背番号0番〜1st Season〜
青濱ソーカイ
プロローグ〈鬼才・海堂聖の死〉
その日は遠征の帰りだった。今でも思う。あのとき気が急いてあの道を通りさえしなければ、自分はこんな苦しい思いをせずに済んだのだと。
『今日もすごかったね、無敵だったじゃん』
『……一応エース張ってるからこのくらいの仕事はしないと』
『何を謙遜してんの!』
『そうだよ!県代表にまでなっといてその謙遜はないでしょ!まっ、さすがウチのエース様ってとこだね!』
『聖、また明日!』
後ろから聞こえた友達の声に彼女は軽く手を振って笑って見せた。
『うん、また明日』
同級生たちの声に混ざって後輩たちが『お疲れ様さまでした!』と言っていたのでそれに軽く手を振って背を向けた。ネックウォーマーに顎を埋め、背中に「走水中学女子バレーボール部」と書かれたウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込んで歩き出す。水筒と空の弁当箱、タオルと替えの練習着と筆記用具とクリアファイルとサポーターの入ったスポーツバックが揺れる。今日の練習試合には勝ったから、夕飯はきっと好物の醤油ラーメンだろう。
(寒いな……)
息は吐き出すたびに白くなり、吹き付ける風の冷たさに耳が切れそうになる。家に帰ったらまずは風呂かな、いつ走りに行こう。と考える。日課のトレーニングは怠れない。極度に鍛え上げたこの身体は、体質の関係で簡単に衰えるのだ。つけた筋肉も運動しないとすぐに落ちてしまう。それと合わせてストレッチも必須だ。身体の柔軟性を失えば、それは怪我の原因となる。
(今日、お母さんもお父さんも兄さんもいるんだよね。ずっと話聞いてもらえる)
薄暗い住宅街の道を一人で歩く。他の部員は家の方向が同じメンバーで固まって帰るが、今日は一人で違う道を歩いていた。この道が一番の近道だからだ。急ぐ理由は二つだった。普段多忙で家に帰って来ることの少ない両親が揃っているからだ。
父は昆虫学者、母は体操のプロコーチだ。父はしょっちゅうアマゾンやらガラパゴスやらに赴き虫と戯れ、母は合宿やスカウトや講習会やらで家を空ける。そのせいで十歳離れている兄が実家住まいなのだが、それはそれで楽しい。とは言え家族全員が揃うのは珍しいので、自然と早く早くと気が急いていた。
海堂には十歳上の兄と二歳年下の双子の弟たちがいる。兄は自転車、双子の片方はサッカー、片方は水泳をやっている。試合やレースで結果を出すと海堂家のその日の夕飯はその人の好物になる。そしてその日の夕飯以降のテレビのチャンネル選択権はその人にある。そういう「お家ルール」があった。醤油ラーメンは海堂の好物だ。味は濃い目で麺は太麺。野菜と肉が大量に乗っているが、その中でも一番美味しいのが母お手製のチャーシューだ。それをどんぶりの底に沈めて、熱で柔らかくなるのを待ってから引き摺り出して齧りつく。柔らかいうえにスープが染みていて噛むたびに味がする。それが一番美味しい食べ方だ。たまに母の気分によっては固ゆでのゆで卵も入っている。ゆで卵は最後に取っておいてスープに黄身を溶かして食べるのがいい。
家族六人が全員揃うのできっと食卓は狭いだろう。口には出さないけれど、普段は味わえないその狭さが実はとても好きなのだ。
父は食事中でもかまわずに虫の話をする。母は父の虫好きには諦めているので、それを無視して黙々と食べるだろう。虫が嫌いな双子の片方の弟は嫌がって止めようとするかもしれない。もう片方の弟はかまってほしさにうるさくするだろう。兄はそれを見て呆れたようにしながらも何だかんだで世話を焼くはずだ。自分はどうしよう。バレーに興味のない父親の虫トークを遮ってひたすら試合の感想でも語ってやろうか。きっと嫌そうな顔をするんじゃないだろうか。
(夕飯は醤油ラーメン。お父さんが一昨日まで台湾にいたから、台湾土産のパイナップルケーキがある)
それを考えるのに夢中で周りを見ていなかった。だから気がつかなかった。急に曲がって来るハイブリッドカーの存在に。
