2章2話:新たな世界
神嶋が自宅のリビングで鼻血を止めようとしていたのと同じ頃、海堂はリビングのソファーの上にひっくり返っていた。ローテーブルの上には雑然とプリントやワークが広げられている。
(……古典、全然分からない)
紅白戦の動画を編集して送信したあとに古典の課題をやろうとしたが、内容が分からずに諦めているところである。
ソファー上でゴロゴロと寝返りをうっている間に、一階の玄関の扉が開く音がした。ガサガサというビニールの音がする。弟たちならもっと騒がしいはずなので恐らく兄だろう。
「ただいま……、って聖、お前何してるんだ」
「兄さん、古典分かる?」
「古典?基礎くらいならまだ覚えていると思うが。……課題か?」
仕事から帰って来た兄は腕にかけたジャケットを椅子に掛け直し、ゆっくりと海堂のほうにやって来る。
「そう。全然分かんない」
「この程度で音を上げてどうするんだ。この先、もっと難しくなるって言うのに。分からなければ調べればいいだろう」
「めんどくさい」
「それならいつまで経っても答えは教えてやらん。ある程度自分でやって、それでも分からないなら俺のところに持って来い。そしたら、一緒に考えてやらんこともない」
そう言った兄は床に放置したビニール袋の中をガサガサと漁り、中身をキッチンのカウンターに並べる。
「うわ、全部ビールじゃん」
「父さんに何か欲しいものはあるかって聞いたらビールだって。何、余った分は俺と母さんで飲むさ」
「出た、妖怪ウワバミ」
「ウワバミでけっこう。否定は出来ん」
そう言って吟介はカラカラと笑った。この間の正月に兄と母が二人で日本酒の一升瓶を三本、赤ワインを四本空けたのは記憶に新しい。
「私もウワバミなのかな」
「母さん方の血が濃ければ、お前もそうなんじゃないか?」
ビールの缶を腕に抱えた吟介は、冷蔵庫にそれを全部詰め込んでから三階に消えていく。そのあとに着替え一式を抱えて現れたので、恐らくはそのまま風呂に行くのだろう。
「風呂から戻って来たら課題を見てやる。進めておけよ。制限時間は三十分!」
始め!と怒鳴った兄の剣幕に押されて思わず姿勢を正して机に向かう。どこまで行っても敵わないと思い、思わずため息をついた。
「ほら、あと一つで終わりだ。集中しろ。表を見れば全部分かるんだから落ち着け」
本当に三十分経ってから吟介は髪が濡れたまま戻って来て、本当に課題を見始めた。あまりの律儀さに開いた口が塞がらなくなるところだったが、正直それどころではない。
「え〜っと、……已然形?」
「正解!ほら、課題は終わったぞ」
「ありがとうございました……」
「じゃあ次は俺の仕事を手伝え。晩飯の下ごしらえだ」
それが目的だったのだと分かってため息をつく。計算高いこの兄には本当に敵わない。
「そう言えば、聖、部活はどうだ?」
「順調だよ、すごく」
「そうか。……楽しいか、バレーは」
兄の気遣うような声のトーンで投げかけられた疑問に、海堂は笑って返した。
「楽しいよ。やっぱり」
「……なら良かった」
そう言った兄は、海堂の頭を掻き撫でて立ち上がり、キッチンに向かった。
(しかし、コートを外から見るのだと全く違うんだな……)
自分がプレーしないのは、ただ暇なのだと思っていた。
コートの中にしか無いひりつくような緊張感、荒くなった息が喉を灼く感覚、床を踏んで跳んだときに打つべきコースがくっきりと見えるあの瞬間。
コートの中にしか無い全てを、自分は全て知ってしまっている。だからこそ、アナリストなんてロクでもないと思っていた。しかしそれは違ったのだ。
(全部見える。コートの外からだと、中じゃ見えにくいものが全部見える。特等席だ)
コートを俯瞰し、戦局を把握することの難易度が格段に下がった。身体を動かしていないから頭を回す余裕も増える。
自分なりの極め方、バレーへの価値観。自分が今まで積み上げ重ねて来たものを新たなものへと塗り替え、すげ替える。その感触は決して嫌なものではなかった。
