなくて。俺は水筒を掴み、体育館へと戻った。理樹については明日謝ろうと。気持ち悪いなんて言葉を向けてごめんと、告げようと。ただ勝手に考えていた。

 明日が来ることを、俺は疑ってなかったのだ。




 部活仲間と適当なファーストフード店でポテトを摘みながら駄弁って。もう夜も染み付いた頃、ようやく自宅の扉を開けた。

 開けて何よりも見た、母親の姿があった。ただいつもと違うのは、外の寒さと同じくらいに冷えた表情ということ。

「ただいま」

 おっかなびっくり言えば、母親は淡々という。

「おかえりなさい、やっぱりあんた携帯見てなかったわね」

 携帯と言われ、放課後一度も確認していないことを思い出した。カバンのそこには確かに、埋まっているはずなのだけど。引っ張り出すよりも、なんならカバンを下ろすよりも先に母は告げた。

「あんたの友達、事故に遭ったって」

 その言葉が、永遠に頭を反響する心地だった。

 事故。事故。事故に遭った。

 じこにあった?

「誰が」

 誰でも。誰でも、俺は怖い。事故に遭った。交通事故に、遭ったってことだろう。なにと? どんなぐあいに? どうして? なにをして? なにが?

 だれに、なにが。

「理樹くんが、車に跳ねられたそうよ」

 て。母は、言い。

 車に跳ねられた。

 理樹が。

 幼馴染が。

 親友が。

 車に。車に、跳ねられて。車に? そして。

 それで。それで。

 それから。

 頭が真っ白になって。わけも、うえも、したも、なにも、わからなくなって。

 酷く頭が痛んで、心臓の鼓動が早くなり過ぎて、知らぬうちに呼吸も浅くなっていて。

 続く母の言葉を聞いて。

 力が抜けて、くずおれた。




 ある病院の一室。白さが目に痛いが、それを実感しているのは誰よりも自分で間違いないだろう。

「お、おま、おまえまじぶぁっ、ひぃっつ、ぅぐぇ、ふうぅぅぐぅ」

 だらだらと流される涙と鼻水。口からも何かが漏れている気がするけど、気のせいだろうか。多分そうだろう。

 幼馴染の男らしく整った顔立ちを台無しにする、泣きっぷり。真っ赤になった目と鼻と頬と、全てがぐしゃぐしゃな顔。病室の清潔さは対比され余計に眩しい。

 まあ、ここまで泣かれるとは思ってなかったので、色々と感じるものがある。

「尚哉、あの、ごめん、そんな泣かないで」

「ぼぉばがやびょうっぐんなにぁっぶえ」

 何も聞き取れない。彼が持参してきたティッシュの箱は既に空になった。これ以降は据え付けのものかと見守っていると、カバンから追加で二箱ティッシュが出てきた。備えられているのはいいのだけど、そろそろ水分を取って欲しいところではある。

「っごべんあ゙、ごべ、んぐんぁ」

 泣きに泣いて。彼は合間に、こうして謝罪らしきものを交えた。僕はなぜかそれだけは理解できてしまって。

「僕もごめんね、吃驚させて」

 そうして謝れば、彼は更に泣くものだから。収集がつかない事態をどうしようかと、途方に暮れる。

 昨日、いや、もう四日前ほどか。僕は教室から何も持たずに逃げ出して、家と正反対の方面の赤信号で跳ねられたらしい。この記憶は曖昧で、殆どが親から聞いたこと。偶然通り掛かりの人と、又運転をしていた良識ある人の二人に救われたと言う。