気がついたときにはもう遅かった。時間がまるでスローモーション再生のように過ぎて、車が突っ込んで来る。その日の記憶は、そこで途切れた。
気がつくと、そこは見知らぬ部屋だった。ベッド脇の椅子にスーツのまま座っていた兄と目が合うと、兄は泣きそうな顔で笑った。
「良かった、気がついて、本当に良かった」
こんな情けない顔を見たのは初めてだった。お世辞にも親しみやすい顔立ちとは言えない兄は、数年前に仕事中に怪我をした。ただでさえ厳しい顔立ちなのに、その傷痕のせいでおよそカタギの人間には見えない。そんな兄が情けない顔で声を震わせている。それは大変奇妙に見えた。そうぼんやりと思った途端に兄に抱きしめられて、こうされるのはだいぶ久しぶりだなと考えていたが、自分が一体どういう状態なのかは分からずじまいだ。
それからしばらくして、主治医と思われる医師と看護師がやってきて色々質問を受けた。その間に親が息を切らせてやって来て、それからさらに遅れて二人の弟がランドセルを背負ったまま飛び込んできた。
「聖が生きてる!」
「大丈夫⁈ゾンビだったりしない⁈」
とギャアギャアとカラスのように騒ぎ立てるので、兄に捕まって病室から引きずり出されていく。その後ろ姿を見送ってから医師の説明を受け、ようやく自分の状態を把握出来た。
「つまり、遠征帰りに車に突っ込まれて内臓が破裂して肩も膝も骨折した状態で運び込まれて何とか助かったけど、一週間昏睡状態だったってことですか?」
ざっくりとまとめた内容を話すと医師は頷く。
「肩と膝の状態は?」
そこが一番気になるポイントだった。バレーボールをやる上での生命線とも言えるこの二つ。肩が壊れればスパイクもサーブも打てない。膝が壊れれば跳べない。今の海堂にとっては、内臓の治り具合よりもそれのほうが大事だった。
「肩と膝の怪我のほうは全治半年……、と言ったところでしょう」
あまりにも無情で残酷な言葉が病室の冷たい床に落ちた。
「リハビリを入れれば一年。長丁場になります。辛いこととは思いますが、まだ十四歳ですからね。これからの長い人生を考えればじっくりと時間をかけて、丁寧に治療することをおすすめしますよ」
リハビリを入れれば一年。その歳月に少女はめまいを覚える。何て長いのだろう。
「先生、バレー、は」
海堂の不安そうな言葉に、再び医師の無情な言葉が返ってきた。
「リハビリ後の状態にもよりますが、以前のようにはいかないと思います。手術も複数回必要になると思われますので、以前のように全国レベルのプレーヤーとして戦うのは難しいでしょう」
視界がぐるぐると揺れるように錯覚する。こんなことになるなんて、一週間前には全く思いもしなかった。
医師と親が病室を去ってから、一人取り残された海堂はぼんやりと窓の外を見る。冬の香りを残す薄曇りの空に春先の太陽が覗き、その眩しさは少し前まで彼女を照らしていた強いライトを思い出させた。
都道府県対抗戦の会場で打ち鳴らされるメガホンに合わせて連呼される自分の名前。太陽光の代わりに照りつけるのは体育館のライト。身につけるのは膝を覆う黒いサポーターに背番号四番のユニフォーム。神奈川県代表として選出され、熾烈な争いの末に勝ち取ったそれは彼女の誇りだった。
『鬼才現る』
そう謳われた。強豪・走水中学校女子バレーボール部初の二年生エースとして鬼才ともてはやされ、その言葉に恥じぬ実力を誇り、その証としてコートに立ち、全中ではチームを優勝に導いた。実力は認められ、都道府県対抗戦の神奈川県代表に選ばれた。三年生になってからもバレー漬けで過ごすのだと、そう信じて疑わなかった。こんな形で全てを失うことになるとは思わずに。
(遠征帰りに車に突っ込まれるとか、そんなのアリかよ……)
いくら悔しさに歯軋りしても、枕を濡らしても、再起不能という彼女にとっては絶望しか出来ないこの事実だけは変わらない。
——鬼才・海堂聖は今日死んだ。
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