悪魔の矛先
その昔、世界中が戦火に包まれていた時代。
ある山の山奥に、ひとつの小屋があった。
そこには、木こりをしている大柄な老人と、その孫娘である少女が住んでいた。
老人は日中外に出て木を切り倒しては、山の中腹にある村に木を売りに行って生活費を稼いでいた。
孫娘は、祖父が働きに出ている間家の仕事をし、人との関わりが苦手な祖父に変わって村人達との交流を行っていた。
その老人と孫娘は、年の離れた二人暮しながらも、仲睦まじく暮らしていた。
人付き合いの苦手な老人も、孫娘の仲介のお陰もあって村人達と良好な関係を築いていた。
そんな、ささやかな幸せに彩られた月日は、あっという間に流れていった。
時が流れ、少女であった孫娘は立派な女性へと成長し、山を降りた所にある街の男と恋に落ちた。
孫娘とその街の男の恋は発展してゆき、やがて二人は結婚を心に決めた。
孫娘と街の男は二人で祖父の元へ行き、結婚の話と、結婚をするに当たって、山を降りて二人で小さな店を開きたいという話を伝えに行った。
それを聞いた祖父は、孫娘が山を降りる事に初めは少しショックを受け、首を縦に振るのを躊躇していた。
しかし、二人の覚悟の程に気付くと、孫娘ももう子供ではないと実感し、二人の門出を祝い、見送る事を決意した。
翌日、二人は街へ降りる支度を終え、老人の見送りを受けた。
玄関先で手荷物の確認を終えた頃に、老人が孫娘に言った。
家の家訓を覚えているか、と。
それを聞いた孫娘は、一言一句違わず、その場で暗唱して見せた。
人の心には天使と悪魔が棲んでいる。
天使は人の心を正す。
悪魔は人の心を乱す。
天使は他人に囁いた。
悪魔は自分に囁いた。
【人を信じ、助けを求め、力を借りなければ、人は悪魔に心を乱されていくばかりである】という意味の言葉である。
孫娘は家訓を言い終えると、忘れた事はありません、忘れる事もありませんと、祖父にお辞儀をして見せた。
それを聞いた祖父も、ならば何も言うことはないと、背中で二人を見送った。
───────────────────
そんなある日、少年が一人、山の川辺を散歩していた。
その少年は、山の中腹にある村の村長の息子で、村の中では少しだけ浮いた存在だった。
少年の育った村は、自国の戦争の激化により、村人全員がいつこの村に飛び火するものかと気が気でなく、彼の父親である村長も、そんな村人達を纏めるのに気苦労の絶えない様子だった。
村長は日々、村の仕事に追われ、一人息子に愛情を注ぐ時間すら取れずに居た。
そんな詰め詰めの生活を送っている父に対し、少年はいつしか、わがままも、おねだりも、我慢するようになっていった。
村長の息子という事もあり、周囲の村人達は少し遠慮がちになり、子供達の間で仲間に入れて貰っても、話題のおもちゃや絵本も持って居らず話についていけなかった。
そんな彼が、村の間で浮いた存在になるのも、ある意味必然と言えた。
一人で過ごす事が増えた彼は、次第に一人で散歩をする事が増えた。
そして今日もまた、いつものように一人で川辺をブラブラと歩いていた。
そんなある時、彼は小さな小石に躓き、鋭利な岩に腕をぶつけ、右腕の外側を大きく切ってしまった。
少年は、生まれて初めて経験する痛みと、生まれて初めて経験する量の出血に狼狽えながら、自分の家まで走った。
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村では、皆、どこか緊張した面持ちをしていた。
というのもどこからか、
この村に敵国のスパイが潜んでいる
という噂がたち、広まっていたからである。
お互いがお互い、表面上はそれとなく接して居るものの、皆が皆を信用出来ない状態でいた。
そんな中、川辺側の方から、ざわめきが起こった。
村長の息子が、腕に怪我をして帰ってきたのである。
村人達は皆、怪我をした少年の姿を見ながらも、手を貸せずに居た。
村人達の心の内には、純粋に心配な気持ちを越すだけの、疑心に溢れていた。
もしかしたら、村長が敵国のスパイなのかもしれない。
だから、息子である彼が、自国の軍に狙われたのではないか、と。
腕を抑えて走る少年の姿を、そこに居た全員が、見て見ぬふりをした。
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当然、村長宅は大騒ぎとなった。
村長は腕に傷を付けて帰ってきた息子の姿を見て、仕事をほっぽり出し、大慌てで息子の元へ駆け寄った。
家にはすぐに医者が呼ばれ、少年はそのまま治療を受けることとなった。
しばらくすると、少年は腕に包帯を巻いて部屋から出てきた。
村長はほっとしながら、息子に何があったのかを問いただした。
すると少年は、村長から少し目線を外してこう言った。
山奥で一人木こりをしている、あの老人に斧で切りつけられた、と。
少年にとって、それはちょっとした嘘だった。
ただ、転んで怪我をしたと伝えるよりも、より深く心配して貰えると思っただけだった。