(う〜ん……、オレ、何か変なんだよな〜)
時計の針が九時半を回った頃、火野は一人で考え込んでいた。手に握られているスマートフォンで見ているのは、昼間に海堂から送られてきた編集済みの動画だ。自分のスパイクのところだけを繰り返し再生している。
(何が変なのかは分かんねえけど、確実に何か変なんだよな〜……)
他の人のスパイクとも比較してみるが、明らかな違いは分からない。しかし何かが違う気がしていた。
「明日も部活あるし、早く行って海堂を捕まえるかな……」
自分の部屋の布団の上でそう思っていたとき、父親からスマートフォンに連絡が入る。
『ホールの人が足りないから来い!』
簡潔かつ乱暴な文章を見て軽くため息をついてから、火野は立ち上がった。
火野の両親は火野が生まれる数年前からスペイン料理屋を営んでいる。厨房を手伝わされることはまず無いが、ホールの手伝いはよくあることなので慣れていた。
「三番テーブルの注文取ってこい!」
メモ帳を渡されてホールに出ると、確かに店は大盛況だった。
(うわ、めっちゃ人いるな〜)
そう思いながら三番テーブルまで小走りで移動する。
もともとそこまで大きな店ではないのでテーブル数も少ない。しかしそれを含めて考えても、あまりにも混雑していた。
(やっぱゴールデンウィークが近づいて来たから、みんな財布の紐緩んでんのかな)
これは稼ぎ時だと内心笑う。普段は家の仕事を手伝っても報酬は無いのだが、連休などで稼いだ時期は臨時で小遣いに千円ほどプラスされる。たかが千円、されど千円。高校生にとってのプラス千円はとても大きい。
注文を取ってから厨房に戻ると、注文の多さにてんてこ舞いといった様子だった。
「親父、これ三番テーブルの!」
「カウンターに乗ってるやつ、十番に持ってけ!」
「はいよ!」
ワイングラスが三つ乗ったトレイを片手にワインクーラーを掴んで再びホールに出た。火野は、部活よりもこちらのほうがしんどいと思っている。身体を動かすという点ではこちらのほうが楽だが、いくつかのことを同時に考えながら動くのは難しいのだ。
(……あ、もしかして)
『敵味方、両方のコートの状況を、同時に三次元で頭の中のコートに投影する』
ふと、海堂の言葉が頭の中に蘇る。
決して広くない店内の通路は、ホールスタッフが通ることもあり同時にすれ違うのは難しい。トレイの上に乗せたものを落とさないように、かつすれ違えるように気を遣うのは大変だ。しかし。
(頭の中に、もう一つ店を造れ……。三次元はよく分かんないから二次元でもいい)
生まれたときから見ている店内は自宅のようなものである。その間取りを頭の中に落とし込む。
(オレから見て右側にソフトドリンクの冷蔵庫、後ろにキッチン。目の前に店の入り口。テーブルは全部で十二個。オレから見て左側に一から三番テーブル、そこから一メートルくらい空けて四番から六番。七番から九番との間に、同じ通路)
目の前の状態を頭の中に平面で描く。
(十番から十二番のところは壁際のソファー席。今、ホールスタッフはオレを除いて三人。さっき八番と七番に人が行った。それでキッチンまで最短距離で戻って来るはず)
他のスタッフの動きを目で捉え、自分の考えが正しいことを確認する。
(読みが当たった。ということは、オレは二人がテーブルまで行ったのと同じ道順で行けばぶつからない!)
『可能性の高い選択肢から考え、使えるものだけを計算に入れる』
再び海堂の言葉が頭の中に蘇る。
(それと同じだ……!その場の状況を整理して可能性を考えれば仕事が楽になる!)
火野は一歩踏み出して、自分が考えたルートで歩き出す。
(あ、五番の客が立ち上がった!カバンを持ってるから多分帰るぞ……)
火野はチラリと店の入り口の方を見る。
(このままだとオレとぶつかる。なら、一本手前の通路から行けばいい!)
方針を変えて予定より一本手前の通路を歩き、一番壁際のソファー席になっている十番テーブルまでたどり着く。
(読みが当たった!面白い!)
