3日目 アリシア、初めてのお留守番

アリシアが、『千堂アリシア』としてこの屋敷に迎えられて三日目の朝。今日は寝坊せずに起きられた。和食好きだが朝はあまり量は食べない千堂の為に、ご飯に焼き魚、味噌汁に里芋の煮物という、敢えて質素なメニューに抑えた。そう、『抑えた』のだ。朝からじゃんじゃん食べさせたいと思ってしまう自分を抑えつつ、彼に合わせてきたのである。


そんな事情を知ってか知らずか、彼はアリシアが用意してくれた朝食をしっかりと味わってくれたのだった。


「美味しかったよ。ありがとう」


彼の食欲がしっかりと満たされ、量としては十分だったことが改めて確認出来たことでこれで良かったのだとは思いつつも、本心では自分の料理をもっとたくさん食べてほしいと彼女は願わずにはいられなかった。


しかしあまり食べさせ過ぎては彼のボディバランスを含めた体調に悪影響を与える可能性ももちろん承知しており、その為、彼の前ではにこやかな笑顔を見せつつも彼女のメインフレーム内では葛藤が駆け巡り、懊悩していたのも事実だった。


それでも努めて冷静なふりをして、迎えの車が着いたことを信号で感知したアリシアは彼に告げた。


「千堂様、お迎えの車が到着しました」


その言葉に彼は立ち上がり、歩き出す自然な流れの中で彼女の額にキスをし、言った。


「じゃあ、行ってくるよ」


リビングから出ていく千堂を呆然と見送りそうになったアリシアもハッと我に返り、後を追う。玄関まで付き従って迎えの秘書らと共に車に乗り込む彼に深々と頭を下げ、見送った。


「行ってらっしゃいませ」


彼を乗せた自動車が見えなくなってやっと頭を上げ。彼女は自分の額に手をやった。彼女の触覚センサーが彼の唇の感触をデータとして記憶していた。キスと同時に感知されたバイタルサインも、データとして保存する。既に屋敷に来てからも何度かキスをしてもらったというのに、彼女はその度に浮き上がるような感覚を覚えるのだった。


そして締まりのない顔になってしまって、「えへへ」と照れ笑いの声が漏れてしまう。その浮かれた気分のまま屋敷の中に戻ろうとした時、僅かな段差に足を取られ、危うく転倒しそうになった。


「うわっとぅ!!」


と、およそそれまで出したことのない声が出た。さすがの反射速度で転倒こそ免れたものの、それもまた本来のアリシアシリーズなら有り得ない姿だった。そもそも段差につまづくことがまずなく、もしつまづいたとしてもここまで大袈裟なことにはならない。絶妙な重心移動で回避するのだ。もし転倒して家財に傷を付けたり、万が一にも人間を巻き込んでは大変なクレームになりかねないからである。


やはりその辺りのデータ処理の遅れが影響してるのであろうことは明白だと思われた。ここからも、彼女がもう既に規格品としてはおよそ合格に出来ないほどに壊れているのが確認された。何しろ、段差につまづいてバランスを崩しそれを回復させるまでの一連の動きはデータとして開発部に送られているのだから。


一応、プライバシーのこともあり映像と音声のデータは送信はされていない。それは現オーナーである千堂が生体認証の上で送信する設定にしなければ、開発部からは何をやっても無理なのだ。メイトギアにはその種のデータもメーカー側で集めることが出来るといういかにもな噂は昔から絶えないが、実際には行われていないしそのようなことは出来ないように作られているのである。アリシアやアリシア2305-HHSが送信しているデータさえ、千堂が自ら設定を行ったから送られているくらいなのだから。


人間の生活に深く入り込み、入浴や排泄、果ては男女の営みの後の始末までとプライバシー中のプライバシーにも関わることのあるメイトギアは、ほぼ完全なスタンドアローンを実現したロボットでもあるのだ。


