根岸右琉澄、人間性を獲得できた理由
そうやって心的外傷をメイトギアによって癒してもらってきた
『メイトギアに縋らずにいられない状態の子供は、あくまで自身の情動を一方的に吐き出しているだけであり、逆にメイトギアのことをよく見る余裕がないからこそ成立しているものだ』
というのも、ここまでの研究によって分かってきている。
つまり、子供の側は、メイトギアが自分を受け止めてくれているか否かだけしかほぼ見えておらず、メイトギアが人間的な反応を見せているかどうかは重要ではないのだ。
だから甘えることもできた。
しかし、そこまで追い詰められているわけではない子供は、メイトギアのことをよく見ている。細かいところまでよく見ている。
『自身の理不尽な振る舞いに対してまったく平然としている』
という部分もよく見ているのだ。けれど、幼いうちは人間とメイトギアの区別が十分につけられない場合が多く、しかも子供の面倒を見ているのがメイトギアのみという状況だと、なおさらその違いを学び取れない。
そう、人間の理不尽な振る舞いに対しても平然としていられるメイトギアの振る舞いそのものが<当たり前>になってしまって、生身の人間に対しても同様に接してしまう傾向が強くなるのだ。
もちろんそれも、すべての子供に当てはまるわけではない。そうじゃない子供も当然ながらいる。ゆえに、メイトギアだけに育てられた人間全員が反社会的な価値観を持つわけではないのである。これは、『メイトギアだけに育てられた』と言っても周囲にまったく人間が存在しないわけではないので、そういうわずかな<生身の人間との関わり>によって少なからず人間性を学べる機会も存在しないわけではないからだろうと見られている。
まさか本当に<メイトギアだけで育てる実験>ができるわけではないがゆえに、生身の人間との関わりを完全に排除できないため、厳密には事例ごとで細かい部分の前提条件が違ってしまうことにより、あくまで統計学的なアプローチによって導き出された<傾向>でしかないというのも事実ではある。
あるが、決して無視できるような偏りではないことも事実なのだとされていた。
右琉澄が施設に保護されていた当時はまだその辺りの研究も不十分ではあったものの、結果として、
<生身の人間では対処しきれないほどの極端な甘え>
についてはメイトギアに受け止めきってもらえ、同時に、
<生身の人間が見せる反応>
については一緒に保護されていた百人近い子供達から学ぶことができたがゆえに、右琉澄は幸運にも人間性を獲得することができたのだと思われる。
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