「ご注文のワインです。以上でよろしいでしょうか?」
「あと、追加で四種のチーズ盛り合わせを一皿お願いします」
「はい!」
その注文を書きつけたメモを父親に手渡すと、不思議そうな顔をされた。
「何だ、機嫌いいじゃねえか」
「フッフッフ……、仕事を楽にする方法を見つけた!」
「ほ〜う。和樹にしてはよくやるなあ」
「聞きたい?聞きたい?」
「後でな!」
さっさと行け!とトレイと共にキッチンから追い出された火野だったが、普段の何倍も上機嫌であった
店仕舞いをした後、早く寝ろと追いやられた火野は自分のベッドにひっくり返り、何もない天井を見た。そろそろ寝るかと思ったときに、部活で使っているサポーターが目に入って思い出す。
(あ、そうだ……。まだ解決してなかった)
ベッド横の机に置いたスマートフォンを開き、動画のファイルをタップしてもう一度自分のスパイクを観察する。
「そうだ、川村さんのスパイクと比べてみよう」
少し映像を進めて川村のスパイクを観察し始める。
助走の時点から打ち終わるまで何枚もスクリーンショットを撮りコマ撮りのようにして保存した後、自分のスパイクのところも同じように保存する。
それらを見比べて、しばらくしてから、火野は大声を上げて身体を起こした。
「そうか!オレは落ちるのが早いんだ!」
そのヒントになったのは、画面の左端に写っていた何分まで再生したかという数字だった。それに気が付かなければ、自分の何が変なのかは気がつけなかった。
「何でだ?どうしてだ?オレと川村さんと何が違うんだ?」
スマートフォンの画面に食いつくように目をやって何度も見比べて、火野は今度こそ大声を上げる。
「オレのジャンプが低い!」
そう、川村より火野のジャンプのほうが低い。結果として落ちるのも早くなっている。判断のヒントになったのはネット脇に立ててある赤と白のアンテナである。川村のほうが到達点が高い。
「あ〜!でも理由が分かんねえ!そうだ、明日は普段より早く行って海堂を捕まえよう!よし、オレは寝る!」
スマートフォンに充電器を挿した火野は、頭からタオルケットを被った。
翌朝、火野は自分が一番乗りだと思って体育館に来たのだが……。
「あれ?」
体育館には、なぜかほとんど全員が揃っていた。今は八時半。部活開始時刻は九時半。つまり一時間前なのに、なぜかほとんど全員が揃っている。
「お、火野だ。おはよう」
「おはよう、たっつー。何でみんないるの?」
「え?そりゃあお前……、自主練っしょ?」
長谷川がニヤリと笑い、それにつられて火野も笑う。
「やっぱ?」
「先輩たちもほとんど揃ってるぞ」
「うわ、ホントだ」
体育館に入りシューズの紐を結んでいるとそこに川村がやって来る。
「よう火野ォ」
「おはようございます、川村さん」
「一緒にやるか?スパイク練」
隣にかがみ込んで来た川村は火野の肩を抱いてそう問うた。
「いいんすか⁈」
「ミコトに上げてもらおうぜ」
「そうだ!オレ、海堂に聞かなきゃいけないことがあるんすよ!てかアイツ来てます?」
「来てるぜ。アイツか神嶋が一番乗りだ」
シューズの紐を結んだ火野は海堂に向かって突進するような勢いで走って行く。
「海堂!海堂!」
「おはよう、火野」
「一つ聞きたいことがあるんだけどさ!オレ、全然跳べてないんだけど、どうすればもっと跳べる?オレは何をすればいい?」
そこまで聞いてから勢いが良すぎたかと反省する。またあのキレる寸前みたいな顔をされるのだろうか。
そう思った火野だったが、海堂の表情は今までに見たことのないものだった。
(うわぁ……、すんげえ悪人面……)
薄い唇の片側を吊り上げて笑っている。三白眼の効果もあって、実に凶悪な笑みだ。
「読み通りだ」
「は?」
「それはあえて言わなかったんだ。一緒に送ったファイルの片方は改善点についてだったでしょ?そっちには、連携のことしか書かなかった」
「あ、確かに……」
「そのくらい、自分で気がついてもらわなきゃ困る。全国に行きたいなら、いつまで経っても自分は下手だから人の倍以上努力するくらいの気概でいてもらわなきゃ」
その言葉に周囲の部員は唖然としていた。
「つまり俺たちは海堂の手のひらの上だったってこと……?」
「そうですよ。皆さんはまんまと引っかかっていつもより一時間も早く集まったんです」
海堂は大変満足げだ。
「せっかくですから、改善講座でもやりましょう。全員揃ってるんですから、そのくらい出来ますよ」
その言葉に真っ先に食いついたのは火野だった。
「じゃあどうしたらオレはもっと跳べるようになるのか教えてください!」
「あ!抜け駆けしやがったな、火野ォ!」
「早い者勝ちっすよ!」
北雷高校旧体育館がさらに騒がしくなる。
(いいぞ、そう、この雰囲気だ。これならチームは強くなる)
誰もが先を争うように、自分の全てを極めようとする。誰か一人がそうすれば、少なからず数人は確実についてくる。そうして出来るサイクルは、確実にチームを変える。鬼才は、それを知っている。
(きっと、ここなら強くなれる……!)
鬼才の闘志が静かに再燃し始めた五月の朝であった。
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