 出血が多かっただけで大した怪我でもなく、僕は二週間の入院が決まった。骨も折れてなかったのは運が良かったとしか言えないだろう。

 命に別状はないし、後遺症の恐れは何も無い。医者に太鼓判を押されるほど、交通事故としては幸運な運びになった。

 しかし、幼馴染はこうして吐きそうな程に泣くくらい、心的疲労があったようで。

「り゙ぎごべんな゙ぁ゙」

「鼻水の詰まり方すごいね」

 一周回って穏やかな気持ちで見守れるようになった。ここまで心配、もしくは罪悪感を抱かれるなんて。変わらず彼は善良なままだった。

 事故に遭う前の、あの話。尚哉はずっと、謝り続けている。彼から謝られる理由は何処にもないのに。

 気持ち悪く感じるのは、事実だろう。同性から恋情を向けられるなんて、悍ましく感じてしまっても仕方ない。感じ方は人それぞれなのだから、申し訳の無さを感じるのは、僕の方で。

 そう思いながら泣く彼を眺める。また時折宥め、落ち着くまでも見守った。すんすんと息をする程度に収まったところで、まだ鼻声の彼はまた「ごめん゙な」と言う。

「僕こそ、ごめんね」

 君を好きになって、ごめんね。言わないことが何よりの謝罪だと思い、胸に秘める。君に気持ち悪いなんて思わせる感情を持って、抱いてしまって。ごめんね。

 そう思っていたのだけど。

「おま゙え、気持ち悪いっで言葉、いや゙だろ?」

 と、想定とは違う発言が。

「理樹は、全然変声期来なくでさ。高い声だったから゙、女子みだい゙って、揶揄われて」

 ああ。中学の頃の話か。ふとあの日を思い出す。中肉中背、顔もあっさりしてるからか、やけに女子女子言われた時期があった。

「けど、夏のさ。面接練習始まった頃に、丁度変声期来て。だみ声だみ声って」

 そんな日も、あったなぁ。かすかすでろくに話せないときもあったっけ。

「んで、今の位の低さになって」

 ああ、そう言えば。

「顔と声とが合わないってね」

 言われたねぇと笑えば、尚哉は苦しそうに噛み締める。顔と声が合わなすぎて、気持ち悪いと。確かに言われたことがあった。

 彼はずっとそれを覚えてて。いや、思い出して。それで、謝りたかったのか。

「僕、ほとんど忘れてたよ。そんなこと」

 えと口を開けた尚哉の顔は間が抜けてて、思わず吹き出した。

「だってさ、もっと良いことがあったから」

 声が変わりつつある中、声が変わったあと、僕は君と親友と呼べそうなほど親しくなったのだ。揶揄いの言葉なんて全て君が跳ね除けたし、笑い飛ばした。側にいてくれた人は他にもいたけど。けど、君は。

「顔も声も全部引っくるめて、『加賀谷 理樹』なんだって、君が言ってくれたから。

 僕は自分の声が、嫌いじゃないんだ」

 だって、言われなければ意識しない程に。声は自分のものでしかなかったのだから。

 君の言葉に救われたときに。確かに僕は、君が一等眩しく感じたんだ。君に憧れて。馬鹿かもしれないけど、君に恋をしたんだ。

「だからさ、尚哉」

 不安と混乱と安堵の中心に揺らいでる顔が、ただ愛おしかった。

「夏は君の背の高さを気温と交えて揶揄うからさ。冬は、僕の声の低さを揶揄してよ。

 僕は、自分の声を誇れるから」

 自分が感じる声と、他人が聞き取る自分の声は違ったりもする。僕の想像以上に確かに僕の声は低いだろう。

「気持ち悪いって言葉は、忘れていいんだよ」

 気にしなくていい。尚哉も、僕も。その言葉が産んだズレも、何も。

 ただ僕と君は仲の良い友人で。君の背は高くて、僕の声は低くて。

 運動も勉強もできる君と、それなりを努力して得る僕と。僕が君に抱く感情と。君が僕に対して抱いている認識と。

 そのズレは、ズレのままでいいから。

「ね、尚哉」

 鼻を啜る音がしたのでティッシュを差し出す。噛む音がして「なに」と幾分か晴れた声が返ってくる。

「春、早く来るといいね」

「……そうだな」

 窓の外では、白く細かなものが降っていた。

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