少年は、自分のために他人を犠牲にするという事の残虐さを思える程、心が成熟していなかった。
ただ、心配されたかった。
自分の為に、思考や時間を割いて欲しかった。
そんな、純粋な思いだった。
その言葉を聞いた村長は仰天し、しばしの間、考えを巡らせた。
そしてしばらくして、自分の秘書に、内密にあの老人の事を調べるように、と伝えた。
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それから数日が経ち。
村では、どこから漏れたのか、木こりの老人が村長の息子に斧を振るったという話が村中に流れていた。
そして、また更に数日後。
噂に尾ひれがつき、今度は木こりの老人が敵国のスパイであるという噂がたっていた。
老人がいつものように木を売りに行くと、村人達の視線をいつにも増して強く感じていた。
そんなある日。
老人が仕事を終え、家に帰ると、家の外壁に張り紙や落書きがされていた。
老人は少し驚きながらも、村の悪ガキの仕業だろうとあまり気に止めていなかった。
そしてまたある日。
今度は彼が一人で食事をしていると、窓から石が放り込まれた。
老人は怒り、窓の外へ怒鳴った。
すると、老人の顔を目掛けて握り拳大の石が飛んできた。
その石は老人の額へと直撃し、眉間を深々と抉った。
ふらつきながら窓の外をみるも、そこにはもう、人の姿は無かった。
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老人への嫌がらせは次第にエスカレートして行き、ある時は家の中をめちゃくちゃにされていたり、ある時は自前の斧を折られていたり、またある時は売る為に積んでいた丸太に火を放たれた事もあった。
老人はどこに敵が居るか分からない状況に、恐怖で押しつぶされてしまいそうだった。
嫌がらせはその後も続き、村へ降りた途端に石を投げつけられたり、寝ている間に枕にナイフが突き立てられていたりと、もはや老人にとって、逃げ場が無くなっていた。
老人は、どこから襲われるか分からない恐怖から、仕事もまともに手がつけられずにいた。
ふさふさと生え揃っていた髪の毛は徐々に抜け落ち、食事をとっても毒が混ぜられているかもという恐怖ですぐに戻してしまい、屈強だった体はどんどんとやせ細っていった。
外を出歩き、村の人間に出くわすと、襲われかねないという思いから、声を上げて威嚇してしまい、ついには、斧を抱かずして眠りにつけなくなってしまった。
そんな老人の様子の変化が、より一層、村の噂を強固なものとしていた。
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そんなある日、村長の息子の少年は、いつものように川辺を歩いていた。
少年は、ため息をついていた。
自分の嘘で、父や村の皆が自分の事を心配してくれると思っていたのに、攻撃の矛先ばかりが木こりの老人に向き、いつしか噂の根元であるはずの自分の事だけが忘れ去られていっていた。
もはや噂の元など誰も覚えては居なかった。
少年としても、再び誰にも構って貰えない生活へと戻っていた。
そんな事を思いながら、ふらふらと歩いていると、ついこの間、転んで怪我をしてしまった場所に辿り着いた。
その尖った岩を見ながら、自分の事に思いを巡らせていると、その岩の陰から、大きな人影が姿を現した。
その人影と、少年の目が合う。
それは、他でもない、木こりの老人だった。
村で買い物が出来なくなった老人は、川へ魚を取りに来ていた。
お互いに、全く面識は無かった。
老人は、魚を取りに来た自分に危害を加えに来たのだと思い、怯えながら斧を握りしめ、鼻息を荒くし、歯を食いしばった。
少年は恐怖で固まり、一歩も動けなくなっていた。
しかし、今の老人には、少年のそんな姿も、いつ岩陰に隠れている仲間に指示を出そうかと、楽しみにしているように見えていた。
もはや正常な判断など出来なくなっていた老人は、半狂乱になり、大声を上げながら、ただ、身を守るために、
少年に向かって斧を振り下ろした。
斧は、少年の右腕の外側を深々と切り裂いた。
そこで初めて、少年の足は言うことを聞くようになった。
必死になって村へ走り、あの日と同じように、自宅へ駆け込んだ。
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その翌日、村長の連絡により、山を降りた街から呼ばれた衛兵達が、老人の住む小屋へと向かった。
正気を失っていた老人は、家を尋ねた衛兵達に斧を振りかざし、その場で射殺された。
老人の血飛沫によって赤く染まった壁には、その家の家訓が掘られていた。
人の心には天使と悪魔が存在する。
天使は人の心を正す。
悪魔は人の心を乱す。
天使は他人に囁いた。
悪魔は自分に囁いた。
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