ネットワークを参照することもできるが、実はシステム的には繋がっていない。人間が端末でネットワークを見るのと同じ形で見ていると言えばいいだろうか。


まあそれはそれとして、今日はアリシアにとっては<初めてのお留守番>の日でもあった。


と言うのも、彼女は元々、商談などで治安の良くない場所に赴くこともある会社の役員を守る為に貸与される備品として配備された機体であった為、私用で使われたことがこれまでなく、結果として家人の留守を預かるという機会が無かったのだった。だから<心のようなもの>を持ったロボットとして初めてというだけでなくて彼女自身が留守番は初めてなのである。


もっとも、普通のアリシアシリーズならそんなことは気にする必要も当然ない。そんなことは当たり前のこととして想定された使い方なのだから気にする方が本来おかしいのだが、彼女の特殊性を思えば、それは特別な意味を持ってしまうと言えるだろう。


「初めてのお留守番…」


玄関でつまづいたことも忘れたかのように、彼女は一人、それを口にした。千堂が帰って来るまでの時間をいかに過ごせばいいのか、彼女は正直言って戸惑っていた。もちろん、自分に与えられた仕事はこなす。しかし、それは通常のやり方でこなせば恐らく午前中には終わってしまう程度の仕事だ。


そんなことを考えていると、彼女は接近する信号を感知した。アリシア2305-HHSだった。急いで廊下の端に控え、頭を下げて待機した。その彼女の前を無表情なアリシア2305-HHSが彼女に一瞥をくれただけで通り過ぎる。相変わらずの反応だ。玩具のロボットが放置されてると認識したもののそれはまだ千堂の管理下にあり、勝手に片付けることは出来ないと判断し通り過ぎたのだ。


その様子をみると、アリシアのメインフレームには言いようのない負荷がかかるのだった。先輩メイドに対する申し訳ないという気持ちとでも言えばいいだろうか。しかしそれは、自分のこれからの働きや振る舞いによって贖っていかなければいけないと彼女は思った。


「よーし、がんばるぞ!」


十分に信号が遠ざかり姿が見えなくなった後、頭を上げたアリシアはそう言って両手の拳を握り締めた。まずは洗濯を始める。と言っても洗うものは彼が着たものとタオル類と布団のシーツ程度なので、分けて洗うことすら不合理に思われた。洗濯機がそれを洗っている間に書斎脇に設置された千堂専用のトイレの掃除にかかる。元々彼自身が丁寧に使うので見た目には綺麗なものだが、トイレを一つの部屋とみなして上から下まで磨き上げた。こういう形で時間を費やすことにしたのだ。


トイレの次はバスルームだ。トイレ掃除をした自分自身の洗浄も兼ねて、スチームクリーナーでまず自分を洗浄してからバスルームの清掃に取り掛かった。バスルームも上から下まで徹底的に磨き上げる。


それが終わると洗濯物を乾燥機へと移し替え、乾燥を始め、続いて千堂のトレーニングルームと書斎へと移動した。ここは部屋だけでなく、トレーニング用の機器まで磨き上げる。さすがにそれには手間がかかり、三時間ほど潰すことが出来た。もっとも、実際にはトレーニングで汗を流す彼の姿を思い浮かべてたことで作業効率が大幅に下がったことも影響しているが。


人間で言えば妄想にふけってたとも言うべき時間を終えて、彼の寝室の清掃に入る。こちらも部屋の隅々まで徹底して磨き上げる。さりとて、どこもアリシア2305-HHSが完璧に管理していたものだから、埃すら皆無だったのだが。


それらを終えると今度は自身の待機室に備え付けられた洗浄ユニットで再度自らを洗浄し、再び清潔な状態になると今度は洗濯物のアイロンがけを始めた。その後、リビング兼ダイニングの清掃を行い、最後にキッチンの清掃を行った。ここまででようやく夕方に差し掛かったのだった。


その時、アリシアに内蔵された電話に着信があった。千堂からの電話だった。あと二時間ほどで帰宅する予定だという。声に出さなくても通話出来るというのに彼女は思わず声に出して話してしまい、電話も持ってない、ヘッドセットさえ着けてない少女が一人で何者かと会話してるという少々異様な光景となった。


『千堂様が帰って来る!』


そして彼女は、上機嫌で夕食の用意に取り掛かったのだった。


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